降り頻(しき)る雨――。


 月の見えない、曇天の空――。


 昏(くら)き地に不自然に聳(そび)えるビル群――。


 闇へと墜(お)ちたこの地を這う道の上に、一台の車が在った。濃い目のグレーメタリックに彩られたワゴンボディのその車は、公道を走るには速過ぎるスピードで同じ道を回り続ける。そう、深夜のこの場所に集うのは俗に「走り屋」と呼ばれる人種であり、この車を駆るドライバーもその一人だった。
「…………。」
 こういった場所としては然して人の集まる方ではないが、今日は雨が降っている所為か、普段にも増して他の車が少ない。
「…………。」
 ――いや、それにしても、余りにも少な過ぎやしないだろうか? まるで、自分以外誰もこの場所には居ないかのような――。
「…………ッ!?」
 自分だけが空間から切り取られてしまったかのような、そんな違和感を感じた瞬間だった。バックミラーに目映(まばゆ)いばかりの光が映る。ドライバーの青年がそれを覗き込むが早いか否や、後方から一気に迫って来たエキゾーストノートに、彼の耳は劈(つんざ)かれる。
「……こいつ、まさか……ッ!?」
 青年の車が奏でる、不整脈のような独特の音色はないが、逆光の中で浮かび上がるシルエットは、自らのそれと同じ姿をしている。
 だが、同一車種とはとても呼べないほどの力の差が、二台の間にはあった。自分の車の倍、いや、それ以上出ているのではなかろうか? 彼自身もこのコースのストレートセクションを全開で走っている最中だったにも拘(かかわ)らず、それを意にも介さないかの如く一瞬の内に食らい付いて来た。
「無理だ……。敵(かな)う筈がない……ッ!」
 思わず口走る言葉は冷静な判断を下しているのに、体がいう事を聞かない。
 ――追え。何としても追うんだ――。
 或いは彼に根差す本能がそう囁(ささや)いたのか。見開いた目は道の彼方を凝視し、何かを恐れるかのようにステアリングを必死で握り締め、アクセルに掛かる右足に力を込めてそれから逃げようとする。
「くッ……! うおおおぉぉぉッ!」
 しかし、圧倒的な力を持った猫に対して、窮鼠(きゅうそ)は余りにも無力だった。ドライバーの底力だけでは如何(いかん)ともし難い力の差。噛み付く余地すら与えられず、その車は銀色の車体を街頭の光で輝かせながら、眼前へと出(い)で来たる。
「待てよ……逃げんなよ……ッ!」
 悔し紛れに請う青年を嘲笑うかのように、自車と同型のテールランプはみるみる遠ざかって行く。そのスピードは、追い縋れるかもしれないという甘い夢を打ち砕くに充分過ぎるものだった。理不尽とまで思える仕打ちを受けて、心境は最早子供のように泣きじゃくりたい気分だ。
――それでも、青年はアクセルを抜かなかった。
「……だって、悔しいじゃないか。俺が見た事のない力と走りを一方的に見せ付けられて、そのまま逃げ去られるだなんて……。だから、例え今は敵わないと分かっていても、追わずには居られない。いつか俺があんたに敵うだけの速さを得て、一矢報いる時の為にもね……ッ!!」
 「いつか」が来るかどうかなんて分からない。しかしながら、同一車種であった事に共感か、若(も)しくは反感を抱いたからか、既に負け戦と知りつつも、青年は銀色の車を追った。ストレートでもコーナーでも、走れば走るだけ絶望の淵(ふち)に落とされるというのに――。


 あの特徴的なエアロ――。走るS201を見るのは初めてだけど、それがまさかこんな形になるとはね――。 






「…………ん……。」
 まだ意識が戻らぬ内から、右手がいつもの習慣で枕元に置いてある筈の携帯を探す。目を開けると、液晶画面に映し出された7:29の数字が飛び込んで来る。
「うわ、何だよ……。」
 アラームをセットした1分前。此処から微睡(まどろ)んでしまっては遅刻は免れ得ないものの、それ無しでの起床を強いられるのもなかなかに辛いものだ。渋々ベッドから出ると、間もなくアラームが鳴り出す。その音に神経を逆撫でされて気分は良くないが、お陰さまで目はすっかり覚めた。淡々と身支度を整えながら、今日もいつも通りの一日が始まった事を実感する。


 駐車場では自らの愛機が自分を待ち受けていた。とはいえ、見慣れた車と光景だ。特別な感情を抱くシーンではない。イグニッションを捻るとやはり聞き慣れた水平対抗のサウンドが住宅街に響く。そこから大した間も置かず、車を発進させる。
 暖気という言葉は知っている。昔はきっちり数分間やっていたものだ。だが、いつからだろうか、そういう事を気にしなくなったのは。真冬の厳寒でもなければ、すぐにアクセルを踏んでしまう。寝坊をする事は滅多にないし、時間には余裕があるように動くよう心掛けているのだが、朝の出勤前という時間帯が気を急かすのか、ついついすぐに車を出したくなってしまう。
 その逸(はや)る心が報われる事は先ずない。9時出勤という最も一般的な出社時刻では、先を争う車は数知れず。比較的人口の多い地域に住まう自分は、渋滞に嵌(はま)るのが毎朝の定例行事だ。
 そういえばこの車は280ps出ているんだっけ――。自主規制値などと謳われていたのも今は昔。400psオーバーの車も国内で市販されている時代とはいえ、2リッターでこれだけの出力のある車が今の自分に維持出来ている事自体、世界的に見ても奇跡と言っても言い過ぎではない。
 日本の車好きならば、280という数字に如何なる意味があるのか、すぐに分かる。そんな車を自分が所有している事で悦に入ったとしても、然程行き過ぎという事はないだろう。
「ったく。毎朝の事とはいえ、楽しいもんじゃないよな。渋滞ってのは……。」
 ――連なる数多の車の中に紛れた今の自分に、感ずる事などない。スポーツカーとして生産され、スポーツカーとして求めたこの車だが、今や街乗りと同じレベルの用途しか求めていない自分が思う所など、とっくに失(な)くしていた――。
「だって、ワゴンだもんな。」
 ポツリと呟いたその言葉は、誰に対する言い訳だったのだろうか。




 「OSD」という社名を聞いてすぐに思い当たる人は、かなり高い確率でこの業界の人だ。俺の働くこの会社は、工作機械用の刃具を取り扱うメーカーで、一般の人には馴染みが薄いだろうが、業界の中では大手に分類される会社だ。抱える従業員の規模も大きく、大企業と呼んでも差し支えないだろう。
 ジャンルとしては製造業だが、俺自身は技師ではなく、営業職の社員である。製品の入れ替わりが比較的激しいので、その度に刷新されるカタログを置きに行くのだけでも、結構忙しい。


 どうやら俺は、傍目からすると外交的で、営業向きに映るらしいが、実の所俺本人は営業など好きではない。相手と話を合わせる事は比較的得意であるのでそう映るのかもしれないが、見ず知らずの人間、しかも商売相手のお客さんで気を遣わねばならない相手と会う事が、心の底から好きだと言える人間など、そうそう居ないだろう。


 それでも始めの頃は営業も楽しかった。成果が上がれば見返りもあったし、遣り甲斐を感じて熱を上げていた時期もあった。
 しかし、いつしか会社の規模の大きさ故の個人の小ささばかりに目が行くようになり、今ではその情熱もすっかり冷めてしまっていた。ただ無為に過ごしているようにしか思えない日々の生活が、楽しい筈もなかった。




 そんな中でも、今日は割と気楽な方だった。差し当たっての目的地は、稲城エンジニアリングという常連の工場。行き慣れた場所であるので、それほど気を遣う事もない。何故か営業車のみならず、悉(ことごと)く他の車が出払ってしまっており、自らのインプレッサワゴンで来なければならなくなったのは、奇(く)しくもと言うべきなのかどうか分からないが。
「ちわー! OSDです〜! カタログ置きに来ましたぁ!」
 こういう工場には場慣れしている。油の匂いに、けたたましい機械音。それを掻き消す程の大声で叫ばなければ、気付いてもらえない事も。普通の人なら一緒くたの上に顔を顰(しか)めかねないこの空気を、俺はいつしか嗅ぎ分けられさえするようになっていた。
 それ程多くない工員の中でも手前の方で作業していた中年の男性が、態(わざ)とらしく横柄な態度で追い払う手振りをする。
「今日は専務居ないぞ。帰った帰った!」
 俺はそこで、笑みを溢(こぼ)す。慣れているからこそ、その素振りが滑稽(こっけい)に見えるのだ。
「いやいや、御子柴(みこしば)さん。超硬チップ二割引き中ですよ? 見逃せねぇでしょ?」
 営業が目的であるのだから、売り込みは当然だ。決して安くはない超硬チップの割引きは、相手にとっても魅力的な事は間違いない。ともあれ、俺からすれば定例行事とも言えるこのやり取りが気晴らしになっているのだが。
「稲城エンジニアリングは零細企業なの。ハイスのバイトをちまちま研いで使うのヨ。今みんなチップタイプになっちまってるからなぁ。送りは上げられっけど、微調整効かんで困るわ。ウチはそんなに量産系ってワケじゃないしねぇ。」
 先に言われた通り、専務は不在だそうなのだが、次点に来るのはこの御子柴さんであり、俺にとってみればその方がラッキーだった。何となく、御子柴さんとは馬が合うような気がして、話し易い。だからこそ、俺も積極的になれるのだ。
「まぁまぁ。取り敢えず読んで下さいな。機械売れなくなっちゃって、細(こま)いので食い繋ぐしかないんすから。」
 尤(もっと)も、それが営業において成功に繋がるとは限らないのだが。
「しゃあねぇなぁ。んじゃ、渡しとくわ。」
 余り思わしくない反応だが、俺が落ち込む事はない。そもそも、営業とはそんなに簡単に良い反応が得られるものではないのだ。事実、その後に続いた言葉の方がよっぽど明るく聞こえた。
「ところで……今日はもう終わり?」
 不意に訊かれた俺は、素直に答える。
「いんや、あと二件なんですが……。でも明日にしても良いかもですね〜。腹減ったし、もう。」
 しかも、残り二件は稲城エンジニアリングに比べれば遥かに行き慣れておらず、必然的にそれ相応の気も遣わねばならないので、余り気が進まないのが本音だった。
「ふーん……。あれ、随分熱い営業車だなぁ。青山くんの?」
 すると、表に停めてあるクールグレーメタリックのマシンを指差される。いつかは指摘されるであろうと思っていたのだが、いざ言及されると気が引けてしまう。
「済んません、餓鬼(ガキ)みたいなので乗り付けちゃって……。ADバン車検で、支店長のアルファード借りて来ようと思ったら、どっか出掛けてるみたいで、使えんのが無くてってでしてね……。」
 言い訳じゃないんですよ。本当なんですよ。そう訴えんばかりの自分こそが、逆に滑稽に映ったかもしれない。
 自分だって、こんな車で営業には来たくなかった。性能としてはノーマルと大差ないのだが、見た目的には随分と派手だ。インチアップしたホイールに、下げられた車高。アンダースカートも追加し、図太いマフラーを備えたこの車を地味というのは、余りに烏滸(おこ)がましいだろう。極め付けとして奏でられる爆音は、車好きでなければ近所迷惑以外の何物でもない。
「良いじゃん。こーゆーの、俺結構好きよ?」
 だから、御子柴さんの食い付きが良かったのには救われた。幾ら慣れた相手先とはいっても、営業で来ているのだから、悪い印象を与える事は避けたい。
「マジですか? でも、今はあんま流行りじゃないでしょう。」
 思わず俺がそこで調子付いたのは、きっとそんな理由だったのだろう。
 それ故か、続く誘いに、無意識の内に少し構えてしまった。
「いやいや……流行りで乗るもんじゃねぇよ。こーゆー車は、さ。……ちょっと中見に来てみろや。」
 笑みは残しながらも、僅かに神妙な面持ちも含みつつ、御子柴さんは俺を奥へと手招きした。
「何か食わしてくれるんですか〜?」
 話の流れからして、食事が出て来る事は端(はな)から期待していなかったが、やっぱりその通りだった。
「いやー、食いモンじゃないけどさ……。コレコレ。」
 自身も機械工作関係の企業に身を置いている人間なので、金属加工にはそれなりの造詣があるのだが、それを抜きにしても、御子柴さんの親指が指し示す先にあるパーツは、見慣れた物だった。
「おぉ〜。ファンネルですか。NCで?」
 確かにこの程度の金属加工はお手の物だろうが、ファンネルともなると、流石に私物で作っているものだろう。
「仕事終わってからちょいちょいプログラム作ってたんだけど……。やっとお許しが出て機械使わせてもらえたわ。」
 訊けば私物も私物、自分の車用に作っているらしい。
「これは何の?」
「4A−Gだよ。昔から乗って弄(いじ)ってるハチロクのがあんのよ。」
 成る程。御子柴さんのイメージには合っている。
「ハチロクですかぁ。トレノとレビン、どっちですか? おっさん乗ってると決まりますよねぇ。」
 思えば軽率だが、その時の自分としては素直に誉めたつもりだ。
「オイオイ……喧嘩売ってるだろ、ソレ。ま、否定は出来んがな。ハチロクも今や、旧車もいいとこだ。」
 苦笑いを浮かべる御子柴さんだったが、別段悪い気もしなかったようだ。
「興味あんなら、今度見に来てみる? 連れも集まるから、結構面白いかもしれんぞ。そうだな……24日辺り、どうだ?」
 訊かれた俺は、一応携帯でスケジュールを確認するが、既に心は決まっていた。
「その日は……大丈夫ですね。行きます行きます! いやぁ、御子柴さんって、プライベーターだったんですね。俺、ちょっと感激ですよ! 家、どの辺なんですか?」
 最近は自分の車で走る事も殆どなくなっていたとはいえ、車への興味が完全に薄れてしまったわけではない。まだまだ人並み以上の関心は持っているつもりなので、こんな誘いは二つ返事で快諾する他ないだろう。――或いはそう思い込みたい気持ちが、何処かにあったのかもしれない。


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