― 1.邂逅Begegnung〜 ―

 

 

 千葉県幕張新都心――。整然としたビルや巨大施設が立ち並ぶも何処か閑散としたその光景は、(さなが)ら廃れた未来都市のような雰囲気を醸し出している。現実に居ながらにして、(あたか)も虚構の世界に紛れ込んだかのような錯覚…………。

 そして此処にはもう一つの“非現実”が存在する。昏き闇夜に誘われ、何処からともなく集う走り屋達。繰り広げられるスピードの競演。鋭く流れる景色は、時として自分の存在ですら飲み込んでしまいそうに感じられる。

 しかしただそれだけが走り屋達を此処へ誘う理由と言えるのだろうか。

 その先に何かを望むのか? その場に何かを期待するのか? 或いはその故さえも求めるのか? 彼らの眼前に映るのは無限に続く道か、それとも…………。

 

 

 深夜ともなると、ビジネス街である此処幕張は人も車も殆どいなくなる。その静寂を切り裂くかのように、幾つかのエキゾーストノートが木霊する。それ程数が多いわけではないが、幾台かの車そしてドライバーは毎晩のように人気のないこの街中を、決して普通とは言い難いスピードで走り込む。

 走り続けていると、ふと思う事もある。何故、此処を走っているのだろうかと。だが、自分自身それに言葉で答えるのは難しく感じる気はする。こんな公道で繰り広げる草レースに、生産的な事などある訳がない。それでも、無意味であるという事でもない。少なくとも彼にとっては。いや、もしかするとその理由を探しているのかもしれない。飽く事なきスピードの追求。それは自分自身の走る理由を見つける為なのか―――。

 確かに彼には一つの理由がある。ある雨の夜。まだ此処を走り始めたばかりの頃。彼は一台のインプレッサにぶち抜かれた。慌ててアクセルを踏み込んで追ったが、みるみる内にその姿は雨粒よりも小さくなり霞んで消えた。そして、それがそのインプレッサとの最初で最後の出遭い。それ以来、もう一度あのインプレッサと会う為に此処を走り続けたが、その姿を見るどころか、噂すら殆ど聞く事もないまま、気付けば1年の月日が経っていた。あれは幻だったのかもしれない。自分ですらそう疑ってしまう事もあるが、あの時の強烈な印象がその疑念を打ち消す。今なら――今ならあの時の二の舞は踏まない。今度撃墜するのは、自分の番だと、そう言い聞かせ続けながら、彼は記憶の影を追い続けている。

 だが、どうして自分はそうまであのインプレッサに拘り続けるのだろうか? 確かにいとも簡単に置いて行かれるほどの性能差や実力差があったのは間違いない。それでも、そこまで執拗に追いかけているその理由は、やはり自分でも分かりかねる部分がある。彼は、いつかそれを見出す事が出来るのだろうか?

 

 

 様々な想いの交錯する現実と夢の狭間。そして今夜も幕張はもう一つの姿へと変貌する――。

 

 

 

 

 立ち並ぶビルの窓の灯りは殆ど消えている。街頭は数多く点在しているが、寧ろ空の方が月明かりで明るく見えるほどである。その街頭と月明かりに照らされたとある喫茶店の横に、ひっそりと、隠れるようにしてそれは在った。GF8、インプレッサワゴン。低く、地に張り付くようにして静かに佇むそれは甲虫のように、淡い光をてらてらと返しながらその身を小さく震わせている。重量感のある、暗い銀色の体躯に秘める獰猛な牙を納め、主人の許しを待つその姿に、”ワゴンボディ”という言葉から普通連想される”手軽さ”や”道具”といった特質を窺い知ることは出来ない。

 その獣の前に、一人の青年が立っている。20台前半の、外見的には特にこれといった特徴のない青年。彼こそが、その主人――青山(あおやま)敏行(としゆき)だった。彼は時折、手や足を落ち着きなく動かすことで、苛立ちの感情を表現している。

 やがて、喫茶店の裏口から、背の低いショートカットの少女――神崎(かんざき)美由(みゆ)が慌てて飛び出して来る。

「ごめーん!」

「やっと来たかー。」

 敏行がさも不満そうに言う。随分と待たされていたようだ。一方の美由はまだ半分寝ているような顔をしている。

「中途半端に寝ると、逆効果だよ?」

 相変わらずやや不満げに敏行が言う。

「そうみたい……。」

 いかにも実感の声で(こも)った答えながら、美由はシートベルトを締める。

 それを確認すると、敏行はゆっくりとアクセルペダルを踏み込み、重く、湿った不整脈のような咆哮を放つそれを、静かに通りへと放った。

 

 

 

 

 期待と言うのは、専ら裏切られる事の方が多いのかもしれない。それでも、いつかその期待が現実のものとなる事を信じて止まない事もある。この場所――幕張の持つ、良くも悪くも異質な雰囲気。そこに行けば、何かが起こるのではないか、ドラマに巡り合えるのではないかと思うのは、此処に引き付けられる人間ならば至極当然の事なのかもしれない。時には自分が余りにも夢見がちなのではないかと思うような事があったとしても……。

 

 

 やがて、東の空が明るくなり始める頃には、響き渡っていた轟音も殆ど聞こえなくなり、街が動き始めるまでの僅かな静寂のひと時がやって来る。

 そんな中、幕張に数多く点在する空き地の一つに、1台の車と青年が佇んでいた。巨大な二枚羽のGTウイングが特徴的な真紅のセリカに凭れ掛かる彼――鈴本(すずもと)(ゆたか)は眼鏡の向こう、朝靄に揺れる色相の定かでない遠くの景色を眺めながら溜息をついた。

「ふぅ、つまんねぇな……。」

 走る事自体がつまらないわけではない。それに楽しみを全く見出せないようでは、この場所に来る筈もない。だが、一人でただひたすら走り続けているだけでは、自分の渇きを真に満たす事は叶わない。自分にとってドラマを見せてくれるような、そんな相手との遭遇を彼は常に望んでいた。

 しかし、今日もそんな相手と出会う事はなかった。豊はもう一度溜め息をつき、セリカに乗り込む。使い込まれたバケットシートにその身を沈め、ハーネスで固定。イグニッションキーに手を掛け、微かに耳へと届くフューエルポンプの作動ノイズを背にエンジンに火を入れる。愛機に魂を吹き込むその儀式さえ、何処か苛立たしげだ。

 その時、豊の耳に自分の3Sとは別のサウンドが飛び込んできた。通を気取る訳じゃないが、このエンジン音はすぐに分かる。……水平対向の音だ。 道路の方へ目をやる。やがて、グレーのインプレッサワゴンが一台通り過ぎた。インプレッサワゴン……普通に考えて、速さを求めるならワゴンボディを選択する理由はない。だが豊には、そんな概念を超えた直感のようなものが働いた。

 一瞬考え込んだ後に、

「行くか。」

 と一言呟いて、セリカを発進させる。道へと出て、アクセルを踏み込んで先程のインプレッサを追う。外観は車高こそ低けれどもノーマル然とした雰囲気。ただそれだけでは此処を走る奴なのかも判断しかねる。しかし……彼はインプレッサが視界に入った瞬間、その刹那に追わなければならない、そう感じたのだった。アイツはドラマを見せてくれる――そう誰かに囁かれるかの如く……。

 

 

 

 

 此処に集う走り屋達の多くが好んで走るのは、駅前の国際大通とその東に位置する公園大通を、北はカルフール幕張の前を通るハイテク通と、南はプリンスホテルの前を通る海浜大通とで結んだ周回コース。敏行達は今、そのコース上を走っていた。というのも、美由の家族が経営している喫茶店、“Tanz(タンツ) mit(ミット) Wolken(ヴォルケン)”は、公園大通に面した位置にあるからだ。普段は美由も自分の車で走りに行くのだが、今はチューニングの為に行き付けのショップに預けてある為、今日は敏行の車の助手席に乗せて貰っていた。そして美由もその喫茶店を手伝っているのでそこへ向かう必要があるのだが、加えて敏行自身も走りに行った日の朝はそこで朝食を取っている。彼は以前に此処でアルバイトをしていた事があったが、辞めてからもそのようにして頻繁に喫茶店を訪れていた。南欧風を基調としつつも、そこに固執しない自然なスタイルが彼は気に入っていた。

 既に公園大通に入っており、喫茶店は目前。敏行と美由は朝食のメニューについての話題で盛り上がっているところだった。

「……だから僕は朝食に珈琲ってあんまり合わない様な気がするんだよ。洋食でも。」

「そーかなぁ……目も醒めるし、私は好きだけど?」

「それは寝不足だからだよ……きっと……」

「あはは……そうかもねー……あれ?」

「何?」

 後ろからかなりの勢いで追い上げてくる一台の車に先に気付いたのは美由だった。後ろにつくとすぐにパッシングを繰り返す丸目4灯の車。車種を特定する以前に、その車が何を望んでいるのかは一目瞭然だった。ふいに、美由は表情を曇らせる。

「敏ちゃん、後ろ……。」

 美由のその呟きを聞いた為か否かは分からないが、敏行もすぐさまその車に、そのパッシングに気付く。当然、敏行にも後ろの車の目的は容易に分かる。敏行の表情も一変する。しかしそれは、真剣ながらも何処か自信に満ちたもの。

「好戦的な奴だね……。こんな時間まで残ってる車が、他にも居たんだ……。」

 それほど広くはない世界ではあるが、追撃してきた特徴的なセリカに見覚えはない。

「先ずは様子見と行かせて貰うよ……。幕張(ここ)を走る……その目的が違えば、進む道が同じでも共に走れはしないからね……。」

 ギヤを落とし、スロットルを開ける。GT−Rとも、ランエボともまた違う、トルクの盛り上がり。それがターボラグによるものだとしても、この陶酔感は他には無い。

「……アッサリ離れてガッカリさせないでくれよ。」

 内臓が浮き上がるかのような錯覚。加給器の助力を得、EJ20と名付けられた獣の心臓が、目覚める。

「行くぞッ!」

 

 

 喫茶店を横目に、2台の車は一気に加速して行く。暫くは高速コーナーが続き、そして周回コースの北東に位置する交差点が迫る。そこへ前を行くインプレッサが凄まじい速度で進入していく。瞬間、豊の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。

 

 

 ――真夜中の幕張。アフターファイアを残し、眼前を信じられないスピードで加速して行くSA22C。次に気付いた時には、SAは遥か前方へと遠ざかっていた……。

 

 

 インプレッサの突っ込みは確かに鋭かったが、群を抜いてというほどの事ではなかった。それに、彼の脳裏に蘇った光景は、現実に眼前で起こっているシチュエーションと全く同じというわけでもない。だが豊は、あの日始めて“彼”のSAと走った時と同じ衝撃を感じ取ったような気がした。それは共感なのか、それとも異質だからなのか……。

「こりゃあ……まるであの時みてぇな……。」

 確かめるかのように、自分の思いを辿るように呟く。

 左、右と緩いカーブが続いた後、テクノガーデンの交差点がやって来る。次はどう来るか……。期待すら入り混じったような感情が湧き上がって来る。しかし、インプレッサは先程よりも更に高い速度で進入を試みたかと思いきや、テールをズルズルとスライドさせながら、外側の車線へと車体を膨らませていく。豊は思わず拍子抜けする。

「オイオイ……。さっきに比べると大分崩れてるな……何でだ?」

 軽く舌打ちをした後、空いた内側車線へクルマを割り込ませ、国際大通のストレートを見据えてアクセルを踏み込む。

「終わらせるにはまだ早過ぎるぜ……ついて来いよ。あの呼び声は空耳なんかじゃない……それを証明してくれよ……。」

 踏める所で踏まないなどという、舐めたマネなどするつもりはない。ついて来れるか来れないか……それは相手次第。自分はただ走るしかない。それでも、ここで離れられてはあまりにもつまらない。豊は、自分の直感を信じていた。まだまだ、これからだと……。

 

 

 セリカが猛然と加速して行く。少なくとも馬力においては相手の方にアドバンテージがあるようだ。しかし、敏行は未だに不敵な笑みを浮かべたままだった。

「パワーは上ってわけか……上等だね。その方が追い詰め甲斐があるってもんだよ。仕掛けて来たのはそっちなんだから、楽しませてもらわなくっちゃな……。」

 4つの交差点を除けばかなり直線的なこのコース。パワー差というのは僅かでもあっても致命傷になり得る。1km以上に及ぶストレートの続く国際大通では特にだ。

「まだ一般車は出始めみたいだからねぇ。逆に辛いかも。」

 美由の言う通り、寧ろ一般車が居た方が後追いの立場の者には有り難いのかも知れない。だが、辛いなどとは毛頭思っていない敏行は、それに対して微妙に噛み合わない回答をする。

「こんな時間にバトル仕掛けてくる奴なんて、そうそういないよ。全く、とんでもない奴に出会ったもんだよ。」

 相変わらず笑みを浮かべたまま、敏行は言葉を続ける。

「でも、売られたバトルは買わないと、相手が速い奴なのかどうかも分からないんだけどね。」

 敏行の走りにおけるこういう言動を美由は見慣れているらしく、苦笑いのような何とも言えない表情を浮かべている。

「また、そんな余裕かましちゃってぇ。ホラ、セリカがどんどん離れて行くよ?」

 その通り、前を行くセリカとの差は確かに広がって行っている。敏行の目が先よりも少し座った。

「そうだな……まぁ、見ててよ。」

 

 

 幕張海浜公園の交差点が近付く。200km/hを遥かに超えたスピードから突っ込む直角コーナー。4つある交差点の中でも最もブレーキに負担の掛かるポイント。そして辛いのはドライバーにとっても同じである。公道の交差点であるという事も含め、いやらしい低速コーナーと言える。豊も此処を走ってそれなりになるが、なかなか恐怖心を拭う事は出来ていないようだ。

 若干眉間にシワを寄せながら、ブレーキに足を掛ける。目一杯突っ込もうという思いとは裏腹に、体は思わず早めに右足に力を入れてしまう。バトルという緊張した状況の中で、その二律背反はより顕著なものとなる。セリカは前傾姿勢へと移り、じんわりと減速して行く。

 後ろからインプレッサが迫るのが分かる。ストレートでつけた差から、まだ減速するポイントにまで至っていないからであるというのは分かっているが、どうにも豊は焦りを感じずにはいられなかった。早く減速しろよ……何故か相手に対してそんな事を思ってしまう。だが、豊の願いは通じない。インプレッサはぐんぐん間を詰めてくる。そう、インプレッサは豊が減速したポイントを超えて尚ブレーキングに移っていないのだ。

「なッ……!」

 豊は一瞬思わずバックミラーに映る光景に釘付けになっていた。一気に減速体制へと移りコーナリングに突入するインプレッサ。先の時のように大きめのモーションではあるが、動きが明らかに違う。――速い。バックミラーからインプレッサの姿が消える。直線から直線へ、その僅かな接続区間である交差点内で、インプレッサは豊の横につけた。その差、数センチ。相手に退く気が全く無い事を悟った豊は咄嗟に走行車線を譲る。ここで無理をしても二台揃って自爆するだけだ。危険過ぎる。焦る豊の心の内を見透かしたかのように、悠然と割り込んでくる銀色の車体。

「そんなッ……ストレートであんだけ差をつけてたってのに……ッ!」

 ストレートでの差は小さくはなかった。しかし、たった1つのコーナーだけでその差を消されるどころか、形勢逆転までされてしまうとは。彼も自分の突っ込みが多少甘かった事に対する認識はあるが、それよりもインプレッサのオーバーアクションにも見えるようなコーナリングには、驚きを隠せなかった。まさに一触即発。それは神懸かりのテクニックなのか、それとも単に、乗り手が命知らずの大馬鹿野郎なだけなのか……。

「くそッ!」

 頭をぎる考えに自分で苛立つ。そんな事はどちらでもいい。どうであっても現状が変わるわけではない。豊は、焦りがじわじわと自分の胸の内を満たしていくのを感じていた。

「――まるであいつと出遭ったときのような……。いや……あいつとは少し違う気もするが……。……だけど同じだ。この、未知の生物にでも出くわしたかのような感じは……。」

 豊にとって、今までに共に走った事のないタイプの走り手。前を行くインプレッサは、自分の理解を超えた存在にすら感じられるのであった。

 

 

 敏行の走りは、少なくとも今の所は確かに自信に裏打ちされた結果をしている。まだ1周も回らない内に既に前後が2回入れ替わっているが、敏行は精神的優位を崩さない。そして、その隣の美由も、やはり浮かない表情を崩してはいない。

「でもさぁ、あんな無茶な突っ込みなんて、結局はクソ度胸だよね。」

「クソ度胸か……そうかもしれないね。でも、そういうのだって必要でしょ。公道を走るには、それなりの覚悟も必要なんだからさ。」

 暫く、美由が沈黙する。

「……まぁ、あっちは敏ちゃんほどの“クソ度胸”はないみたいだけど。」

「そうだね。だから今の段階じゃ、僕は負けないよ。それは自分の技術への自惚れじゃなく、公道を走る事に対する絶対的な自信としてね……。」

 二人のテンポも相変わらずである。美由の表情は勿論、声色も、噛み合わせが微妙にずれたままの意識に苛立ちを滲ませていたが、敏行はそれに気付く様子もない。美由は、それ以上は心の中で敏行に告げた。

 ――でも、度胸は度胸。そんなもの、なくて良いんだよ。……ううん、ない方が良いんだ……。

 

 

 

 

 それより少し早い時間――。喫茶店Tanz mit Wolkenの脇に一台のSA22C RX−7が停まった。中から現れた癖毛の男は、車にロックをするとすぐに店内へと入って行った。

「あら、おはよう。相変わらず客の居ない時間を見計らって来るわね〜。」

 入り口付近を掃除していた女性が、男が入って来たのを見て声を掛ける。

「ハハ。おはよう御座います。そういう性分なもんでね。」

 男は笑顔を浮かべながら答え、2階へと続く階段を登って行く。よほど混んでいる場合を除けば、Tanz mit Wolkenは基本的に2階が客席となっている。男が階段を登ると、カウンターの向こうに居る、長めの髪を後ろで括った中年男性が彼に気付く。

「お、歌野か。今日は早いな。」

男の名は、歌野孝典。豊にクルマを、そして走りを教え、その世界に引き込んだのは他ならぬ彼である。そして、カウンターの所に居るのがこの店のマスターの神崎悠一(ゆういち)、先の女性が神埼(かえで)、つまり二人は夫婦であり、その子供は美由というわけである。

「そうみたいですね。今日はまだ敏も来てないみたいだし。」

 そう言いながら孝典は適当な位置の座席に座る。敏行が来る日は大抵、敏行の方が先に来ているのだが、今日は孝典の方が早かったのである。

「いやぁ、今日は豊に明け方まで付き合わされちゃって、流石に疲れて……。濃い目の一杯、頼みますよ。」

孝典の言葉に、悠一が反応する。

「豊?」

 注文ではなく、その前の言葉が悠一には気になった。

「ああ、そうか。悠一さんは知らないんだっけ……。あいつ、この店に来た事ないもんな。」

 一つ間を置いてから、孝典は豊について説明し始める。

「ちょっとした経緯(いきさつ)で知り合った奴でしてね。セリカ乗りの。それ以来、何かとつるんで走る機会が多いんですよ。でも、なんか最近は自分の納得した相手に会えないらしくて……。で、俺が連日標的ですよ。俺もアイツと走るのは好きなんですけど、流石にな……ってくらい、一緒に走らされてましてね。今日もそんなだったわけですよ。」

 孝典は少し苦笑いを浮かべる。それを聞いて、コーヒーを淹れる準備をしながら悠一が答える。

「成る程な。でも、珍しいじゃないか。お前がそうまで走りに付き合うなんて。見込みあるってわけか?」

 孝典は左手を振ってそれを否定する。

「そんな偉そうな事じゃないですよ。単に……俺も楽しいんですよね。豊と走ってると。」

 少し間を置いて、言葉を続ける。

「思うに……豊は敏と通じる所があるんじゃないですかね。何かを求め……そしていつか必ずそれに追いつける事を信じて走り続ける。走り屋の世界なんて結局は無秩序。けど、だからこそ生まれるドラマもある筈です。ならば、もし敏と豊が出遭うような事があれば、それは間違いなく何かの序奏曲(プレリュード)となるでしょうね。」

 いつしか、悠一は手を止めて孝典の話を聞いていた。二人とも、それがその暫く後に現実のものとなる事など知らずに……。

 

 

 

 

 二台は前後を入れ替えないまま、再び国際大通のストレートへと差し掛かっていた。交差点などのコーナーでは引き離されるものの、豊は高速セクションでパワー差を活かして何とか食いついていた。そして、このコースで最も豊とセリカの方にアドバンテージのあるセクション、駅前ストレートがやって来た。勝機を見出すにはここしかない。豊は、スクランブルブーストのスイッチに手を掛ける。ブースト計の針が更に振れる。底よりも深く踏み込むようなつもりで、アクセルを踏み込む。インプレッサはブロックをして来るような素振りも見せない。力を増したセリカは再びインプレッサの前に立つ。だが、豊の表情から緊張は抜けていない。もはや、技術的にも精神的にも限界が近付いているのは明白だった。

「最初に感じた直感は、そういう事だったのかよ……。」

 インプレッサを見た時に感じた漠然とした直感。それは今思えば、相手の放つプレッシャーを感じ取ったからだったのかもしれない。そして気付かされる。今まで何処かで自分を欺いていた事に。ドラマと呼べるほど激しいバトルを繰り広げたとしても、自分が敗北する結末はないと思い込んでいた部分も否めない事に。

「それこそ夢見過ぎってもんだ……。勝てる気がしねぇ。こんなバトルこそが、ドラマと呼ぶに相応しいんじゃねぇか……。」

 バックミラーの視界で徐々に小さくなって行くインプレッサから放たれるプレッシャーは、ますます大きくなって行くようだった。

 

 

「くっ、離されてるかな……。」

 一気に離れて行くセリカに、流石の敏行も分の悪さを感じているようにも見える。

「そうだね。ここの直線も結構あるからね。」

 美由が念を押す。しかし、敏行の表情にはすぐに自信が帰って来る。

「なぁに、逃がしやしないよ。すぐに捕らえて……そして突き放すさ。時間的にも長引かせるわけには行かないしね。きっちり決めさせてもらうよ。」

 そして、聞こえる筈のない前のセリカに対して告げる。

「逃げられる内に出来る限り逃げといた方が良いさ。だけど、どんなに逃げようとも、僕は必ず追い抜いてみせる……。」

 ストレートの終わりは近付いていた。

 

 

 2回目の海浜幕張の交差点。今回も差をつけた状態でセリカが先に差し掛かる。しかし、最初の時で更に増してしまった豊の苦手意識は、更なる緊張下でもろに悪影響を及ぼす。それでも辛うじてコーナーをクリアして行くセリカを、インプレッサが突っ込みで猛追して来る。豊もそれは覚悟していた。だが、今度は前に出すわけには行かない。最低でもここで前をキープしておかなければ、既にこのストレートで目一杯スクランブルブーストを使ってしまったセリカにも、そして豊自身にも、これ以上ついて行く余力は残っていなかった。負けたくない、その意地だけが豊を突き動かす。

「ここさえ逃げきりゃ……。抜かすかよッ!」

 遂に2台が並んだような形になる。コーナリングスピードはインプレッサの方が速い。だが、セリカは何とかインをキープし続けた。立ち上がりのラインを塞がれたインプレッサは、セリカよりも先にアクセルを開ける事が出来ない。そして、その代わりにセリカが立ち上がる。

「っしゃあ!」

 思わず声を上げる豊。インプレッサは確かに後方にいる。結局ストレートでつけた差は殆どなくなってしまったが、ここで前衛を保てたのは大きい。少なくとも、さっきよりはマシな状況にあるといえる。

 それでも、豊が一気に優位に立ったとはとても言い難かった。400mにも満たない短いストレートの後には再び交差点が待ち構え、その先はうねるように続く高速コーナー群。すぐ後ろにはインプレッサがピタリとつけて来ている。もはや恐怖とも言うべき状況と化していた。ミスも誘発してしまうが、比較的狭い道幅に助けられて前をキープしている状態。豊自身にも、いや豊自身が最も分かっていた。あのインプレッサが自分よりも格上である事を、自分には勝てる相手ではない事を。

「それでも……それでも負けるわけには行かねぇんだ!車で……負けるわけには……ッ!」

 単にプライドの一言で片付けられるようなものではない。車とは、彼にとっては……。

 

 

 セリカの動きからは、相手が相当焦っている事を容易に見て取れる。

「大分曲がりが鈍くなってるね、あのセリカ。……行けるな。」

 狙いを定める。行くのは次の直角コーナー、北東の交差点。少しだけセリカとの距離を開ける。もっとも、此方から何か仕掛けていくつもりはない。特に公園大通に入ってからのセリカは、確実に攻めが甘くなっている。恐らく、抜くのは容易いだろう。

 そして実際その通りとなる。コーナー入り口からアンダーを出したセリカはクリップからどんどん遠ざかり、インはがら空きとなった。優に車一台分あるその隙間を、インプレッサは難なく通り抜ける。加速に入るのも圧倒的にインプレッサの方が速い。

「もう、あっちはガタガタだね。」

「ああ。もう、幾らもしない内に引き離せるだろうな。」

 明確な情報源のない走り屋の世界では、良くも悪くも噂というものがすぐに立つ。敏行も、そんな噂を囁かれる者の一人だった。確かに噂になるのは誇れる事かもしれない。だが、それが絶対的な技術や速さの証明になるわけではない。それに、走り出してしまえばそんな事は関係なくなる。走っている間は、ただ相手よりも速く走る事、それだけを目指せば良い。それでも、例えお互いの技術力を確認し合えたとしても、実質的な勝敗は悟れたとしても、それだけでは満足出来ないという思いもある。目に見える確実な勝利というものを収めたい。もう他の走り屋も残っておらず、このバトルを見物している人間などいないような状況であっても。勝利の味をより噛み締めたいという、自己満足に過ぎないとしても……。

 

 

 前にも増して絶望的な状況になってしまった。前を走っている段階でも既に限界だったというのに、もう勝機は断たれたも同然だった。技術的に劣っている事も、否応なしに認めざるを得ない。それでも、豊は力尽きるまでアクセルは抜けなかった。自分で始めたバトルを自分で打ち切りになど出来ないというのも勿論ある。だが、それ以上にこのバトルを終わらせたくないという思いも働いている気がした。だからこそ、追うしかなかった――。

 テクノガーデンの交差点。鋭く切れ込むインプレッサは、まるで遥か彼方へと消え去っていくかのようだった。インプレッサが幻になってしまわないように、豊は攻め込む。掛かる横G。車が旋回して行く。それでも、インプレッサは更に遠くへ行ってしまったような気がしてならない。逃げられる……いや、置いて行かれる。どうしようもない絶望感の最中、豊はアクセルを踏み込む。……だが、車は前へと進んで行かない。未だ残る横Gが、四輪駆動である事をものともせずに車体を回転させる。一気にタイヤスモークが立ち込める。

「戻れねぇ……完全に空転してる……ッ!」

 声を上げた時には、もう車は道に対して完全に横を向いていた。そして、水平対向のサウンドはもうかすかにしか聞こえない。豊は車を戻す事もせず、ハンドルから手を離してシートに(もた)れ掛かる。

「へっ。最後の最後は自爆かよ……。」

 自分を皮肉るかのように呟いた。

 

 

「終わったか……。」

 後方でハーフスピンしたセリカを確認した後、敏行はそう言い残した。終わってみれば共に走っていた時間など知れている。距離的にも、周回コースを2周とちょっと走ったに過ぎない。それは、まるで夢のように儚い時間。しかし、異世界へと迷い込んだその時間は、果てしないほど長かったようにも感じられる。現実に舞い戻った今、その夢の一時を思い返す。

 それでも、その夢に満足できない事もある。自分が見たい夢というのは何なのか。その夢を見たがる理由とは何なのか――。つまり、走る理由とは何なのか。その答えに、敏行は今回も到達する事が出来なかった……。

 

 

 

 

 随分と遠回りをしてしまったが、ようやく喫茶店へと帰還する事が出来た。いつものように、横の小道へと入る。すると、そこには既にSA22Cの姿があった。敏行は、その後ろにインプレッサを停める。

「歌野、今日はもう来てるんだ。早いな。」

「私達が遅かったんじゃない?」

 今日に関してはどちらもあるだろう。孝典はいつもよりも早い時間に来たし、敏行の方はバトルのお陰で当初の予定よりも遅れて来る事となった。どちらにしろ、孝典の方が敏行よりも早かったというのは、彼らにとっても珍しい出来事のようだった。

「ただいまー。」

 店に入ると、楓が出迎えてくれる。

「あら、お帰り。今日は派手にやってたわね〜。」

「あー、やっぱそう感じました? こんな時間になってからは、普通じゃ走る奴は殆どいませんからね。」

 店の前の道を通っているのだから、轟音は店にいる者達にはもろに聞こえる。楓がそう言うのも当然の事。そんなやり取りをした後に、彼らは2階への階段を登る。その足音を聞いて、悠一は逆に階下へと降りて行く。面子(めんつ)が揃った所で、朝食にしようというわけだ。階段で擦れ違った悠一と挨拶を交わして階段を登りきると、孝典も声を掛けて来る。

「やあ。」

「おはよう。」

「いらっしゃーい!」

 それぞれが声を掛け合うと、孝典の向かいの席に敏行と美由が座る。そしてすぐに、美由が口を開く。

「ねぇねぇ、歌野さん。聞いてよ〜。今日、私達帰り際になってバトル仕掛けられちゃったんだよ。」

 それを聞くと、孝典は少し得意そうな顔をして美由に返す。

「その相手、派手なGTウイングを着けた、赤いセリカだったろ?」

「え〜!何で知ってるの?」

 本気で驚いている美由に、敏行が解説する。

「そりゃ美由、僕達はこの店の前の道を走ってて、歌野はさっきからこの店に居たんだよ? 窓から見れば分かる事じゃないか。」

「でも、それだったらわざわざそんな言い方しないよね?」

 美由の言葉に、孝典が相槌を打つ。

「ああ。あのセリカのドライバーは、俺の知り合いなんだよ。鈴本豊って奴でな。ま、色々あって俺もアイツとよく走ってるんだ。俺だって、今日此処に来るまではアイツと走ってたんだよ。」

「へー、あのセリカも歌野の知り合いなんだ。いや、ホントに顔が広いよね。」

 孝典の説明に、敏行が感心する。孝典は幕張をかなりの間走っており、目ぼしい人物とは殆ど全てと言っても良いほど顔が知れている。あのセリカ――豊も、その内の一人だったというわけだ。

「アイツの事だから、自分から仕掛けて行ったんだろうな。で、どうだった? まぁ、その顔からして負けたって事はなさそうだが。」

「勿論。任せといてよ。」

 敏行が得意げに答える。

「やっぱりか。アイツは荒削りだし、追い込まれると焦るタイプだからな。」

 孝典は納得した表情を浮かべる。広い知り合いの中でも、豊に関しては孝典は特によく知っているようだった。

 

 

 一方その頃、豊はまだ周回コースの途上を走っていた。スピンしてから暫くの間は動く気になれず、車を端へと寄せた後にそのまま車内で呆然としていた。思い巡らす事は色々あった。敗因などは考えなくても分かる。バトルの間に嫌というほど実感出来た。そういった技術的な事ではなく、バトルの中で起きた出来事そのものを思い返していた。

 何も自分がこの場所で最速であるなどと思っていたわけではない。それでも、自分の技術にはそれなりの自信があった。そう簡単には負けるとは思わなかったし、負けるつもりも勿論なかった。それなのに、今回は完敗を喫してしまった。自分がまだまだである事を思い知らされたと同時に、この世界の奥深さも少し垣間見た気がした。自分がちょっと走っただけで簡単にトップを張れるような、そんな甘い世界ではない。分かっていた筈の事なのに、いつの間にかその事に自分の中で覆いを掛けていたような気がする。

「結構ゴールに近づけてたと思ってたんだけどな……。まだまだスタートからそう離れちゃいなかったってわけか。それでもな……。」

 それでも、負けた事は純粋に悔しい。自分から仕掛けて行ったバトルであった事も、それに見た目で判断するものではないとはいえ、やはりワゴンのインプレッサに負けてしまったという事も、それに拍車を掛けている部分はある。

 気分が落ち着いてからは、何となく周回コースをもう一度走ろうと思い立っていた。

「それにしても、調子崩しちまったかな……。オーバーレブはしてねぇと思うが……。」

 そんな事を呟いた時だった。脇道に、ついさっきまでこれでもかというほどに拝んでいたテールが見えた気がした。気になって、次の交差点でUターンして確かめに戻る。すると、そこには確かにさっきのインプレッサワゴンが停まっていた。ナンバーも同じである。そして、その前にも見慣れた車が一台。

「なんだ? ありゃ、歌野のSAじゃねぇか。どうなってんだ?」

(いぶか)しがりながらも、豊も空いている所に駐車し、そして二人が居るであろう喫茶店の前に立つ。

「そういや、歌野はいつも朝飯は行き付けのサテンで食べてるとか言ってたな……。」

 恐らく間違いない思いつつも、豊は店の前で躊躇していた。こういう店には入り慣れていなかったので、もし違っていた場合にはどうしようかと、気を揉んでいたのだった。しかし、決意を固めて店へと踏み込む。

「あら、いらっしゃいませ。」

 相変わらず入り口付近に居る楓が決まり文句を掛ける。しかし豊は緊張している為に聞こえなかったのか、無反応のまま階段を登って行く。別に店員の「いらっしゃいませ」にいちいち反応しない客は珍しくないが、豊の場合はなんだか動きも固いので、(はた)から見ればやや挙動不審である。見慣れないその客を、楓は目線で追っていた。

「まさか……泥棒?」

 恐らく可能性としては極めてゼロに近そうな不安を、楓は一瞬ちょっとだけ本気で抱いた。

 そんな事は関係なしに、二階では朝食を待つ三人が雑談に興じていた。そこへ現れる一つの影。普通に考えれば客であると考えるのが妥当である。美由は慌てて仕事の体制に移る。

「あ・・・いらっしゃいませ!」

 確かに客である事には間違いないのだが、訪れた理由を考えるのならば100%そうだとは言い切れないのかもしれない。ともかく、そんな理由から豊も少し戸惑っているようだった。そして、敏行も気になってそちらへと視線をやる。最後に孝典が思わず声を上げる。

「あ!豊!?」

「えっ?」

 

 

 先に喫茶店に居た敏行と美由にとっては豊の話は既出だったので、大体事情は把握出来たが、豊の方は今一つ飲み込めていなかったようで、主に孝典から説明を受ける。いつも朝食を取っているのがこの喫茶店である事や、その為に敏行や美由を随分前から知っていた事も。ようやく事を理解した豊を見て、孝典は改めて言う。

「それにしても、なんとも凄い偶然だな。まさに噂をすれば……だな。」

 美由が明るくそれに同意する。

「ホントホント。あれだよね、会うべくして会ったって奴?」

 その言葉に、敏行が突然真剣な表情になる。

「……そうだね。そうなのかどうかは、今はまだ分からないかもしれないけど……でも、今回きりって事はないだろうしね。恐らく。」

 初対面の人間と接するのは余り得意ではないらしく、今までは比較的大人しかった豊も、今の敏行の台詞を聞いて顔つきが変わる。

「……ああ、そうだとも。」

「だよね。確かに今回は僕の方が勝ったけど、暫くしていずれまたバトルをした時に、同じように僕が勝てるとは限らないもんね。お互い走り続けていれば当然技術も向上するし、そうしている内にもしかすると君が僕を抜くかもしれない。」

「フン、言うじゃねぇか……。でも、確かにそうだろうけどな。今日の所は及ばなかった事は認めるが……。一回負けただけじゃ納得しないぜ。そうだ、俺の気の済むまで、今日と同じように何度でもバトルを仕掛けてやるぜ。お前が幕張(ここ)を走り続ける限りな……。」

「ああ。望む所だよ。」

 目は口ほどにものを言うと言うが、最後に浮かべた彼らの表情にも、やはりそれは当て()まるだろう。同じ道を走っても、辿り着く先は勝者と敗者の二手に分かれるのだから……。

 

 

 いつの間にか席を立っていた孝典は、朝食を作り終え戻って来た悠一の下へ行き、残して来た三人、正確には二人の方へ視線をやる。そんな孝典に、悠一が話し掛ける。

「そう言えば、アールグレイベースで新しいやつ淹れてみたんだが、朝食のついでで良いからちょっと試してくれないか?」

「え? 俺なんかで良いんですか?」

「構うもんか。美味いか不味いか、それだけで良いんだ。あいつらと同じさ。」

 最後の言葉を、顎で(しゃく)って彼らの方を言った。それを見て、孝典は笑って納得する。

「成る程ね。それじゃ、戴きますね。」

 そう言って、悠一に差し出されたカップを受け取り、丁寧に口を付ける。

「どうだ?」

「そうですね……。」