― 2.表裏〜Doppelsinnigkeit〜 ―
今ある現実というものは、人々の様々な経験や出来事の上に成り立っているものである。そして、現実世界というものは唯一つしか存在しないものである故に、数多くの偶然の上に出来上がったものでもある。例え、極めて確率の低い事象であったとしても、一回きりの現実で起これば、それは唯一無二の現実となる。そう、物事は気粉れに動く。必然などというものは、実は滅多に存在しないのかもしれない。
それでも、その偶然が織り成した現実に対して、人はどうしようもない無力さを感じる事もある。その時に、人は思う。それは必然だったのかと。自分には介入する余地など残されていなかったのかと。
偶然の作り上げた必然を目の前にして、そこで人は何を思うのか――。
そして、いつも私の夢に出て来るのは暗い過去。明るい未来を描き出す“夢”を見る事はもうない。何時の間にかそんな事は忘れていた。現の世界で待ち受けるのは、油の匂いの充満した工場。自分にはそれしかない筈なのに、自分がそこに居る事に疑問を感じる事もある。どうして今、私は此処に居るんだろうか……。
新都心と呼ばれるエリアからは外れた幕張の一角に、少し垢抜けた建物が一軒。洒落た外見ではあるが、看板には黒猫をベースとしたデザインの上に“Garage Kinoshita”のアルファベットが並ぶ。こう見えても、此処は車の整備工場なのである。しかもこの店は、東京に本店を構える、チューンニング業界では名の知れたショップ“Beyond
Limit”の支店である。本店は数々のハードチューンで有名であるが、その支店であるこの店は走りの車こそ集えど、ライトチューンと呼ばれる、比較的安価で容易なチップチューニングやマフラー交換、ドレスアップなどといった仕事を請け負う事が殆どである。若くして、そして女性でありながらこの店を任される事となった木之下水看、彼女が手掛ける一部の車を除いては。
今、工場の裏で静かにオーナーの訪れを待つ、一台のロードスターがあった。水看によってその体内に大規模な手術を施された、一台の車。その佇まいは、工場内で作業されているライトチューンのマシンとは明らかに持つ雰囲気が違う。
やがて、工場の下にそれとは別の一台の車がやって来る。水看にとっても聞き慣れたエキゾーストノートは、彼女が手掛けるもう一台のマシンでもあった。インプレッサワゴン。車から降り立つのは青山敏行と、そしてロードスターのオーナーの神崎美由である。
水看は作業の手を止めて敏行達の方を向く。一旦間を置き、深い溜め息をついた後に。
「あら、敏に美由。」
向き直った水看は歓迎の意を表しているかのような表情をしていた。するとすぐに、美由が嬉々として水看に尋ねる。
「私のロードスター、今日上がるんだったですよね?」
「ああ、裏に置いてあるわよ。」
水看が裏手の方を親指で指差して、美由に答える。それを聞いて、美由は早速裏口から外へ出る。敏行と水看もそれに続く。美由のロードスターはここ数日間、ガレージ木之下に預けられており、水看の手によって手術を施されていた。先日、敏行が豊と遭遇した日に、美由が隣に乗っていたのも、自分の車がなかった為だったのである。
裏手にはカバーの掛けられた車が一台置かれていた。水看が被せられていたカバーを丁寧に取り外す。新しい命を吹き込まれた淡紅色のロードスターが、オーナーを前にしてそのベールを脱ぐ。
「うわぁ。これが……。」
美由が感嘆の声を上げる。佇むロードスターの外見は前と殆ど変わっていないが、前とは全く別物になっている事は、少なくとも美由にとってはすぐに察知出来たようだった。美由は黙ったまま、ロードスターに見入る。
「ねぇ、これって外見は変わってないんだよね。」
「そうね。エクステリアは全然弄ってないわね。」
水看に敢えて確かめてみたが、それだけ美由は変わり様に驚かずにはいれない様子だった。一方の敏行は、美由がもっと大はしゃぎするものと思っていたらしく、少し不思議そうに美由の方を見ている。
「ふ〜ん。美由の奴、案外冷静なんだな。」
そんな二人の様子を見詰める水看。水看には、二人のこの反応は予想の範囲内。美由が喜びを通り越した驚きのようなものを感じる事も、それを見る敏行が不思議がるであろう事も。水看は隠れて、再び溜め息をつく。しかし、そこに不意に敏行が話し掛けてくる。
「ん? どうかしたんですか?」
水看は二人よりも結構年上なので、二人とも彼女に対しては敬語を使っている。因みに孝典も水看と同じくらいの年齢なのだが、彼に対しては二人ともタメ口なのは、人柄だろうか。
「え? ああ、いや、何でもないわよ。」
慌てて表情を整え、答える。そしてその場を取り繕う為というわけでもないが、話を美由の方に振る。
「そういえば、代金だけどね。取り敢えずパーツ代だけ入れてくれれば良いわよ。リビルト使ってるから、そう安くは行かなかったけどね。」
「え〜。リビルトって中古の事でしょ? 何でそれで安くないんですか?」
「リビルトってのはね。消耗品を全部交換して、磨耗した所も研磨してやって、それから点検して馴らしまでやったものの事をいうのよ? 確かに完全な新品じゃないけども、そこら辺で売ってる中古パーツとは訳が違うんだから。」
「へ〜、そういうもんなんだぁ。」
二人が話し始めたのを見て、溢れた敏行は工場内をぶらつき始める。一般客が工場内をうろついていれば邪魔にしかならないが、いわばこの店の常連客とも言うべき敏行達は、他の工員とも親しい。適当に話し掛けながら、場内を見渡す。フルエアロを纏った作業中の車のエンジンルームに目を落とすと、そこにはほぼノーマルであろう機器類が納まっていた。
「此処に入ってる車って、ホントにこういうのが殆どだよなぁ。水看さんがハードチューンにも精通してるなんて、此処見てる限りじゃ信じられないくらいだよ。」
現在入っている車を含めて、この工場でハードチューンの施された車を見かけた事は殆どない。敏行も此処で世話になるようになってそれなりに長いが、思い返してみてもそれらしい車を見たのは1、2回しかない。
「まぁ、最近は特にそうだね。親会社が親会社だから、最初の頃はそういう依頼もあったけど、工場長、あんまりやりたがらなかったからね。その内に、今の感じに落ち着くようになったよ。今じゃその手の車は、殆ど見なくなったね。」
手の空いていた工員が、敏行の言葉に答える。
今から半年ほど前になる。ある日、インプレッサが調子を崩した。行き付けのショップと言うほど行き慣れた店もなく、メカに関しても余り詳しい方ではない敏行は、取り敢えず近所の町工場にでも相談してみようかと思っていた。そんな矢先、美由が本郷の方を通りがかった時に、新しいチューニングショップが出来たのを見たと言う。その外見は車の整備工場とは似つかわしくないものだったが、逆にそれが美由の興味をそそったらしい。折角なんだから、一度行ってみないかと言う美由の薦めが、此処を訪れた最初のきっかけだった。
ガレージ木之下と書かれた煉瓦造りのこの建物は確かに工場という感じではないが、中を覗くとリフトなどが設置されていて、間違いなく車を扱う工場だった。その時はそれほど忙しそうな雰囲気でもなく、入り易かった。近くに居た、恐らくここの指揮を取っていると思われる女性に声を掛ける。しかし、彼女は余り良い顔はしなかった。
「チューニングの依頼ですか? ……悪いけど、引き取ってもらえませんか。そっち方面にはあんまり関わりたくないんで……。」
敏行は、そういうわけではなく調子が愚図ついていて、自分でも見てみたがよく分からなかったので、持って来たという事を説明した。
「そこまで弄ってあるんじゃ、他に行く店があるんじゃないの? ……まぁ良いわ。しょうがないわね。それで、どんな感じなの?」
「ええと、アイドルが不安定なんです。暖まってくるとそうでもないんですけど、掛けてすぐは酷くて、上がったり下がったり……。」
「成る程ね。後は特にない?」
「後は……気の所為か、吹かすと音が低いというか太いというか、そんな気もします。」
「OK。分かった、見てみるわ。」
やはり乗り気ではなかったようだが、一応引き受けてはくれた。やっていた作業が一段落すると、インプレッサの方のチェックに取り掛かる。ボンネットを開けて色々と作業を始める。その間、敏行と美由は作業の様子を見ながらも、持て余した時間を潰す為に駄弁っていた。
「いつも乱暴に扱ってるから、壊れちゃったんじゃないの? インプレッサ。もっと大切にしてあげなよ。」
「そんな事言ったら、美由だってロードスターの扱い荒いじゃないか。これでも、自分なりには大切にしてるつもりなんだけどね。しょうがないじゃないか。近頃は向こうからバトルを仕掛けて来る奴も多いしさ。こっちだってそうそう手を抜いてもいられないから、どうしてもインプレッサにも頑張ってもらわなくちゃならないんだよ。」
「う〜ん、確かに最近はよく敏ちゃんも絡まれてるよね。ワゴンが珍しいからじゃないの?」
「技術だよ。技術。それなりの腕がなくちゃ、相手だってやる気が起きないじゃないか。」
「技術……かぁ。……そうだね。敏ちゃんにはそんな事は大切じゃないんだもんね……。」
「え? 何だって?」
最後の方はボソボソと小声になった美由の言葉を聞き取れなかった敏行が聞き返す。しかし美由はもう一度同じ言葉を繰り返す事はなく、話題を逸らして行った。
一方でそのやり取りを聞いていた水看は、内心を驚愕と動揺に満たされつつあった。彼らに会ったのは今日が始めてであるのに、2人の雰囲気はまるで――。しかし、表向きは先と変わらず冷静なままで、インプレッサを見てみた結果を敏行に伝える。
「やっぱり、バキュームホースが抜けてただけだけね……。」
「そうだったんですか? なら……。」
敏行がそこまで言い掛けた所で、水看は不意にやや厳しい表情を浮かべて敏行に言葉を重ねる。
「ねぇ、貴方。わざわざこんな店へ来るって事は、行き付けの店がないんでしょ? 何なら、私が面倒見てあげようか?」
「ええっ?」
突然の提案に戸惑う敏行。そんな事はお構いなしに、今度は美由の方を向いて言う。
「貴方もね。どう?」
「え? どうって……。」
美由も同じく言葉に詰まる。暫くの沈黙の後、敏行が尋ねる。
「でも……さっきはチューニングには関わりたくないみたいな事言ってませんでしたか?」
「気が変わったのよ。……いや、ちょっとこれじゃ横柄過ぎるわよね。貴方達の車を手掛けさせて欲しいのよ。やらせてもらえないかしら?」
僅かな雑談を聞いたに過ぎなかったが、水看は自分でもよく分からない内に、気付いた時には彼らにそう頼んでいた。
「コラコラ。野呂。サボってんじゃないの。」
「あっ。済みません。」
水看が敏行と話していた作業員を叱る。もっとも、一応そう言っただけで真剣に怒っているわけではないので、野呂の方も特に慌てる様子もないのだが。すると、敏行が水看に切り出す。
「そういや、タイヤ交換しといてもらえませんかね? こないだ、一気に減らしちゃったもんで。」
「え、もう減ったの? ちょっと前に交換したばっかじゃなかった?」
「いや、こないだバトルやったんですけど、思ったよりも長引いちゃって。こっちも久々にインプレッサを酷使しちゃいましたよ。」
「ふ〜ん。相変わらずよく絡まれるのね。中途半端に噂でも立ってるんじゃない?」
「どうですかね。でも、良いじゃないですか。中途半端でも噂が立てば。」
笑って答える敏行に、水看は軽く溜め息をつきながら言う。
「全く、アンタは変わらないわよねぇ。ま、良いけどね。外野の私がどうこう言ってもしょうがないし。で、どうするの? タイヤの方は。M7Rで良い?」
インプレッサにしては珍しく(?)、ヨコハマ愛好家の敏行。
「そうですね……。今回もM7Rで……。」
そう言おうとして、一瞬考え込む。そして、その案を変更する。
「やっぱ、今回はネオバにしといて下さい。」
「ネオバ? またバトルでも予定してるの? それとも、急に羽振りが良くなったとか?」
「いや、そういうわけじゃないんですけどね。何となく。」
本当にただ何となくという理由でしかなかった。いや、もしかするとそれは、彼の走り屋たる心理がそうさせたのかもしれない。
その晩、美由は早速ロードスターのシェイクダウンの為に周回コースを訪れた。敏行もインプレッサで付いては来たが、今日は共に走るつもりはなく、美由の走りのギャラリーに徹するつもりらしい。尤も、じっくり走ってその感触を確かめる為に一人で走りたいという、美由からの要望もあっての事なのだが。
「じゃあ、行って来るね。」
テクノガーデンの交差点で見物する事に決め、車から降りた敏行にそう告げると、美由はゆっくりとアクセルペダルに掛けた右足を踏み込ませて行く。タコメーターの針が4000回転を指し示し始めると、ロードスターのボンネット内に収められたそのエンジンの特有のサウンドが顕著になって来る。アイドリング時や此処に来るまでの町乗りの間でも、以前のエンジンBP-ZEとサウンドが異なる事は明らかではあったのだが、やはり回転を上げるとそれがよく実感出来る。そのサウンドを耳で確かめるように一呼吸置くと、美由はアクセルを底まで踏み付けた。此処駅前ストレートでは、遠慮なくその最高速を試す事が出来る。フルスロットル時の加速感は、美由の想像以上のものだった。
「流石……って言うべきなのかな……。前よりも80psくらい上がってるから遥かに加速が鋭いのは当たり前だけど、私の実感じゃ、もっと上がったような感じだね……。幾らトルクの薄さがネックのエンジンって言っても、ターボとなればやっぱりNAの時とは比べ物にならないくらい加速感がしっかりしてるな。でも、これは予想の範囲内の事だよね。280ps……この車にとっては大パワーだけど、ちょっと上のクラスならノーマルでも珍しくない数値なんだし。」
確かに駆け上がりは鋭いのだが、高速域になって来るとどうしても加速は伸び悩んで来る。敏行のインプレッサを初め、もっとハイパワーのマシンの加速を知っている美由にとって、ストレートでのパワーはそこまで驚異的というわけではない。だが、それで今回の水看のチューニングが大したものではなかったと結論付けられるものでもない。
駅前ストレートの終わりに近付き、幕張海浜公園の交差点が近付いて来る。――このロードスターの真価が発揮される時が近付いて来ていた。美由は期待と同時に恐れのようなものすら抱いて、コーナーへとロードスターを飛び込ませて行った。シフトダウン、ブレ−キング、ハンドル操作――走り慣れたこの場所を、もはや反射的にといってもいいほど慣れた操作でロードスターを曲げて行く。その操作に、ロードスターは応える。それも、必要以上ともいえるほどに。一気にインに巻き込んでいこうとするマシンを、慌ててカウンターを当てて押さえ込む。やはり吊り上げられたパワーにともなってピーキーさも増している。だが、単にピーキーになっただけというわけではなかった。カウンターを当てると、マシンは途端に素直に軌道を修正してくれた。そして、コーナー出口へ向かってアクセルオン。すると、増し加えられたパワーはロードスターを一気に高速域へと押し上げて行く。コーナートータルのスピードは、美由にとっても十二分に驚くに値するものだった。
「凄い……。ただエンジンを載せ変えただけじゃなかったんだ……。この操作感……アクセルオフの間の速さも信じられないくらいに上がってる……。確かにピーキーだけど、私にはピッタリ過ぎるくらいに嵌ったセッティングだよ。水看さんのチューニングの妙は、こんなにも凄かったんだ……。」
数字で示される速度だけではない。体感で感じる総合的な速さは、本当に痺れるほどのものだった。速さはパワーだけでは語れない。今更な感のあるフレーズが、美由の脳裏を過ぎった。走れば走るほどにロードスターの持つ速さを確信して行く。短い周回コースなど、まさしくあっという間に1周してしまう。そして、テクノガーデンの交差点が見えて来る。スピードで歪む景色の中で、それでも敏行の姿が確実に視界に入った。文字通り一瞬の時の中、敏行に視線を遣る。
「……敏ちゃんを煽るような事はしたくないんだけど……でも、水看さんがくれたこの力を手放す気になんてなれない。こうやって走ってる様を見せるまでもなく、この車を手にした時点で敏ちゃんへの宣戦布告になってしまうんだろうね……。仕方ないよね。私も敏ちゃんも走り屋……この世界に息衝く人間なんだから……。」
ロードスターがスピードを維持したままテクノガーデンの交差点を駆け抜けて行く。そのまま更に幕張の街を走り行くロードスターを操る美由の目は、諦めとも決心とも取れるような瞳で道の先を見詰めていた。そして走る姿を目の当たりにした敏行も、ロードスターの走り去った方を見たまま、霞み行くロードスターの咆哮を聞きながら、自らの血が騒ぐのを感じていた。
生まれた確執が消え去る事はなく、更に深みへと向かって行く。個々の想いが織り成す偶然なのか。はたまた確執を生むのは彼らがそう望むが故であり、それは必然の事なのか。交錯する想いは何を生み出すのか。街だけが静かに佇む闇の中を彷徨い続ける彼らの内で、それを知る者は誰も居ない――。