― .卓越Vortrefflichkeit ―

 

 

 漆黒の都市を照らす、望月の月明かり。神々しくも禍々しいその光に、狂わされる事すら望んで魅入られる者達は、いつしか引き合わされる事となる。

 しかし、その時人は気付く。それは陽狂(ようきょう)だと。真に惑わされてはいない。本心が溶かされては、此処で生きては行けない。

 さあ、お前は強き心で望月を見据える事が出来るか――。

 

 

 

 

 まだ時間の早い首都高速の辰巳PA。集い始めたチューンドの中でも一際目立つ車が二台。大きく張り出したブリスターフェンダーが印象的な180SXと、見る者を圧倒するほどに無数に空けられた開口部が大出力を匂わせるZ32型のフェアレディZ。そして、その車に寄り掛かって空を見上げる者も二名。Z32の女が、180SXの男に向かって話す。

「今日は満月が綺麗に出てるじゃない。」

 男は渋い表情のまま答える。

「綺麗……か。確かにな。吸い込まれそうな色だ。……でも、満月は人の心を狂わすと言うだろ。美しさに魅入られてるだけじゃ、危険なだけだ……。」

「まぁ、それも一理あるかもしれないけどね。でもね、狂わされるかどうかなんて、当人次第だって。寧ろ、美しさに対する畏敬の念が、そうさせてるんじゃない?」

「フッ……それもそうかもな……。」

 会話が一段落すると、女の方が少し声のトーンを上げて言う。

「じゃ、折角だし、そんなルナティックな人間でも探しに行くか?」

 相変わらず無表情なままで男も言う。

「ルナティックナな人間ねぇ……。反語的疑問だな……。ま、良いだろ。こんな所で立ち尽くしてても、しょうがねぇ。」

 少し間を置いて、もう一度男が口を開く。

「行くか。幕張へ。」

 そして二人とも車に乗り込む。二台のチューンドカーはPAを出て、やがて中央環状線から湾岸線へ抜け、千葉方面へと下って行った――。

 

 

 

 

 今夜も幕張に轟音が轟く。深夜、殆ど無人となった抜け殻の都市に、幾人かの者達が各々の車に乗り込み、街中を走り回る。今、周回コースの北東の交差点をロードスターは、その名から連想されるものとは凡そ似つかないエキゾーストノートを響かせ、かなりのスピードで駆け抜ける。その後を追う、EKシビック。やがて二台は速度を落とし、周回の東にある空き地へと入る。

「えっ?」

 そこにはインプレッサ、セリカ、SAを始め、幾つかの車と人が居る。その内の一人の豊が、入ってきた車と、自分の聞こえたサウンドが合致しない事に驚く。

 二台の車から降り立ったのは、それぞれ美由と一人の少女。

「あ、歌野さん達も来てたんだ。」

「今晩は。」

 美由が元気良く手を振り、もう一人の方は軽くお辞儀をする。そこへ、豊が今抱いた疑問を美由に聞く。

「な、なぁ。神崎さん。そのロードスター……。」

「堅いなぁ、美由で良いよ。それにしても、やっぱり気付いた?」

「そりゃあ、気付くだろ……。」

 それを見て、先の少女が美由に尋ねる。

「えっと……?」

「あ、この人は豊君って言ってね。こないだ敏ちゃんとバトルしたんだよ。」

 その説明を聞いて納得した少女は、豊に自己紹介をする。

「始めまして。法月(ほうづき)(みこと)と言います。」

 豊の方はやはり初対面の人間とは接するのが得意ではないらしく、ちょっと緊張気味に話す。

「あ、宜しく……。車はシビックなのか。」

「はい。でも、美由に比べたら全然ですけどね。車も腕も。」

 そして穏やかな表情のまま、言葉を続ける。

「敏さんも凄いですけど、美由もかなり凄いですよ。FRだからって事もあるけど、豪快な走りをしますよ。……ちょっと不安定なんですけどね。」

「不安定?」

 豊は聞き返したが、答えを得る前に別の声が豊を呼ぶ。

「おーい、豊!僕らもそろそろ一っ走りしない?」

「え? あ、あぁ。」

 突然呼ばれて、豊は生半可な返事をする。

「そういやさ。そのセリカ、どれくらい出てるの?」

 敏行が尋ねる。

「そうだな……。常用で大体420psって所だと思うが……。でも、どうしてだよ?」

「うわ、結構出てるんだな。……いやね。僕、ちょっと前までは馬力に頼った走りってのは卑怯だと思ってたんだよ。自分の技術で勝負したいと思ってたからさ。だけど、今じゃそれも悪くないかな……ってね。別にアンダーパワーの車で大排気量車をカモろうっていうのが駄目だって訳じゃないんだよ。自分なりの基準を定めてやるのも面白いもんね。でも、中途半端な考えでやるなら、それは甘いと思うんだよ。速さを求めるなら、速い車に乗るのは当然の事だと思うからさ。そうしないのは、負けた時の言い訳が欲しいだけか、そうでなけりゃ怠慢かもしれない。」

「ふ〜ん……確かにそうかもしれないな。」

 字面だけを見ればつれない返事をしているようだが、その表情はいつしか真顔になっていた。そして、今度は豊の方が敏行を誘う。

「そんな事より、走るんだろ? だったら、早く行こうぜ。」

「そうだね。」

 暖気を済ますと、二人はそれぞれにコースへと飛び出していった。

 並びから偶々インプレッサが先行する形となる。セリカをバックミラーで確認しながら、ふと先日の豊とのバトルを思い出す。さっき、豊に話したその内容は、実は豊に教えられたものだった。豊は、パワーの扱い方というものを知っていた。それも、まるで本能的に分かっているかのようだった――。

 

 

 

 

 インプレッサとセリカの排気音が、徐々に遠ざかって行く。美由はその後を呆然と見詰めていた。先の敏行が豊に言っていた台詞を思い返しながら。

 そこへ、孝典がやって来て、半分独り言のように美由に向かって話す。

「やっぱり、あの二人が出遭った事は、何かのきっかけになるかもしれないな。出会いは人を変えるっていうのは、やっぱ走りにも当て嵌まると思うからな。あの二人には、特にそれが言えるんじゃないかな。」

「そう……なんだ……。」

 美由が詰まりながら同意する。別に孝典の言葉に同意出来ないわけではない。寧ろ、その通りだと思うからこそ、美由は明るい表情を浮かべる事は出来なかった。

 孝典の言う通り、確かに敏行は変わり始めていると、美由にも思えた。その一つが言動の変化。豊と出会ってからの数日、特に先の敏行の台詞は、今までの敏行が言うような事ではなかった。間違いなく、敏行は変わり始めている。そしてそれは、美由の望まない方向へと向かう変化だった。

 ――敏ちゃん、その世界はね……。楽しいだけじゃ済まされないんだよ……。

 遠くを見詰める美由の姿を、尊は心配そうに見ていた。

 

 

 

 

 特に無理に前に出ようとする事もなく、また相手も引き離しに掛かるような事はせず、周回コースを軽く流しているインプレッサとセリカ。敏行も、そしてインプレッサも別に変わった様子もない。豊自身も特に好調とも不調ともいう事はない。何の変哲もないランデブー走行の筈なのに、少し前から豊は妙な違和感を感じ始めていた。自分の気の所為に過ぎないとも思ったが、どうしても違和感は拭えない。インプレッサの横に出て並走する形を取り、敏行の方へ目線を向ける。

 

 

 敏行は豊と目線を合わせ、そして頷く。恐らく今、豊も同じ事を感じているに違いない。

「そう……僕も感じてるんだ。まるで何か異質なものが、この幕張に紛れ込んでいるかのような感じが……。」

 そう思った瞬間、その感覚は更に増す。

「いや、それもそんなに遠くじゃない……? 来る……ッ!すぐ近くに居るッ!」

 そして襲い来る異質な者達。メッセの信号から飛び出して来た二台の車。それは姿形からして、既に尋常ではない事が見て取れる。

「な、なんだありゃあ!?」

 バックミラーの視界に映ったシルエットを見て、敏行は思わず声を上げる。それは単にその外見に驚いただけではなく、もっと感覚的な脅威を感じ取ったからなのかもしれないが、どちらにしろ気楽なランデブー走行はそこでお開きとなり、強制的に臨戦態勢を取らされる。今、位置しているは周回コースのホームストレートとも言うべき国際大通。アクセルを叩き付けるように床まで踏み込む。状況は豊も当然ながら同じで、セリカもピッタリ付いてくる。だが、付いてくるのは先の二台も同じ事。それどころか、差を詰めて来ているように見える。

「くっ……何なんだ!」

 豊の時は突然の宣戦布告にも余裕だった敏行だが、今回はいきなり強大なプレッシャーを感じている。まだ物理的には確かめる事は出来ないが、精神的には既に相手とは格が違う事という事を感じている。敏行にとっても、これほどの感覚は味わった事がなかった。

 

 

 二台のヘッドライトが眩しいほどに真後ろに迫っている。ストレートも後半に差し掛かり、差は完全になくなって来ている。この先には海浜幕張公園の交差点。だが、ブレーキング勝負に賭けようという意気込みなど起こらない。それどころか、もはや後ろの二台と共に走る事が恐ろしくなっていた。数百メートルを残して、豊はアクセルから足を離す。インプレッサが離れ、そして後ろの二台は一気に抜いて行く。そのテールを見て、始めて車種が特定出来た。しかし、そんな事は些細な問題でしかない。

「青山……気を付けろ。やべぇぞ、あいつらは……ッ!」

 豊は敏行に向かって忠告するかのように呟いた。気付けば全身が汗だくになっていた。

 

 

 豊が降りて、戦況は1対2という事になり、敏行はますます追い詰められていた。後ろには二台がしっかり張り付いてきている。それも、余裕の追走という感じがする。抜き所を見計らう為に、敢えて後衛に甘んじているに過ぎないようだった。ジワジワと(なぶ)り殺しにされている気分だ。

 やがて、その内の1台――180SXの方が前に出て、敏行は二台に挟み込まれる形になる。その前後を塞がれ、殆ど身動きの取れないような状態。それでも向こうは無理に何かを仕掛けて来る様子もない。まるで、インプレッサを(もてあそ)ぶかのように走り続ける二台。

「舐められてるのは分かってるのに、何も出来ないなんて……ッ!」

 せめてこの状況を打開したい。しかし、前に出る事も後ろに引く事も出来ない。だが、それとは別に敏行には気になっている事があった。

「……それにしても、二台ともこれだけ至近距離で前後に詰めて来てるのに、まともに走れてるな、僕……。」

 今回は自分の技量に対する自信から生じた言葉ではない。前の180SXも後ろのZも、挟まれている敏行から見れば、殆ど車間距離がないのではないかと思えるほどに近い位置に居た。タイミングがずれればすぐに接触してしまう筈なのに、三台はその形態を保ったままに進んでいる。確かに、この二台は相当な技術を持っているからというのも大きいのだろうが、それでもこれは単純な技術だけではない気がした。それは極度のプレッシャーの下で、僅かに感じた心地良さだったのかもしれない。

 しかし、それはすぐにでも掻き消されてしまいそうなものに過ぎない。プレッシャーは途切れる事なく、敏行を苦しめ続ける。実際には大した距離は走っていないのだが、敏行にとってはもう何周したか分からないというような感覚だった。その内に、ずっと後衛を保って来たZが前に出る。敏行は少し気が楽になったように感じる。だが、これといったきっかけもなく、タイミング的には少々不思議な所で抜かれたので、見切りを付けられたかのように感じられ、悔しくもあった。

「こんな所で……大人しく引き下がれるもんかっ!」

 走り屋たるもの、勝負に掛ける意気込みは大きく、そして負けず嫌い。特に敏行は、決定的な状況を見るまでは勝ちとも負けとも認めない傾向があった。駅前ストレートに差し掛かって、少しずつ離れて行くように感じられる二台を、今一度しっかりと見据え直す。今度こそ。ギヤを3速から4速へ入れようとした、その時――。

「げッ!!」

 敏行の叫び声と共に、嫌な金属の摩擦音が響く。

「くあ……やっちゃった……。シフトミスなんて……。」

 がっくりと項垂(うなだ)れる敏行。人は感情の生き物。だからこそ精神の状態によっては、限界を超えた底力を見せる事もあれば、有り得ないほどの凡ミスを犯す事もある。後者に陥ってしまった敏行は、流石にショックを隠し切れない様子だった。やがて、もう道の彼方へ消えてしまったであろう二台を確認しようと、ゆっくりと頭を上げる。

 しかし、敏行の視界に映ったのはハザードランプを点滅させる二台の車の姿。ついさっきまで追い続けていたテールが、然して遠くはない所で、オレンジ色の光を明滅させている。そして、その傍らに立つ、二人の人の影。敏行は、それを見て自分も車を降り、二人の下へゆっくりと歩み寄る。

 180SXの横に立つ男は渋い表情をしたまま、Zの横に立つ女は穏やかな笑みを浮かべたまま、やって来た敏行の方を向く。彼らが車から降りているのを見て、来てみたは良いが、その前に立って敏行はどう反応すれば良いのか分からなくなってしまった。その二人の方は、敢えて自分から口を開こうとする様子もない。何を言えば良いか分からず、けれども何か言わねばと思った敏行の口から出て来たのは、こんな言葉だった。

「どうして……此処を走るんですか……。」

 それに対して、一旦視線を外した後に、男が答える。

「……何故、故を問う? なら逆に聞くが、もし俺が今これこれこうだと理由を述べた所で、それがお前の故となるのか? ……理由ってもんは、人から教えられるもんじゃない。自分で見つけ出すもんだろ。違うか?

 それだけ言うと、男は敏行の反応も待たずに180SXに乗り込む。もとより、敏行も反応出来ずにいたのだが。

「そういう事よ。じゃあね。」

 女の方もそう言い残してZに乗る。呆然と立ち尽くす敏行を残して、二台の車は闇の彼方へと消えて行った。空には、大きな満月が浮かんでいた――。