4.転機Wendung

 

 

 人間の視界というものは、世界と比較してみればごくごく小さなものでしかない。人はその限られた視界の中から情報を得て、自分の内に自分なりの世界観を構築して行く。だが、そんな世界は本当の世界とはかけ離れている。とかく人は自分の見た世界が全てのように思いがちではあるが、それはほんの一部を千切(ちぎ)り取った虚構でしかない。見えない世界、自分の視界の外には見知らぬ事が山ほど存在する。

 そして、それだからこそ人は見た事のない領域に好奇心を抱く。全てを知る事は到底不可能であっても、なるべくそれに近づこうとする。それでも、未知の領域に存在するのは、自分の理解を超えたもの達。それら超越したものに遭遇する時、人はどう反応するのか。相容れないものとして拒否反応を示すか。それとも、受け入れて自分の世界を広げる事が出来るか――。

 

 

 

 

「あれは多分、シルバーブレイドの二人だね。」

「シルバーブレイド?」

  日が沈み、幕張を闇が包み込む。その中で控えめな光を灯す“Tanz mit Wolken”。この店は、日没過ぎから夜明けまでは休業している。通りを歩く人々の足音はまだまだ消えないが、店内は営業時間に比べれば静かである。そして、一通りの仕事を終えた美由は、同じくその日の大学での授業を終えた尊と共に、夕食を取りながらお喋りを交わす。もっとも、彼女らが交わす会話は、専ら走り屋に関するものばかり。勿論、今日のメインディッシュの話題は、昨夜敏行と豊が遭遇した謎の二台の話。席に着いて間もなく、そのネタに話が及ぶ。

「一部の走り屋の間じゃ、有名な噂だよ。漆黒の闇夜に輝く白銀の双剣……。噂が噂を呼んで、そんな呼び方まであるらしいよ。出遭った人間は少ないらしいんだけど、逆に会った人間は皆強烈な印象が残ってるみたい。こてんぱにやられてね。」

 美由と比べれば大分と内向的で大人しい性格の尊であるが、何故か走り屋の事情にはやけに詳しい。美由達は知らない話でも、尊なら大抵は知っている。もっとも、此処に集うメンバーでも、尊以外に孝典も事情通ではあるのだが。

「……で、その正体は?」

「結局これも噂でしかないんだけど、二台ともかの有名なBeyond Limitの本店で、半ばデモカー扱いで作られた車らしいよ。本人達はBeyond Limitと直接関係があるわけじゃないみたいだけどね。だから……こんな言い方すると敏さん達に悪いんだけど、多分あの二台の力はまだまだあんなものじゃないと思うよ。マシンの性能も、そしてドライバーの腕も。」

Beyond Limit……つまり水看さんの親会社って事なのか……。でも、それって東京にあるんだよ? 東京なら首都高があるのに、何でわざわざ幕張まで来てるんだろ?」

「う〜ん、流石にそこまでは。なんせ、会った人間が少ないから、噂も信憑性の薄いものばっかで、確かな事は何も言えないってのが実際の所なんだよね。さっきの話も、絶対とは言えないし。」

 少し申し訳なさそうに言う尊。別に美由に気を使っているわけではなく、こういう仕草は彼女の地。

「そうかぁ。でも、Beyond Limitってのが本当なら、多分水看さんが何か知ってるよね。私は通り過ぎるのをチラッと見たり、敏ちゃんや豊君から話を聞いただけだけど、それでもあれは並じゃなかったよね。後で聞きに行ってみようかな。」

「やっぱり気になる?」

 尊がそう問い掛ける。美由が、一瞬だけ遠い目をしたような気がした。

「……そりゃ、気になるよ。」

 その言い草はいつもの美由らしく明るいものだった。そして、今度は尊が少しだけ悲しげな目をする。

「……そう。そうだよね。」

「ん? 何?」

「ううん、何でもないよ。木之下さんの所に行くなら、私も一緒に行って良い? やっぱり私も興味あるし。何なら、私が車出しても良いよ。」

「ホント? 勿論良いよ!」

 話は纏まり、ガレージ木之下へと赴く事が決定する。しかし、進んだのは話ばかりで、肝心の食事の方はまだ全然。取り敢えず、暫く二人は食事の方に専念する。それでも、どうしても途中でまた話が膨らむという事を繰り返し、食事の量の割りに掛かる時間は遥かに長い。いつもの事ではあるが。

 ようやく食事を摂り終えると、二人は揃って階下へと降りる。玄関付近を掃除していた楓が、二人に気付く。

「あら。出掛けるのね。」

「うん。水看さんの所へ行ってくる。」

「それじゃ、お邪魔しました。」

「気をつけて行ってらっしゃいね〜。」

 楓に見送られて、二人は尊のシビックの方へと足を向ける。

 

 

 

 

 ――理由ってもんは、人から教えられるもんじゃない。自分で見つけ出すもんだろ。違うか?

 一人暮しのひっそりとした部屋の中。椅子に凭れ掛かった敏行の頭に、今日幾度も過ぎった言葉が再び響く。最後に180SXの男が言い残した言葉。理由――。確かに、自分は走りの中に理由を見出そうとしていた。だが、別にその理由を他人に求めていたつもりはない。それなのに、昨夜の彼らの走り、そして最後の言葉は、敏行には余りに衝撃的だった。自分は、何故此処を走って来たのか……。

 呆然としたまま、時間だけが刻々と進む。日中、仕事も殆ど手につかなかった。走りに行くのが楽しみで、車の事で頭が一杯という事は今までもあったが、一日中これほどまでに頭から離れなかった経験はない。それも、楽しくない出来事の故に。

 やがて、敏行はふと時間を確認しようと携帯を手に取る。

「……もう8時か。」

 仕事から帰って来て何もせず、気付いたら二時間も経っていた。夕飯も食べていない。何か食べようかと椅子から立ち上がる。しかし、そのままもう一度携帯に目をやる。暫く考え込んだ後、敏行はふいに電話を掛ける。先日聞いたばかりの番号。まだ着信履歴に残っている番号から掛ける。呼び出し音が幾度も鳴らない内に、相手が電話に出る。

「もしもし。………………ああ。ちょっとね。………………うん、今日も来れないかと思ってさ。………………OK? そう、良かった。なら、宜しく。」

 特に無駄話もせず、電話を切る。敏行は何の為に立ち上がったのかも忘れ、再び椅子に座り込んだ。

 

 

 

 

 工場の明かりは点いたままだが、作業音然程(さほど)大きくない。ガレージ木之下では、整備工場としては珍しく、従業員には余り残業をさせない。それは工場長である水看自身が、夜間に独りで作業に没頭する為だった。例えば敏行のインプレッサや美由のロードスターが入っている時は勿論、そうでない時でも水看は独り工場に残り、何かしらの作業をしている。工場で生活していると言っても過言ではないであろう。水看は全くのプライベートで車と向き合えるこの時間が取り分けて好きだったし、そうである以上誰にもそれを邪魔されたくなかった。
 今夜も水看が独り、作業場に残っていた。
 彼女の横ではトランスミッション・ユニットを丸ごと取り除かれ、リンクロッドやハーネス類が無残に垂れ下がる敏行のインプレッサがリフトに上げられている。先日、バトル中に敏行が破損させたギヤボックスの修理をしているのである。既に奥の工作室には、取り外されたユニットが置かれている。
「案の定ね……。」
 ギヤボックス内から抜き取られたオイルには、きらきらと工場の灯りを反射する金属粉が大量に混じっている。オイルがこれでは中のギヤは相当なダメージを受けているだろう。この分だとシンクロ機構だけでなくギヤ本体の交換が必要かもしれない。“ガラスのミッション”と評されるインプレッサのギヤボックスだが、正常な使い方をしていればそうそう壊れるものではない。無論、スポーツ走行中であってもだ。本来ギヤボックス内の部品は、エンジンの動力を後方に伝える、言わば受け流す働きをする。クラッチの様に、常に磨耗し続ける類の部品とは少し性質が異なる。従って、通常はクラッチユニットが身代わりとなって歯車を保護するわけだ。そういう造りになっているにも関わらず、ギヤボックスに負担が行くという現象はやはり、出力損失を嫌った強化クラッチ装着車に多いが、もともと400馬力近い出力を許容するように作られていない車にその力を与えると言う事は、それによって生じ得るリスクも覚悟しなければならないと言う事を意味する。要求される繊細な操作もそのひとつだ。
 それにしてもダメージが大きい。敏行は元々その操作が丁寧な方だった筈だ。相当焦っていたであろう事は容易に想像出来る。相手はその出で立ちからしても尋常ではなかったという。またもや幕張に凄腕の走り屋が現れたのか。つくづく因果な場所だと、水看は指の腹でオイルをこねるようにしながら思った。

 ギヤオイルを調べ終えた水看は、続けてクラッチの脱着に取り掛かった。ミッションブローの場合、故障した箇所だけ調べれば良いと言うものではない。クラッチ部で吸収し切れなかった力が全体に行き渡った結果、最終的にギヤボックスに向かったのだから、当然クラッチは勿論、リヤデフ、ドライブシャフトのユニバーサルをはじめとする各部ジョイントのガタつきや当たりを点検してやる必要がある。ハイパワーカーであればある程、手間が掛かるものなのだ。

 そうやって作業を続けている内に、遠くからやって来たチューンドのエンジン音が工場の前で止んだ。水看が気になって外を覗くと、そこには美由と尊の姿があった。

「今晩は。水看さん。」

「今晩は。お久し振りです。」

 美由だけではなく尊も此処を訪れた事に、水看は少し意外そうな表情を浮かべた。

「あれ? 敏じゃなくて尊が一緒なの。珍しいわね。」

 水看は尊を下の名前で呼んではいるが、シビックを此処でチューンしているわけでもないので、基本的に尊はガレージ木之下に出入りする理由はなく、その為にこの二人は顔見知りではあるがそれほど親しいという事はない。尊はいつにも増して(かしこ)まっている。

「それにしても、こんな時間にどうしたのよ?しかも、ロードスターで来たんじゃない所を見ると、別に用事があるみたいだけど。」

「うん。ちょっと聞きたい事があるんですけど……。」

「どうしたの、改まっちゃって。まぁ、先ずは場所を移しましょうか。こんな所で立ち話よりは、事務所の方が少しはマシでしょ。お茶くらいは淹れるから。」

 

 

「シルバーブレイド……?」

 美由は昨晩の出来事と、尊に教えてもらった噂を水看に話した。しかしながら水看には心当たりは浮かばなかったようだ。

「水看さん、知らないの? Beyond Limitの車って噂らしいんだけど。」

 美由はてっきり水看がシルバーブレイドと呼ばれる二人組みに関して知っているものと思っていたので、意外そうな口振りで水看に問い返した。すると水看は、お茶を啜りながら答えた。

生憎(あいにく)ね……。私も幕張に来て彼是一年になるから、離れてからのBeyond Limitの事情に関しては詳しくないのよ。(もっと)も、あんた達から話聞いただけだから断言は出来ないけど、その外見からして少なくとも外装はBeyond Limitで手掛けられたものと考えて間違いないと思うわよ。ストリートではあるまじきワイドボディのフルエアロは、Beyond Limitのお家芸だから。それに、性能も圧倒的だったっていうんだから、やっぱりあの店の車でしょうね。身内の贔屓目(ひいきめ)ってわけじゃなくて、あそこはレベルの高いショップだから。ま、ドライバーの腕も相当なものなんでしょうけどね。」

 そこまで言って、水看はもう一度お茶を口にした。

「……成る程ね。そうして考えてみると、夕べの敏の様子も理解出来るわ。いきなりミッションブローさせて持って来るし、しかも理由聞いても上の空な返事ばかりしてたから、どうしたのかと思ったってたけど、そういう事だったのね。」

 水看はそこで一旦納得したような表情を浮かべたが、美由が答えを得られずにがっかりした様子を見て、軽く溜め息を吐きながら持っていた茶碗をテーブルの上に置いた。

「あんたがそんなに気に病んでも仕方ないじゃない。世の中は狭いようでまた広くもある。その中には、高い性能のマシンとそれに見合う技術を持ち合わせた、途方もなく速い走り屋だって居るわよ。」

 しかし美由は弱々しい声でポツリと呟いた。

「だからですよ……。」

 見れば先よりも深刻そうな顔付きである。

「幕張という地でスピードを追求する以上、敏ちゃんにだっていつかこんな事が起こる日が来るんだろうと頭では分かっていたつもりなんだけど……。今回の敏ちゃんの様子は今までとは違ってました。シルバーブレイドに対して、他の走り屋にはない“何か”を感じ取ったのは間違いないと思うから……。ねえ、水看さん。敏ちゃんは……やっぱりこれを機に変わって行くのかな……?」

 美由が何を言わんとしているのか、水看にはよく分かっている。それは、美由が敏行と始めて此処を訪れた時から気付いていた事だったのだから。それなのに、いや、それだからこそ、水看はそこで顔を(そむ)けて黙り込んでしまった。

「水看さん……?」

 縋るように目線だけ上げて美由は訊き返したが、水看がそれに答える事はなかった。

 

 

 本当に聞きたかった事の回答は得られず、美由はとぼとぼと工場を後にする。尊もそれを追おうとしたが、その前に水看に聞きたい事があった。美由が聞こえない距離まで離れた事を確認すると、その上で更に声のトーンを落として水看に言葉を掛ける。

「どうして……美由に答えてあげないんですか? 水看さんも、美由の想いは分かっているんでしょう?」

 水看は目も向けず、尊に答える。

「……私には、答える資格なんてないのよ。走り出した者は、もう誰にも止める事は出来ないものだから……。」

 尊は暫く黙っていたが、立ち去る前にもう一度口を開いた。

「……水看さんにも思う所があるんですね。でも、水看さんは美由の力になってあげられる筈です。ですから……。」

 それから会釈をすると、足早に美由の跡を追って工場を出て行った。

 やがて、シビックのエキゾーストノートが闇の向こうへと消えると、その方向を向いたまま立ち尽くしていた水看は、そっと呟く。

「……私にも、こんな時が来るってのは分かってた事の筈なのに……。いつかこんな時が来ると直感したからこそ、あの時あの子達のチューンを引き受けた筈だったのに……。見捨てられないと思って世話焼いときながら、いざとなったら相談にも乗ってやらないなんて、とんだ卑怯者よね……。」

 振り返ると、そこには敏行のインプレッサ。水看は、項垂れて目を閉じる。

――済まない。

 

 

 

 

 夜の帳が降りて久しい。日付は既に変わっている。今夜も、幕張に集い来る幾人かの者達。赤いセリカに乗った男は、見知った顔を見つけて、車を降りてその下へ駆け寄る。

「俺だって、それなりに忙しいんだからな。」

 冗談半分に豊が言う。しかし、敏行の反応は薄い。生返事のような回答をする。

「ああ……悪かったね。」

 豊が少し怪訝な表情をする。

「どうした? やけに落ち込んでるじゃねぇか。今日はお前は車がない筈なのに呼び出すから何かと思ったが、昨日の連中のショックがデカかったのか?」

「豊は、そんな事ないの?」

「俺か? そりゃ、ショックだったぜ。いや、ショックっつーか……なんか危うさすら感じた気がしたな。あいつらには。だから、俺は早々に降りちまったんだけどな。」

 悔しそうというよりは、少し照れ臭そうに言う。敏行は余り表情を変えずに言葉を返す。

「僕の時は必死になって食らいついて来たじゃないか。」

「お前の時は、まだそれでも何とかなると思えたんだよ。だが、昨日の連中は格が違い過ぎた。今の俺らに追える相手じゃねぇと思ったから、あっさり引いたんだよ。ま、流石にお前は結構ついて行けてたんだろ。」

「いや、寧ろ弄ばれてただけだよ。引くか引かなかったかの差だけで、僕だって似たようなもんだよ。」

 豊が再び怪訝な表情を浮かべる。

「何だよ。弱気だな。俺に言い放った時みたいな自信はどうしたんだよ?」

「というよりも、豊の方がハイになってるんじゃない?」

 確かに、今日の豊は以前に会ったときに比べると、妙に饒舌である。豊もそれを否定しない。

「そうだな……確かにそうなのかもしれねぇな。だってよ、面白くなりそうじゃねぇか。確かに昨日の俺達じゃ、あいつらには(かな)いっこなかった。でも、それなら俺達が技術を磨くしかねぇ。そうすりゃ、いつか俺達があいつらを超える時が来るかも知れねぇ。……って、これはお前の受け売りだぜ?」

 敏行は少し驚いたような顔をしながら、豊を見上げる。

「……そういや、そうだったね。」

 その表情には、少し明るさが戻っていた。そう、自分だってそう思い続けて、此処を走っている。

「ところでさ。まぁ、多分知らないとは思うんだけど……S201の噂って聞いた事ないかな?」

 敏行が急に話題を振る。

S201? 何だよ、そりゃ。」

「ホラ、インプが丸目にモデルチェンジする寸前に出た、やたらごついエアロ着けた旧型インプだよ。シルバーとグレーのツートンでさ。300台限定だった奴。」

 すると豊は少し考え込んだが、やがて思い出したらしく顔を上げる。

「ああ、そんなのもあったか……。噂って、要はS201乗りの噂って事か? 俺は聞いた事ねぇな。」

「そうか。なら、良いんだけどさ。」

 敏行はあっさりそう言ったが、豊の方はわざわざ具体的な車種まで挙げて尋ねて来た事が逆に気になったようだ。

「そんな車だったら、単に走ってるだけでも噂になりそうなもんじゃねぇか。そんな噂、あんのかよ?」

 しかし敏行はその受け応えに慣れきっているかのようにして言った。

「ん? ああ、前にちょっと聞いた事があってね。」

そこまでで言葉を続けるつもりのなさそうな敏行を見て、豊もそれ以上追求するのを止め、話題を変えた。

「ところで、今日はお前、どうすんだよ?」

「そうだな……。折角だから、僕をナビに乗せて少し走るってのはどうかな?」

 

 

 

 

「水看さんはさ……。」

 ガレージ木之下からの帰途の車内。ずっと黙りこくっていた美由が、不意に口を開く。

「前に言ってた事があるんだ。本当はチューニングには携わりたくないんだけど、私達だけは特別だって。確かにチューンって事では、こないだ私はロードスターを凄いのにしてもらったよ。でも、それと私達が特別なのとは、また別のような気がしてならないんだ……。」

 少し表情を整えて、言葉を続ける。

「水看さんが信じられないんじゃないんだよ。そういうのとは違うんだけど、でも、何で水看さんはあの時に私達の車を見たいって言って来たのか、今でも不思議に感じる事があるんだ。その辺の事は、水看さんも話してくれないしね。今日みたいに……。」

 再び美由の表情が沈む。尊は美由を一瞥した後に言う。

「他人の本心ってのは誰にも分からないものだからね。水看さんも訳ありなんだとは思うけど、それでも、大袈裟な言い方かもしれないけど、少なくとも私には、水看さんから悪意は感じられないよ。だからさ……いつか話してくれると思うよ。今は、水看さんを信じて待つしかないよ。」

「そうだね……。」

 言葉では同意するも、美由の表情はやはり沈んでいる。そして尊も、その言葉だけでは美由は納得しないであろう事は、すぐに悟ったようである。尊が更に続ける。

「でもさ。皆が皆、離れていくわけじゃない。同じ志を持って人々が集う幕張(ここ)は、特にね……。」

 尊の表情は、何時の間にか真剣さを帯びていた。一方の美由は表情はそのままに言う。

「確かに、それはそうなんだけどさ……。でも、その志に余りにも一生懸命になり過ぎて、周りの人間をその志の観点からしか見れなくなる事もあるじゃん。私も、昔はすっかり周りが見えなくなってたもんね。気付いた時には……。」

 そこまで美由が言うと、まるでそこから先は言わせないとばかりに、遮るように尊が口を挟む。

「だけど、私は今、此処に居るよ?」

そして、少し表情を和らげてから言う。

「ねぇ。私、今夜もちょっと走り込もうかと思ってるんだけど、付き合ってくれない? やっぱり、速い相手が居ると楽しいじゃない? それに、ロードスターの慣らしにも、私相手なら丁度良いでしょ?」

 その言葉の意図は、美由にも痛いほど分かる。

「尊……。」

 

 

 

 

 ロードスターのシートに座り、ベルトを締める。イグニッションキーを捻り、エンジンを呼び覚ます。バケットシートに身を包まれて聞くその咆哮は、精神を非現実へと引き摺り込む。水看によって強大なパワーを得たロードスターだが、美由の手には余るものではない。ライトウエイトスポーツという、ロードスターが本来持って生まれたコンセプトとは相反する大パワー。換装されたエンジンは、生産ラインより上がったものから然程手を加えられてはいないとはいえ、与えられた約300psという数値は、ロードスターには似つかわしいもの。だが、軽量プラス大パワーの図式は、危険性を(はら)むと同時に底知れぬ速さも導き出す。マツダの象徴とも言えるそのエンジンは、独特のサウンドを響かせて深夜の街を駆けて行く――。

 ロードスターが出るのを見て、シビックが後に続く。尊のシビックもそれなりに手が加えられてはいるが、今となっては性能的にも美由のロードスターには到底及ばない。美由もそれは承知で、尊がついて来れる程度に軽く流す。それでもロードスターの性能の片鱗は、後ろを行く尊にもよく分かる。それは一介の走り屋として、震えるほどの凄さを感じさせるものだった。

「走りではついて行けなくても、私は絶対に見放したりしないからね……。」

 そう呟いてから、尊はアクセルを踏み込んだ。

 

 

 助手席に敏行を乗せてゆったりと流す豊のセリカ。それに近付く二つのヘッドライト。

「おや? あれは……。」

 気付いた敏行が後ろを振り返る。

「お、あの二人も今日も出て来てたのか。」

「二人?」

「美由と尊さ。」

 やって来た二台も此方が知った車である事に気付いたらしく、速度を落として後ろに着ける。すると敏行が突然、曰く有り気な笑みを浮かべる。

「……そうだ、豊。折角だし、美由を追ってみなよ。」

「え? 突然何だよ。」

 唐突な提案と敏行の表情に、豊は不思議そうな顔をする。

「気が向いたらで良いからさ。豊も、あの車の素性には興味があるだろう?」

 そう訊かれた豊は、改めてロードスターのエキゾーストノートに耳を傾けてみる。

「そりゃ確かに……あの音聞かされちゃあな。」

「でもまぁ、僕から提案しといて何だけど、恐らくかなり苦しいと思うけどね。」

 そう言われて、豊は少し気に食わないという表情を見せる。

「ム……そう言われちゃ、やらないわけにも行かねぇな。」

「よぉし。それじゃ、頑張ってよ。」

 敏行は窓を開けて腕を出して煽り、美由に行くように指示する。それを見て、美由はアクセルを踏む。同時に豊も加速態勢に入る。二台のエキゾーストノートが交じり合う。尊も後を追うが、二台に比べて加速性能の劣るシビックはついて行けない。

 裕に100psを超えるパワー差と駆動輪の違いから、流石に加速はセリカの方が速い。だが、ロードスターもその車格からすれば相当な加速を見せる。少しずつだが離れて行くロードスターを見て、敏行が言う。

「分かってるとは思うけど、手加減なんてしたらあっという間に食われるからね。というよりも、出来る限りこっちの有利なシチュエーションに持って行った方が良いかもね。何なら、15号線を下ってっても良い。」

 15号線とは、海岸沿いを通る県道15号の事。海浜大通もこの15号線に含まれる。それを千葉港方面へ向かって行くのが下り。緩く曲がっている部分もあるが、基本的に真っ直ぐな道である。

「思いっ切り直線コースじゃねぇかよ。……ったく。そう言うなら、敢えて15号線で行くぜ。」

 そう言って豊は左にウインカーを出す。国際大通から海浜幕張公園の交差点を左折して15号線に入る。大して離れてはいなかったとはいえ、二台の車間距離が一気に詰まる。驚く豊を横に、敏行は言う。

「美由、まだ様子見って感じだな。直線ではきっちり踏んで行きなよ。」

「えらい念の押しようだな。チラッと話は聞いたが、そんなに凄ぇのかよ?」

「ああ。そりゃあ、凄いよ。」

 そして、後ろを走るロードスターの姿をバックミラーでチラッと確認した後、少し硬い表情で言う。

美由(あいつ)は、天才なんだよ。」

 

 

 前を行くセリカが見浜園の交差点でウインカーを出さずに直進する。15号線を下るつもりのようだ。車線が絞られる交差点まで此処から約5km。その間にあるのは、4つの超高速コーナーのみで、後は只管(ひたすら)ストレートである。

「こっちに来たかぁ。こりゃ、敏ちゃんの入れ知恵かな……。」

 そんな事を考えつつも、美由の眼はしっかりとセリカを捉えている。

「でもね、豊君。悪いけど、多分そんなのは役に立たないよ。私は、もう皆から遠く離れた所へ行っちゃってるからね。もしかしたら、初めからそうだったのかも知れないけど……。」

 美由は、凛とした表情を見せる。彼女が時々見せる、しかし人には決して見せようとはしない、諦めのような表情も織り交ぜて。だって、陳腐な楽しみを味わっていただけの、軽くて薄っぺいあの頃には、もう戻れないのだから――。

 

 見浜園の付近も軽く右に曲がってはいるが、此処はまだハンドリングだけで切り抜ける事が出来る。しかし、美浜大橋の手前の左コーナーへ差し掛かる頃にはスピードも乗り、そのまま突っ込むわけには行かない。タックインで進入する。だが、オーバースピード気味だった為に、途中でブレーキを踏み足す事を余儀なくされる。その途端、後ろから迫る排気音が一気に大きさを増して聞こえて来る。

「くッ……!」

 最初はそれは自分のコーナリングが拙かった事に因るものと思っていたので、仕方ないとは感じていた。だが、抜き去り行くロードスターの姿を見て、例え自分が完璧なコーナリングをしていたとしても、結果は同じだったであろうと痛感させられる。

「うおッ!」

 再び叫び声を上げる豊を尻目に、美由のロードスターはまさに吹っ飛んで行くかの如くにコーナーを一気に抜けて行く。傍目にはかなりのオーバースピードに見えるのに、ロードスターは綺麗に滑りながら前へと進んで行く。豊は絶句する。

「だから言っただろ? ホラ、気抜いてると、置いて行かれるよ。」

 敏行は不敵な笑みを浮かべながら言う。豊はアクセルを踏み込んで、それに相槌を打つ。

再びストレートに差し掛かり、セリカはロードスターとの距離を徐々に詰めて行く。だが、思ったよりも差が開いていた。美浜大橋を越え、花見川終末処理場を過ぎても追い切れない。そうしている内に、市立海浜病院が見えて来る。2つ目のコーナーが差し迫って来たのである。ロードスターの後ろに貼り付く事は出来たが、抜く事は出来なかった。

「くそッ!……駄目だ。今日は、此処までだ……。」

 豊はそう言うと、アクセルから足を離す。ロードスターは、連続する二つの高速コーナーを華麗に抜けて行くと、そのまま千葉港方面へと走り続けて行った。

「何だ。もう諦めちゃったのか。まだまだ追えたんじゃない?」

 敏行が少し残念そうに言う。

「まぁな……。コーナーで抜かれ、ストレートで抜き返すって展開を繰り返せば、そこそこついて行けたとは思うぜ。でも、暫くは消耗戦は避けたいんだよ。こないだのお前とのバトルで、思いっ切りタイヤとか減らしちまって、交換したばっかだから、今、金欠なんだよ……。」

 少し情けなさそうに言う豊に、敏行も苦笑いしながら同意する。

「確かに、それは切実な問題だよね……。僕だって、あの後はタイヤ換えたし、それに加えて昨日はミッションブローだからね。僕も暫くはきつい状態が続きそうだよ……。」

 妙な共感を得た後、豊が言葉を続ける。

「それに、あんなコーナリング見せ付けられちゃな……。お前達が凄い凄いって言ってた理由が、俺にも良く分かったぜ。確かに、ありゃ凄ぇや。軽量FRにあのドライビングテクニックは、ドンピシャなんだな。ったく。俺、ここんとこ良い所なしじゃねぇかよ。」

 悔しいながらも感服といった表情をする豊。

「ね。美由は、天才なんだよ……。」

 一方の敏行は、少し遠い目で再びそう言う。

 やがて、少し遅れて尊が追い付き、美由は端まで行ってからUターンして戻って来る。面子が揃った所で車から降り、駄弁り始める。そんな中、敏行は一人その輪から少し離れ、人の居ない海の方を漫然と眺める。

「そう、天才……。凡人は幾ら努力した所で、絶対に達し得ない領域に行く事が出来る、一握りの人物……。けど、だからこそ僕は美由を超えなくちゃならない。こんな所で立ち止まっているわけには行かないんだ。いつか、あの車と再び相(まみ)える事が出来た時の為に……。そしてシルバーブレイドの二人にも……。」

 ――理由ってもんは、人から教えられるもんじゃない。自分で見つけ出すもんだろ。違うか?

「真の理由を見つける為にも、僕は走り続けて行くしかないんだ……。」

 幕張(ここ)に集う者達の車に掛ける想いは、果てしなく深い。そして、彼らは目指す。まだ見た事のない、未知の領域を――。