― .背反Verstoß ―

 

 (たゆ)みない努力を続けて前へと進んで行く時、今までは無かった何かを手に入れる事が出来る。しかし、その時にふと後ろを振り返ってみると、始めは持っていたのに何時の間にか失ってしまったものもある。何かを得る為には、何かを失わねばならず、欲を出して両方を同時に得ようとすれば、何も得られない。物事は時に二律背反。二者択一。岐路に立たされた人が選ぶ道筋は様々。そして、背を向けた者同士は、徐々に離れ行く。

 一度振り返ってしまうと、つい失った物や去って行った者の事ばかりが目に付く。だが、前を振り向いてみれば、新たに得た物が広がり、巡り巡って同じ道を歩んでいる者達が居る。淘汰され続けても、残って共に進む者達が居る事に気付ければ、もう後ろを振り返る必要などない。

 それでも、迫られた取捨選択が非常に辛く感じられる事もある。葛藤の果てに、人は答えを見出す事が出来るだろうか――。

 

 

 

 

 日は沈み、街の喧騒は次第に終焉を迎えて行く。ガレージ木之下も業務を終え、作業員達も帰途に着き始める。そんな中へ、ガレージ木之下のステッカーを貼った一台のムーヴが訪れる。ステッカーを貼っていると言っても、そのムーヴがデモカーとかいうわけではない。敏行が代車に乗って、預けていたインプレッサを取りに来たのである。

「どうも、お世話様でした。」

 敏行が仕事帰りの格好のままで現れる。その姿に、一人作業を続けていた水看が気付く。

「あ、敏ね。今日は早く上がれたのね。」

「と言うか、上がらせて来ましたよ。やっぱ普段乗り慣れてる愛車が無いってのは、何だか寂しいもんですからね。」

「そりゃ確かにそうよね。例によって、裏に置いてあるから。」

「分かりました。」

 そう言って敏行は裏手へ車を取りに行こうとする。だが、水看がふと思い出したように敏行を呼び止める。

「ああ……そうだ。今回、修理ついでに少し弄ったから、多少フィーリングが変わってると思うわよ。」

「え、そうなんですか?」

「折角だしね。といっても、そんな劇的な事をやったわけじゃない。少し走ってみれば違いは分かると思うけど、違和感はない程度にしたつもりよ。ま、セッティングの一環とでも思ってくれれば良いわよ。」

「了解しました。今夜、早速試してみますよ。あっと、代車のキー、返しておきますね。」

 敏行が水看にキーを手渡す。そして裏口から出て、インプレッサに乗り込む。水看も見送ろうと後をついて行く。エンジンを掛けると、敏行には久々のエキゾーストノートが響く。暖気の間の時間を潰す為に、敏行は窓を開けて水看に話し掛ける。

「そういや、美由のロードスター。あれは本当に凄いですね。僕はまだ一緒に走ってはないわけですけど、それにしてもあのコーナリングスピードは尋常じゃないですよ。それこそ湾岸みたいな所でもない限り、100ps程度のパワー差なら補って余りあるほどですね。いやはや、水看さんもとんでもないマシンを美由に与えちゃったもんですよ。」

「もう手に負えないって?」

 水看が尋ねると、敏行は身振りも加えてそれを否定する。

「いやいや、そんな事は言ってないじゃないですか。少なくとも僕は、あいつを追うつもりですよ。こんな身近な相手に負けてちゃ、先がありませんからね。」

 その言葉に、水看は腕組みをして少し俯く。

「……シルバーブレイド……か。」

「ああ、なんかそんな通り名があるそうですね。……正直、彼らには恐怖すら感じましたよ。ただ上手いだけじゃない、何か超越したかのような、そんなレベルにまで達した走り屋ってのが、世の中には居るもんなんですね……。」

 姿勢を変えずに、水看が問う。

「それで、美由を超える事であんたには何かが見えて来そうな気がするの?」

「どうでしょうね。でも、やっぱり美由はターゲットにするべき相手だと思ってますよ。速い相手が居れば、そいつよりも速く走ろうとするのが、走り屋の摂理じゃないですか。無理と思って諦めたら、それ以上の進歩は望めないですよ。」

「そう……。」

 腕組みを解いて、水看が相槌を打つ。話はそこで区切れ、敏行は水温計に目を遣る。暖気は十分出来ていた。

「じゃ、行きますね。有難う御座いました。」

「ああ。あ、行き成り回しても構わないけど、あんまり無茶はさせちゃ駄目よ。」

「分かりました。それじゃ。」

 敏行は左手を挙げて挨拶をし、そのままインプレッサを発進させる。

 インプレッサを見送ると、水看は工場内へと戻る。いつしか従業員達は全員引き払っており、工場内に人気はなくなっていた。それを確認すると水看は事務所へと入り、椅子に腰掛ける。

「無理と諦めたら進歩はない……か。全く、月並みな事言ってくれたものよね。……でも、あんたはそう信じて止まないって事か。確かに、それは真理よね……。」

 椅子に凭れ掛かったまま、水看は深く溜め息を吐く。

「女は現実的で夢に見切りを付る事が出来て、逆に男はいつまでも夢を捨てられないなんて言われるけど……私は余りにも夢を見る事が出来なくなり過ぎてる……。そして、美由もそう。いや、あの子は本当はそうじゃなかったのに、謀らずも周りの環境があいつから夢を奪い去った……。でも、見切りを付けられるなんて、少なくとも私にとってみれば大嘘よね。見切りを付けた振りをしてるだけで、本当は過去をいつまでもズルズルと引き摺っているだけ。あの頃の事を思い出させるからって、何も出来ないくせにあの二人を巻き込んだりしてね。」

 水看は、窓の外へと目を遣る。街はまだ喧騒に包まれ、数多の光が踊っている。

「敏……私は、嫌味じゃなく、無邪気に走りに熱中出来るあんたが羨ましいのよ。でも、それが美由の苦悩の原因だってんだから、皮肉なものよね。物事ってのは、上手く行かないものね。皆、ただ走りが好きで集まっただけなのに、それが連中の歯車を狂わしてるっていうんだから……。」

 水看は暫くそのままの姿勢で項垂れていた。

 

 

 

 

 喫茶店の後片付けをしながら、美由は窓からふと空を見上げる。

「時間の割りに暗いと思ったら、いつの間にか曇ってたんだ。」

 さっきまでは赤々とした夕焼けだった空が、すっかり厚い雲で覆われている。夜の天気が気になり、美由は階段から階下に居る楓に尋ねる。

「ねぇ、お母さん。今夜って、天気予報で雨降るって言ってたっけ?」

 荷を運んでいた楓は、足を止めてそれに答える。

「そうねぇ。確か、降水確率40%とか言ってたかしらね。でも、この感じだとその内に降りそうね。」

「40%か……微妙な所だね。」

 今夜も走りに行こうと思っていたが、それを聞いて少し迷う。ピーキーなマシンだけに、美由と言えども雨降りは喜ばしいものではない。

「……ま、40%くらいじゃ何とか持つかな。」

 結局そう結論付け、予定通り今夜もロードスターを駆り出す事にする。

 

 

 

 

 真夜中の曇天の幕張。いつにも増して街は暗く、逆に走り抜ける車のヘッドライトが眩しく照らす。美由のロードスターは、周回コースを巡っていた。美由にしてみればまだ軽く流しているという程度なのであろうが、他に走っている幾台かの車を次々に抜き去って行く。その速さに戦意喪失したのか、追って来る者もない。

「速い……ホントに速いよ。このマシンは。」

 美由が思わず呟く。美由の技術があってこその速さではあるが、マシンの性能も間違いなく高い。慣らしも終わったこの車に乗って、改めて水看のチューニングの技術の高さを実感する。

「水看さん……勿体無いよ。エンジンだけじゃない、トータルバランスでこんだけ凄い車を作れるのに……。」

 確かに水看は始め、チューニングという言葉に良い反応は示さなかったし、今でも美由と敏行以外の車を水看が手掛けている様子もない。だが、そもそもガレージ木之下はBeyond Limitの支店である。その肩書きを持つ事が許されているという事だけでも、水看の技術を裏打ちするのに十分と言える。それでも、水看はその事に関しては口を開こうとはしない。不信感というほどのものではないが、美由はどうしても釈然としないものを水看に感じざるを得なかった。

 そんな事を考えていると、突然フロントガラスに水滴が弾ける。続いて、幾つかの雨粒が同じように落ちて来る。

「あ〜、遂に降り始めちゃったかぁ。ま、でも、まだ本降りにはならなさそうだけど……。」

 少し困ったように呟く。だがその時、後ろから一台の車が迫って来ている事に、美由は気付いた。今までに抜き去った車とは明らかにレベルが違う。しかし、そのエキゾーストノートには覚えがある。

「……敏ちゃんか。」

 後ろについた車はインプレッサワゴン。間違いなく、敏行である。敏行は後ろで時折煽るような素振りを見せる。ランデブー走行ではなく、競い合う事を望んでいるようだった。

病み上がり(・・・・・)にしちゃ、元気みたいだね。……良いよ。本降りになるまでね……。」

 もう一度バックミラーでインプレッサの姿を確認する。

「こんなマシンを手に入れちゃった以上、もう私は行く所まで行くしかないんだ……。」

 まだ小雨とも呼べない程度の雨の中、ロードスターはホイルスピンを起こしながら、更なる加速体勢へと移って行った。

 

 

「……ホイルスピンさせるのを見たのは初めてだな。美由の奴、今までまだ最初からフルスロットルやった事はなかったってわけか……。」

 敏行は少し苦笑いしながらロードスターの後姿を見据えていた。

「逆に、今回は本気ってわけだ。……頼むよ。こっちだって、手加減されちゃつまらないからね。」

 表情を険しくし、敏行はアクセルペダルを踏み込む。追従するには十分なインプレッサの加速性能。ピタリとロードスターの後ろに張り付く。

「……良い加速だ。流石は水看さん……ってとこか。」

 中回転域から一気に伸びるようになったインプレッサの仕様変更に、敏行は満足していた。普段乗り慣れている車の仕様変更は、僅かなものであっても乗り手にはよく実感出来る。

 二台は、テクノガーデンの交差点へと突っ込んで行く。この先に続く駅前ストレートの為にも、此処のコーナーはきっちりとクリアしたい。先ずは美由のロードスターが、軽い動きでコーナーへと突入する。続いて敏行のインプレッサが、きっちりと減速してコーナーに進入する。突っ込みでロードスターが差を開き、立ち上がりでインプレッサが差を詰める。駅前ストレートを視界に入れ、アクセルを踏む。EJ20が、サウンドを高鳴らせる。

「あれ……?」

 加速の最中で、敏行が突然首を傾げる。間違いなくインプレッサは加速し、前を行くロードスターとの差は詰まっている。回転数も鋭く吹け上がって行っている筈なのだが、敏行が頭で思い描いていたよりは僅かに差の詰まり方が少ないような気がした。

「気の所為……か? それとも、僕が思ってたのよりもロードスターの伸びが良かったのか……。」

 一瞬そんな風に考えたが、すぐに思い直して、視線を前方へと集中させ直す。美由は左右にラインを変えながら軽くブロックして来てはいるが、執拗というほどではない。追い付き、ノーズを脇へ押し込もうとすると、美由は道を空ける。アクセルを踏み直し、ロードスターを抜き去る。ストレートはまだ中盤。出来る限り差は付けておきたい。

 

 

 少しだけ上方へ目を遣る。曇天の空は、まだ静かである。

「さっきは偶々ちょっと降っただけなのかな……。思ったよりも本降りまで間があるかも……。」

 本降りになったら止めようと思っていた美由だが、今の様子だと予想よりも降り出すのが遅い、つまり敏行とのバトルが可能な時間は思ったよりは長そうである。美由は、長期戦を覚悟すると同時に、決めに行く機会も伺おうと決める。

 幕張海浜公園の交差点。少し離れたインプレッサのブレーキランプが灯る。それを目掛けて行くかのように、ロードスターの車体をコーナーへと投じる。ギリギリまで突っ込み、素早い操作で車体を曲げる。単にリヤがブレイクしただけのようにさえ見える動きで、インプレッサを追い詰める。その時、インプレッサが僅かに外へと孕んだ。インに開いた隙間は、ドライバーの視点からは1台分に満たないかのようにすら見えるほどの狭い隙間でしかない。しかし、美由はそこから巧みなアクセルワークで車の向きを調節し、その隙間へと割り込む。インを突かれた敏行は、更にインプレッサを外へと逃がさざるを得ない。コーナリングスピードは軽量なロードスターの方が上。美由のロードスターが、再び敏行のインプレッサの前に立つ。

 

 

「くッ……相変わらずやってくれるな。」

 外に孕んだとはいえ、割り込まれるほどの隙間が開いていたとは思わなかったし、無論あそこで抜かれるとも思わなかった。

「あそこは抜かれないで行けると思ったんだけどな……。」

 此処のストレートは400m足らず。それでも、敏行は抜き所を探る。此処で前をキープされてしまうと、次の見浜園の交差点で差が開いてしまう。それだけに、せめて車体半分だけでも割り込んでおきたい。だが、美由の方もそれを承知しているのか、今度は確実に此方をブロックしてくる。もどかしさを感じながらも、敏行は前に出る事が出来ない。そのまま、見浜園の交差点に達してしまう。

「……大人気ないとは思うけど、止むを得ない……。悪く思わないでくれよ、美由!」

 手前で少しアウト側へ振る。前を行くロードスターも合わせてアウト側に行き、ブロックする。しかし、交差点が迫り、ロードスターがイン側へ寄ろうとする。ブレーキランプが灯るタイミングは今回も遅い。だが、敏行は更にそれを遅らせる。しかも、イン側から無理に割り込む。当然、スムーズにコーナリング出来るラインではない。此処は、ロードスターのラインの妨害に徹する。美由が減速した事を確認してから、渾身の力を込めてブレーキペダルを踏み付ける。ブレーキローターがオレンジ色に輝き、タイヤからはスモークが上がる。インプレッサは極端にフロントを沈み込ませ、コントロールを失いかける。だが、ギリギリの所で膨らまずにインベタのラインを保つ。クリップを塞がれた美由は、敏行と並走状態で一本外のラインを行く。傍から見れば綺麗なツインドリフトにでも見えるかも知れない。しかし、彼らはお互いの横を走る事などは望んでいない。望むのは、相手より前を走る事、ただそれだけである。

 ほぼ横並びの状態から、立ち上がる二台。立ち上がりはインプレッサの方が圧倒的に有利である。前に立つインプレッサ。再びロードスターとの差を少しずつ開きながら、公園大通を全力で加速して行く。

 

 

 美由にとっても少し予想外の展開になって来ている。ストレートは不利でコーナーでは有利。その為、ストレートで前をキープ出来れば突き放して行けると踏んでいた。だが、かなり強引だったとはいえ、セオリーに反してインプレッサにコーナーで差されてしまった。

「ブレーキバランスが弱かったのが、あそこでは仇になっちゃったか……。」

 最初は雨の事もあって、それほど長引くとは思っていなかったが、敏行の予想以上の闘志に、美由も自然と更に力が入って行く。普段は敏行が走り屋の世界へと引き込まれて行く事に良い顔をしない美由だが、それでもバトルとなると一介の走り屋としての血が煮え滾る。自分の流れる血液が沸点に達した事を感じ取る。

 ひび野2の信号を過ぎた辺りから、道はかなり緩くではあるが左、右と反っている。高速コーナーとは言えども、実際に高速域で突入するとなると、ラインを少しでも間違えれば大きく減速する事を余儀なくされてしまう。敏行のインプレッサは勿論の事、美由のロードスターもその軽量さからなかなかの加速性能を誇る。それ故に、かなり速度が乗った状態での進入となるが、どちらも全開のまま突っ込んで行く。前を行くインプレッサは、4WDであるが故に苦しいコーナリングとはなるが、スキール音を響かせながら何とかクリアして行く。一方のロードスターは、慣性に車体を委ねながらコーナーを駆け抜けて行く。続く右コーナーは、僅かだがRがきつい。今度はインプレッサは若干のブレ−キングを強いられる。だが、美由はそのままの勢いで右もクリアする。インプレッサの後方にピタリと付けるロードスター。

 短い直線の後に待ち受けるのは周回コース北東の交差点。再び抜き所を伺おうとする美由は、既に雲行きへの興味を失っていた。

 

 気にし過ぎないようにとは思っても、やはり後ろが気になる。幾度もバックミラーを覗いた後、北東の交差点へ突っ込む準備に入る。先行はプレッシャーが掛かるが、此処は相手の得意技が突っ込みという事もあり、少し優位ではある。もっとも、それで油断をすればすぐにでもその隙を突かれてしまうのは明白であるが。

 車をしっかりと減速させながら、後ろを確認する。ラインを塞いでいる事を確認しつつ、左へと旋回して行く。きっちりとクリップに付き、そして立ち上がる。もう一度後ろを確認する。ロードスターの姿を、バックミラーは捕らえている。走り始めて三つ目の交差点。始めてポジションの入れ替わりがなかった。何も起きなかった事を以外にすら感じながらも、更にその先を目指す。

 次の交差点、テクノガーデンまでの道も緩くS字に曲がっている。見た目よりはきついが、速度が落ち着いているので比較的楽である。二台がスムーズに抜けて行く。ロードスターは後ろに張り付いたままだ。そして、テクノガーデンの交差点。此処もきっちり減速して丁寧にクリアして行こうとする敏行。イン側に寄ってコーナーへ進入する。そこで一瞬だけ右側のドアミラーへ視線を遣る。だが、そこにはロードスターの虚像は映し出されていない。敏行の視線に入ったのは、インプレッサの横に居る、紛れもないロードスターの実像だった。

「しまっ……丁寧に行き過ぎたか!?」

 外から怒涛の勢いでコーナーへ突入する。その車体は、未だにフロントに荷重の掛かったインプレッサが達するよりも早くクリップを舐め、そのまま綺麗にアウト側へ膨らみながら立ち上がって行く。眼前に出られた時に、思わず一瞬ブレーキを踏み足してしまったインプレッサは、大人しくタイヤをグリップさせてコーナーを脱出する。

「くッ。直角コーナーなのに、インに寄り過ぎたか……。」

 後悔の念が湧いて来る。だが、不可逆のものを取り返そうとしても無駄である。今、この瞬間において、状況を打破して行かなくてはならない。

「やっぱり、守りに入っちゃ弱いか……。」

 離れたロードスターを追うべく、アクセルを踏み込む。

 

 

 立ち上がりの時点で少し差をつける事が出来た為、まだインプレッサは少し離れた距離に居る。

「敏ちゃんは、決定的な差を付けないと諦めてくれないからね……。」

 この長い駅前ストレートでは、一度抜かれてしまうとまた差を付けられてしまう。しっかりとブロックに徹そうと思ったその時、再びフロントガラスに大きな雨粒が当たる。

「あッ……!」

 声を出しかけた瞬間、数多の雨粒が轟音を立てて空から落下して来た。

「うわッ! 一気に本降りに突入!?」

 豪雨とも言えそうな降り方。ボディに当たる雨粒の音が耳を(つんざ)く。降り(しき)る雨は、視界を(にわ)かに悪化させる。慌ててワイパーを始動させる美由。しかしそれでも、眼前が半透明にでもなったかのように、大量の雨粒で視界を遮られる。

「……辛いかな。でも、此処まできちゃあ、引けないよね……。」

 美由は、ハンドルを握る手に力を込め直した。

 

 

「凄い雨だ……。いきなりこんなに降り出すとは……。」

 いずれ降るであろう事は十分承知していたが、この降り方には敏行も流石に驚きを隠せないでいた。前方で灯る赤い光が、雨に乱反射する。その光は徐々に近付きつつはあるが、美由がアクセルを抜いている様子はない。

「とはいえ、長引かすのは無理だろうからな。海浜公園で一発勝負のつもりか……。良いよ……。」

 雨が降ってくればインプレッサの方にアドバンテージが移る。だが、だからと言って美由が生半可なコーナリングをしてくるとは思えないし、此方も雨が恐くないわけではない。敏行も、腹を括る。

 視界の右方をメッセが過ぎ去り、いよいよ幕張海浜公園の交差点が近付く。美由は前をキープ。しかし、敏行もすぐ後ろに付けている。差は全くない。

「デッドライン……超えるのはどっちだッ!」

 二台のブレーキランプがほぼ同時に灯る。ロードスターのタイヤからは水飛沫(しぶき)が上がり、敏行の視界は更に悪くなる。それでも、頭に思い描くラインに車を投じるべく、シフトを落としハンドルを切る。だが、思ったように車は曲がってくれない。路面コンディションの変化は、予想以上だった。

「こんのぉ! 曲がってくれぇぇぇッ!」

 視界が徐々に右側へ流れて行く。テールスライドの姿勢に入っているロードスターが、まるで真横を向いているかのように見えるほどのラインを、インプレッサは進んでいた。

 

 

 背後を照らすヘッドライトの光が、真後ろからややずれた位置へと移動している気がする。コーナリングの最中でそう感じた美由は、絶好の、そして一度きりの勝機と思い、生理的に湧き上がる恐怖心を押さえ込んでアクセルへ足を掛ける。

「彼方へ……ッ!」

 巻き込もうとしている感じはあるが、突然のウエットコンディションの路上で、ロードスターは旋回している。カウンターを当てながら、車体を道と平行に合わせようとする。滑るように流れて行くロードスター。いつの間にか、美由は目一杯カウンターを当てていた。なかなか向きが戻らない。実際にそんな事を考えているほどの時間はないのだが、その刹那に体感がそう伝えて来る。

「……嘘!?」

 体感が続けて美由に教える。もう、立て直す事は出来ないと。タイヤと路面の間に水が割り込み、グリップを失わせている。眼前に歩道橋が映る。

「お願い! 戻ってぇッ!」

 美由の叫びも虚しく、ロードスターは見事なまでにスピンモードに入る。

 

 

「ぬああああぁぁぁぁッ!」

 ロードスターがスピンした。一方のインプレッサはアンダーステアに陥り、外へ膨らんではいるが、コントロールを失っているのは同じであるので、下手をすればロードスターと接触してしまう。咄嗟に敏行はハンドルを戻し、渾身の力を込めてブレーキを踏み付ける。接触は勿論の事、車高が低い為に中央分離帯に乗り上げた場合も無傷では済まない。だが、濡れた路面でタイヤはロックするばかり。ロックする度に踏み直しつつ、止まってくれる事を願う。その一瞬は、まるでスローモーションになったかの如くに永く感じられる。

「……と……止まっ……たか……。」

 そして、辛うじてインプレッサはその動きを止める。ロードスターも、壁に接触する事もなく、綺麗にスピンさせて止める事が出来たようだ。アンダーステアとオーバーステア。真逆ながらも同じく操作不能に陥った二台は、何とか無事にその場を切り抜ける事が出来た。

 少しの間を置き、二人は顔を上げてお互いの無事を確認する。雨ではっきりと見えるわけではないが、その顔はまだ安堵の表情を浮かべる事が出来るほど落ち着いてはいない様子だった。しかし、道の真ん中に車体を停めっ放しにしておくわけにも行かないので、先ずは車を路肩へと移動させる。それでもまだ、汗は額を流れ、息は上がったままである。

 再び少しの間を置いた後、敏行は車から降り立ち、降り頻る雨の下へ身を置く。ほぼ同時に、美由も車を降りる。

「……何だ、美由。傘も差さないで。風邪引くよ。」

 まるで皮肉るかのような笑みを浮かべながら言う。美由も同じような表情をしている。

「……敏ちゃんこそ。何もこんな雨の中に居る事ないじゃん?」

 敏行は、暗い雨空を見上げる。

「良いんだよ。……こうやって少し頭冷やしたい気分なんだ。それでもまだ落ち着かないくらいだからね。全く、雨だってのにFRで無理してスピンするなんて、とんだ命知らずだよ。」

「何言ってんの。敏ちゃんだって、どアンダー出してたくせにさ。四駆だし、そっちの方が全然有利だったんだよ?」

 すると敏行は照れ臭そうにしながら答える。

「いや、それを言われちゃそうなんだけどね。僕もあそこで行かないといけないって思って、つい向きになり過ぎたかな。四駆に乗ってる僕が美由の前で雨は嫌だって言うのも、それこそ情けないかもしれないけど、でも僕はやっぱり雨は好きじゃないかな。僕の想い出の中でも、雨の日は(ろく)な事がないしね……。」

 敏行の遠くを見るような表情から、美由も敏行の云う想い出が何なのかを悟る。

「ああ、そっか。“あの日”も雨降りだったんだよね……。」

 その言葉に、敏行はゆっくりと頷く。

「そう。僕の原点とも言うべきあの日もね……。雨が降る度に、あの時の光景が蘇って来るんだ。フロントウインドウ越しに見る僕の視界の遥か向こうに、あの車の幻影が見えるような気さえする時もある。僕も今までいろんな走り屋に出遭って来た。シルバーブレイドや、それに美由みたいに、感銘を受けるほど凄い走り屋にも巡り会った。それでも、あの時の印象は僕にとっては余りにも衝撃的だった。勿論、美由とかがそれに劣るってわけじゃないよ。そういう単純な技術とかじゃない、もっと別の何かを、僕はあの一瞬の中で見た気がしたんだ。……ま、僕の勝手な思い込みかも知れないんだけどね。」

 最後の方は敢えて少しとぼけた感じで言う。しかし美由は、真面目な表情のままに答える。

「ううん。そんな事はないよ。確かにそれは他に人には感じられない事なのかも知れない。でも、敏ちゃん自身が感じたのなら、それは思い込みなんかじゃないよ。走り屋ってのは不思議なもので、普段何処かで出会う機会があっても素通りしてしまうだけの人同士でも、車に乗って“その場所”で出遭えば、何かを感じる事ってのはあるもんね。それは時には敵対意識みたいなものかも知れないけど、それでも私はそれを共感と呼べると思うよ。同じ場所で、同じように車に乗って、そして同じ目的を持った人同士が直感的に感じる共感。それは、走る事自体の面白さとは違った、もう一つの面白さって言うか……嬉しさみたいなものだよね。」

 美由自身、その事を良く知っているという表情を浮かべている。そして、敏行もそれに同意する。

「全くその通りだよね。だけど、それが走り屋なら誰でも良いってわけじゃないのが、また不思議だよね。世の中には走り屋って言われる人種は結構居る筈なのに、本当に共感出来る奴と出遭える事ってのは、意外と少ないもんね。まぁ、それは車が好きで走りに来ているっていう事が同じなだけで、車に対する見方とかが違うから、結局は同じ目的とは言えないからなんだろうけど。」

 その意見に今度は美由の方が同調する。

「それも言えてるよね。自分で勝手に持論を展開して、選り好みしてるだけなんだけどね。特に、幕張に集まってる人達にはそれが当て嵌まるかも。その内の一人の私が言うのも変だけど、此処に来る人達は言ってみれば走り屋の中でも少数派の、異端児みたいなものだもんね。あんまり真剣になり過ぎるもんだから、何処か排他的になっちゃうっていうのかな。」

 それに対して敏行は、やや大袈裟に皮肉めいた感じで答えた。

「ま、一般論的に見れば良い事じゃないんだろうけどね。でも、僕達が走ってる公道ってのは、良くも悪くも縛りのない所なんだ。自分が望む相手とだけ走れば良いっていうのは、ある意味当然とも言えるんじゃないかな。」

「そうだね。走るなんて事は、誰からも強制される事じゃないからね。自分の中で走る理由をなくしたら、もうそれ以上は走る必要なんて、何処にもないもんね。」

 美由のその言葉を聞くと、敏行は少し考え込むような様子を見せる。

「走る理由……か。なぁ、美由。それは、例え今は何なのか分からないとしても、自分の内に何かの理由が存在すると感じている限りは、走る事を見失っていないと言えると思う?」

 敏行が何を訊きたいのか、美由には完全には分からなかったが、自分の想いの中から言葉を選び綴って行った。

「さぁ、どうだろ……。それが本物なのか偽物なのかを確認出来るのは、やっぱり敏ちゃん本人でしかないんじゃない? その人が持つ理由は、本人じゃないと見つける事は叶わないよ。」

 それを聞いた敏行の脳裏に、再びあの言葉が蘇る。

 ――理由ってのは、人から教えられるもんじゃない。自分で見付け出すもんだろ。

「……やっぱり美由もそう思ってるんだ……。」

「私も?」

 不思議そうに訊き返した美由に対して、敏行は姿勢を変えずに答える。

「ああ、同じ事を言った人間が居るんだ……。それで、美由はちゃんと走る理由を持ってるの?」

「私? そうだね……。最近は見失いかけてたけど、でも今日敏ちゃんと走って、久し振りに思い出した気がするよ。」

 そうすると今度は敏行の方が意外そうにして尋ねた。

「僕と走って? しかも、こんな有耶無耶な終わり方したのに。」

 この類の発言には普段は余り良い表情を浮かべない美由が、少し笑ってから答える。

「相変わらず敏ちゃんはバトルとなると勝敗に拘るよね。確かに皆速さを競い合う為に集まって来てるのは事実だけど、でも走ってるって実感出来るのは結果が出た後じゃなくて、出る前じゃん? 走ってる間に何か得たり感じたりしたものがあれば、意外と結果はどうでも良かったりする場合もあるんだよ。」

「う〜ん……言われてみればそうなのかも知れないけどね……。でも、僕はやっぱり結果も大切にしたいな。」

「それが敏ちゃんのスタンスなんだから、それで全然構わないよ。」

 美由は自分でも不思議だった。いつもは敏行とこんな話はしたくないと思っていたのに、今日は全く反発する気にならない。寧ろ、自らどんどん話に乗って行きたい気分ですらあった。それは、久し振りに走り屋としての至高の瞬間を味わい、そしてその時を敏行と共に共有出来た事が、美由にとってはたまらなく嬉しかったからなのかも知れない。

「やっぱり幕張は特別な場所だよね。此処での一期一会は、本当に大切にすべきものだと思うよ……。」

 今までずっと抱いて来た想いを改め直す事は、簡単には行かない。明日になったら、また元の通りに捻くれてしまうのかも知れない。それでも、今はこの時に浸っていたかった。

 どっちが美由の本当に望んでいる事なのか。相反する二つの想いは背を向け合い、且つ(しのぎ)を削っている。決着が着く時は、近付いているのだろうか。その時、振り向けば皆は居るのだろうか。降り続ける雨の中、二人は佇んでいた――。