― 6.聖域〜heiliger Bezirk〜 ―
聖域――それは誰も侵す事の出来ない領域。その場所が持つ空気は、誰の侵入をも拒む。それと同時に、限られた者達はその空気に強く惹き付けられる。何がそうさせるのかは、惹き付けられた者達ですら解りかねる。ただ、そこに何かがある事だけは間違いない。ある者はそれを求めて、またある者は無意識の内に、聖域を訪れる。見える者にしか見えない何かに誘われて。
ならば、それが見える者達は選ばれし者なのか? 確かにそうなのかも知れない。だが、その言葉の持つ崇高な雰囲気に必ずしも合致するとは限らない。見る必要のないもの、見ない方が良いものを見てしまったが故に、選ばれてしまった者達。だが、それでも本人達はそれを誇りに思う。一握りの人種として生きている事を。
そう、幕張は宛ら、堕ちた聖域――。
「こないだのレースの記事、読んだ?」
「知ってる知ってる。バトルの方で、工藤が西山を抜いたって奴だろ?」
「そうそう。抜いたってのもびっくりだけど、でも工藤が失格になったのはもっと驚いたよ。」
「まぁ、かなりえぐい抜き方したらしいよ。記事でも結構色々言われてたし。しょうがないんじゃないかな。」
同じ職場の同僚が車の話で盛り上がっている横で、豊は黙々と仕事をこなす。車やチューニングに興味のある人間というのは同僚にもこのように幾人か居るが、彼らと車の話をする事は、豊には滅多にない。最初の頃は一緒になって話していた事もあったが、いつの間にか彼らの輪からは外れていた。とはいえ、彼らから仲間外れにされたというよりは、自分から去っていったという方が強い。話している内に、その乗りが何処か彼らとはそぐわないものである事に気付いた。
そんな事を感じていた時期に、豊はとある走り屋スポットで孝典と出遭った。多くの走り屋の集まるその場所で、孝典の持つ雰囲気は何処か不思議なものだった。不意に孝典に話し掛けられた時は戸惑ったが、人当たりの良い話し方であった事もあり、幾つか言葉を交わす。やがて、孝典はとある場所について語り始めた。空気が張り詰めたかのような独特の雰囲気を持つ場所の事を。そして豊はその場所に興味を惹かれ、孝典も豊をその場所へと招いた。そうして彼に連れられて来た地――それが幕張だった。
「人も物も、収まるべき所に収まるって事か……。」
仕事道具の片付けが終わると、豊は一言呟いた。
夜の幕張を走るSAが一台。今日は普段にも増して車の数が少なく、時折エキゾーストノートが響くのみである。夜の静寂の中を、孝典は比較的のんびりと走っていた。最初の間は他の車も見なかったが、暫くして一台のテールランプが視界に入る。向こうは此方よりも更にスローペースで流している。煽るつもりがあるわけでもないので、
孝典はゆっくりと少しずつ近付いて行く。
「見ない車だな……。」
それはS15シルビアだった。やや派手目のエアロを纏い、よく見ると大手パーツメーカーのステッカーも幾つか貼られている。その姿は、ストリートカーとしては何処か垢抜けた印象も与える。
孝典は幕張を走る大方の人間と車を知ってはいるが、この車を見るのは始めてだった。ただ、それはこの場所で見るのが始めてという意味であって、車自体には見覚えがある気もした。
「何処かで見た事あるような、ないような……。まぁ、この感じからすると、雑誌に載ってたりしたのかもな。」
どちらにしろ、恐らく新顔であろう。とはいえ、特に驚くべき事というわけでもない。集う数が少ないとはいえ、メンバーが常に固定されているという事はない。いつの間にか来なくなった者も居れば、ふと新参が現れる事もある。入れ替わりの激しいこの世界では、寧ろ孝典のように長年此処を走り続けている者の方が珍しいかも知れない。
「とにかく、また一人ニューフェイスの登場ってわけだな……。ただふらっと此処を訪れただけなのか、それとも幕張の持つこの空気に誘われてやって来たのか……。どちらにしろその出で立ちじゃ、平穏なままでは居られないだろうな。今日は出てる奴が少ないから良いが、今後も此処に来る事があれば、その時はどうなる事か……。」
シルビアは此方が近付いて行っても全く反応しない。気付いてすらいないようにも見えるほど、スローペースのままでゆっくりと幕張を巡っている。孝典はシルビアを抜き去る。
「……ま、どのみちそんな車で此処に来てるんだから、ドライブしてて迷い込んだなんて事はあり得ないか……。何も起きないで終わる事を望んでるわけはないよな。折角出遭えた相手が俺で、運が悪かったかもな。」
自分の方から突っ掛って行く事は好まない孝典は、あくまでも緩やかにシルビアを引き離して行く。
「平穏を望むんだったら、こんな所へは来なければ良い。自ら戦場の渦中へ飛び込んで、その最中でしか生を実感出来ないような、そんな人間しか集まらない場所なんだからな。此処は……。しかも、同じような連中が集まってるからといって、仲良く肩を並べて走る気なんてのは微塵もない。一旦この道へと出てしまえば、そこはもうバトルフィールド。それを拒否する事も出来なければ、拒否する意思のある奴もいない。だけど、今はその時じゃない。もっとも、いずれその時が来るのかどうか、それすらも分からないんだけどな……。」
シルビアの姿が見えなくなるくらい距離を開けたのを確認してから、少しずつスピードを上げる。他の車の少ない今宵は、まさに自分が一人で異世界へと迷い込んだような錯覚に捕らわれる。
「……良い音だ。この場所じゃ、例えどんなに数多くのエキゾーストノートが響き合おうとも、自分一人か、或いは一緒に走っている者の音だけが静寂の中で轟いているように感じる……。共感があれば、個々別々の共有し得ない感覚もある。つくづく不思議な場所だな……。」
感覚を研ぎ澄ませれば研ぎ澄ませるほど、他の雑音が聞こえなくなって行く。夜のしじまに聞こえるのは、自分のREサウンドだけ。だが、そこへもう一つのサウンドが、孝典の感覚に少しずつ割り込んでくる。孝典の聴覚と視覚から得られるその車の情報は、孝典の記憶にある情報と一致する。
「敏か。あいつも来ていたのか……。」
前を行くのはグレーのインプレッサワゴン。敏行である。
「急成長中の敏に、曰く有り気な新顔が一人か……。こりゃ、俺みたいな古参者はさっさと引いた方が良いかもな。」
ある程度敏と並走していたが、その内に敏からやや離れ、コースから外れて行く。
「やれやれ。俺もつまらない大人になってしまったかな……。こういう取り合わせを見ると、つい客観的になって道を譲りがちだ。別に俺も混ざっちゃいけないわけじゃないし、そんな年長者を気取るほどの歳ってわけでもないんだけどなぁ。」
そう思いつつも、客観的なりにその状況を楽しみにしているかのような表情を浮かべていた。
やがて東の空は白み始める。朝方の喫茶店Tanz mit Wolken。真夜中の非日常に集う者達は去り、昼間の日常へ赴く者達の姿はまだない。僅かな静寂の一時に、孝典はカップを片手に窓の外を見渡す。西側を向いている窓から見る光景も、徐々に明るくなりつつある。そこにはいつもの面々、敏行と美由も揃っている。
視線を窓から戻し、孝典が口を開く。
「ところで敏。今日、少し派手目のシルビア見たか?」
しかし敏行には思い当たる節はなかったようだった。
「シルビア? いや、シルビアなんて見なかったけど。」
「会わなかったのか? そうか……。あのまま帰ったのかな。」
会っていなかった事を意外に思う孝典の様子を見て、敏行が訊き帰す。
「気になる車だったのか?」
「気になるというか、まぁ見た目がそこそこ目立ってたからな。敏も会ったのかと思っただけだ。」
すると、敏行の方もそのシルビアに関心が湧いたようだった。
「そうなんだ。ちょっと見てみたかった気もするな。今日は来てた台数も少なかったのに、会えない時は会えないもんだな。」
「そんなもんだろ。狭い世界とはいえな。」
そこで美由が口を挟む。
「敏ちゃんと豊君も、ずっと会わないままだったんだし。」
その言葉に敏行も孝典も頷く。それから敏行がふと思い出したように口を開く。
「そういえば、今日は豊は来てなかったな。」
豊は比較的頻繁に幕張へ走りに来ているので、どちらかといえば会わない事の方が少ない。
「そうだな。まぁ、今日は週半ばだし、来てた台数自体も少なかったもんな。」
「でも、ここんとこ豊君とはよく会ってるけど、ウチにはあれ以来来てないよね。誘っても、いっつも断っちゃうんだもん。」
美由が口惜しそうに言う。それは豊が来ない事を純粋に残念がっているのか、それとも自分の親が経営する店が受け入れられていないように感じて残念がっているのか。その様子を見て、孝典は少し笑いながら言った。
「あいつはこういう店には慣れてないんだよ。元々、喫茶店なんて滅多に使わないらしいからな。それか、単に一眠りしたいだけなのかも知れないけどな。」
「勿体無いなぁ。慣れれば絶対に居心地良いんだけど……。」
敏行も同調する。その様子からは三人ともこの喫茶店がとても気に入っているという事が見て取れる。
「また誘ってみようよ。しつこく誘えば、その内観念して来るんじゃない?」
「いや、そんな無理矢理連れて来たら、却ってイメージ悪くしかねないんじゃないか?」
「ハハ。今頃豊の奴、絶対に嚏してるぞ。」
いつの間にか話が豊の方へ逸れていた。そんな話で盛り上がった後、孝典と敏行は席を立つ。美由は食器を片付けて階下へ持って行き、敏行は思ったよりも時間が押していたらしく、慌てて店を後にした。最後まで残っていた孝典も、料金を精算して階段を降りて行く。
「あら、帰るのね。」
グラスを運んでいた楓が、孝典に気付く。
「今日は何だか楽しそうだったわね。」
ずっと下で仕事をしていた楓だが、聞こえてくる話し声から、その雰囲気を察する事は容易い。
「そうでしたか?」
「やっぱり車の話なんでしょ?」
そう言われた孝典は、やや苦笑しながら答える。
「まぁ、顔触れが顔触れですしね。言われてみると、そうだったかも知れませんね。」
そんな孝典に楓も微笑み返しながら言った。
「何だか此処何日か、敏君も美由も楽しそうなのよ。車の事となると。」
「え、そうなんですか?」
言うまでもなく敏行も美由も車好きであるので、車の事になれば楽しそうだというのはごく自然な事ではあるが、その事を充分承知している筈の楓が敢えて指摘した事が、孝典は気になった。
「はっきりそう言ってるわけじゃないけど、でも出掛ける時も、帰って来た後も、何だか満足げなんだもの。」
それには孝典も思い当たるので、頷きながら言葉を返す。
「確かに、最近は色々面白い事があったらしいですからね。」
孝典がそういうと、楓はやっぱりといった表情を浮かべる。
「ああいう様子を見てると、貴方達って本当に車が好きなのねって思うわ。危ない事してるなぁって思ってはいるけど、打ち込める事があるってのは良い事よね。でも、最近あの子達が楽しそうなのは、素直に楽しめるようになったからじゃないかしらって思ったりするのよ。」
「素直?」
孝典がその言葉を反復する。
「色んな事に言えると思うんだけど、打ち込み過ぎて周りが見えなくなると、何だか義務感に駆られてるだけで楽しめなくなっちゃうって事あるじゃない。あの子達も免許取って結構経つし、そんな風に見えてた時期もあったのよね。でも、最近になってまた楽しそうな顔するようになったのよ。少し余裕が出来たのかしらね。」
楓は明るい様子のままで喋ってはいるが、孝典には楓の言葉に考えさせられる部分があったようだった。
「余裕……ですか。」
しかし考え込む様子を見せた孝典に対して、楓は慌てて取り繕うようにして言った。
「いや、そんな真顔で受け止めてくれなくて良いのよ。御免ね。車なんて滅多に乗らない私が偉そうな事言っちゃって。ただ、何となくそんな気がしただけなのよ。」
すると孝典も顔を上げて普段の穏やかな表情を戻しながらも、やはり僅かに重みを含んだ様子で答えた。
「いえいえ。確かにその通りなのかも知れませんよ。……好きな事だからこそ、譲れないものってが沢山あって、そうこうしている内にそうなってしまうってのは、絶対にある事ですから。」
「あら、そうなの? 何でも言ってみるものねぇ。」
飄々とした感じで言う楓の言葉に、孝典も人当たりの良い笑顔を浮かべていたが、やはり何処か考え深いような様子も浮かべていた。
「水看さーん!点検に持って来たよー!」
ガレージ木之下の前に停まったロードスターから降り立った美由が、工場内へ向かって叫ぶ。その声に気付いた水看が、美由の下へやって来る。
「どう、調子は?」
水看に訊かれると、美由は嬉しそうにして答える。
「凄く良いですよ。慣れて来れば来るほど、凄さが分かって来るって感じかな。」
対する水看は、淡々と言葉を綴る。
「そう。何か不具合とかは感じない?」
「う〜ん……特にはないかなぁ。今の所は、元気に走ってくれてますよ。何か思い当たる事とかあるんですか?」
すると水看もそういうわけではないんだけどと、手をひらひらさせながら言った。
「まぁ、私もこんなケースのエンジンスワップは始めてだからね。そんなに前例のあるものでもないし、どんな不具合が出て来るのか分からないっていうのが、正直な所なのよ。だから、こういう風にこまめにチェックしたいのよね。」
「そうなんですか。」
「でも、特に気になる事がないって言うなら、それで良いのよ。そうは言っても、私だってちゃんとチェックしてから美由に渡してるんだしね。」
その言葉に、美由は再び笑みを浮かべる。
「なら、大丈夫ですよ。というより、私がちゃんと乗りこなせるようにならないといけませんよね。こないだなんて、思いっ切りスピンさせちゃいましたからね。」
「え、そうなの? 珍しいわね。」
美由のマシンコントロールはかなりのものであるので、スピンさせる事などは滅多にない。しかし、続く言葉を水看は更に意外に感じる。
「雨の日だったんですけどね。ホラ、こないだ夜になって凄い降った時。敏ちゃんと走ってたんだけど、丁度雨が降り始めちゃって、それなのに無理しちゃったから、クルクルーッっと行っちゃいましたよ。」
敏、という名前が出て来て、水看は少し驚いたように聞き返す。
「敏と走ってたの? というか、その感じだと競り合ってたって事かしら?」
「そうなんですよ。敏ちゃんたら、まだ水看さんに直してもらったばかりだっていうのに、私を見つけたら行き成り煽って来たんですよ。まぁ、最後は敏ちゃんも一緒にアンダー出しちゃって終わったんですけどねぇ。」
珍しく嬉しそうに敏行と走った事を話す美由。その様子は、水看の目にもやや不思議に映った。
「ふ〜ん。敏とねぇ……。敏はともかくとしても、あんたがあいつの誘いに乗るなんて、珍しいんじゃない?」
「そう……かも知れませんね。私も最初っから凄い乗り気だったってわけじゃなくて、すぐに蹴りが付けられるかなって思って乗ってみたんだけど、敏ちゃんがかなり頑張るんですよ。相当無茶して来て。それでなかなか引き離せなくて、いつの間にか私も真剣になっちゃったんです。」
「……敏も諦めが悪いわね……。」
水看が一瞬間を置いて言う。
「それはいつもの事じゃないですか。敏ちゃんは決定的な差がつかないと、納得しないですもん。」
「それはそうなんだけどね……。でも、今の美由に敏が食いついて行けたっていうのは、正直ちょっと驚きね。美由、本当に本気出してたの?」
敏行が美由と良い勝負が出来たというのが、水看にとっては相当に意外に思えたらしい。
「少なくとも後半は完全に本気でしたよ。さっきも言ったけど、私も最初はすぐに引き離せると思ってたんですよ。今思うと、あの時の敏ちゃんの走りには鬼気迫るものがあったような気もするなぁ。車から降りた後の敏ちゃんは、楽しそうな顔してたんだけど。」
美由の話す様子を見て、水看はやや間を置いて言った。
「……美由も楽しかったみたいじゃない?」
少しだけ皮肉ったような言い方をするが、美由はそれに気付かない。
「そうですね……楽しかったですよ。いつの間にか忘れていたものを、久し振りに思い出させてくれた感じでした。」
「先へ進んで行くに連れて、得るものもあれば失うものもあるものでしょ。必ずしも忘れていたとは限らないわよ。」
水看は敢えて冷めた意見を述べる。それでも美由の様子は変わらない。
「それでも、私は何か大切なものを忘れてた気がするんです。またいつか忘れちゃうかも知れないんですけどね。う〜ん、自分でもよく分かんないんですけど。……簡単には纏まらないですし。」
最後の方でやや表情を曇らせる美由。
「そういうものかしらね……。」
一方の水看は、複雑な表情を浮かべたまま、美由から視線を外していた。しかし、それを察されるのを嫌がったのか、慌てて本来の用件へと話を戻す。
「おっと。長話が過ぎたわね。パッパッと終わらせるから、ちょっと待っててね。私もこう見えても忙しいのよ。」
そう言って美由から鍵を預かり、ロードスターの点検へと向かう。
けたたましく鳴り響く機械音の中で、ロードスターと向かい合う水看。ボンネットを開けると、そこには自分の手掛けたパワーユニットが潜んでいる。自分が美由に与えたその力を前に、水看は俯き加減にそれを眺める。概観した分には、至って正常な様子である。
「……この力を以ってして、敏を引き離す事が出来ないというの? 敏があのインプレッサで、美由を射程に捕らえ続ける事が出来たなんて……。スペック的な狂いはない筈。それどころか、私の予想以上にこの車の出来は良かった。もし、私の見積もりに甘さがあったとするならば、敏の技量……いや、底力って事になるのかしら……。私にはちょっと信じられない……。何も二人を手の平で踊らすような真似がしたかったわけじゃないけど、少なくとも先のバトルでは二人とも私の計算の範疇を超えてる……。」
ロードスターはただ静かに佇むのみである。
「美由……あんたは何を望んでいるの? 敏を突き放して、走りの世界から去らせる事が望みだったんじゃないの?だから私はこの力を与え、そしてあんたはそれを受け入れた。……でも、あんたは分かってるのよね。その走りの世界こそが、敏の最も近くに居られる場所だって事に……。始めて此処に来た時から、いいえ、それよりもずっと前から、あんたはその二つの葛藤を繰り返していたのよね。苦い経験をして来たあんただからこその……。」
点検を進めて行くと、快調である事と同時に、先日のバトルの激しさも垣間見る事が出来る。
「それが、今になって突然あんな事を言い出すなんて……。それに敏だって、確かに勝負には拘るだったけど……。敏を突き放す為に美由に与えた力が、結果として逆の引き鉄を引く事になっている気がしてならない……。」
水看は深々と溜め息を吐く。
「……冷静に考えてみれば、私って酷い事してるわよね……。でも、私はそれでもあんた達を見過ごす事は出来ないのよ。私には、あの日置き忘れた夢を取りに行く事は叶わない。叶わないのに、その夢は私を蹂躙し続ける。同じ経験をさせたくはないのよ。一時の夢の後には、長い苦渋が待ち受けているものなんだから。それは、あんただってよく分かってるんじゃないの……?」
そう考えた後、一瞬作業をする手が止まる。
「……だけど、もしかすると美由の心には芽生えつつあるのかしら。あの一瞬の非現実の中で、一つだけ見えた真実を選び取る事で全てをなくしたとしても、それでも貫ける覚悟が……。でもね。希望っていうのは、時に絶望までの時間稼ぎに過ぎない事もあるのよ……。」
そして再び、黙々と作業を続けた。
その夜。幕張を走る珍しい車が一台。BH系のレガシィワゴンである。エアロは交換され車高もかなり下げられているので、一見しただけでは分からないが、ノーマルのまま残されているグリルの右下には“Lancaster6”のエンブレムが付いている。そう、この車に搭載されるエンジンは水平対向6気筒3000ccのEZ30である。だが、このランカスター6はどちらかといえばゆったりと走るラグジュアリー志向の車であり、さもスポーツカーという車が集まるこの場所にあっては、やや異彩を放っているともいえる。
そんな車ではあるが、また新顔が現れたというわけではない。ドライビングシートに座るのは水看。彼女は稀にこのように走りに出る事もあった。水看は少し攻め込んでみるが、その走りは余り上手いとは言えない。
「久し振りに来てみたけど、相変わらず私って下手よね……。」
半分諦めの混じったような感じで呟く。走りに出る事自体が少ない事もあるが、彼女はチューナーとしての才能には恵まれても、走り手としての才能には恵まれなかった。昔はそれでも上手くなろうと努力した事もあったが、思うように成果は上がらなかった。
「周りは作り手としての才能があるんだから贅沢な悩みだと言うけど……私は本当は作り手としての才能なんて欲しくなかった。走り手としての才能が欲しかったのよね……。どんなに素晴らしい車を作り上げる事が出来たとしても、その車で速さという結果を出すのは常に他人。私には出来ない。人の為に良い車を作るっていうのも遣り甲斐はあるけども、でも本当の意味で自ら最後の最後まで手掛ける事が出来ないっていうのは、今でも少し虚しく感じる事があるものね……。」
このレガシィも水看がかなり手を加えている。その車格の割りにはかなり軽快な動きをするし、何よりもパワーユニットはツインターボ化されている。並の車では勝負にならないほどのスペックを備えているのである。だが、作り手としての水看がその車のチューンを進めれば進めるほど、走り手としての水看には手に追えないものとなって行く。それでも、水看はこのレガシィにかなりのチューンを施した。ある車を追う為に。だが、今となってはそれも過去の遺物なのかも知れない。
「私なんかの腕じゃ、この場所に飲み込まれてしまうだけね……。」
その時、後方から一台の車のヘッドライトがレガシィを照らし出している事に気付く。そのサウンドは、水看の耳にも明らかに聞き覚えのあるものである。
「敏……。」
同じようにボクサーサウンドを響かせるのは、敏行のインプレッサ。いつの間にか後ろに付けていた。
「……そうね。あんたは完全に走り手の人間よね。体に流れる血が、走りの温度を知っている……。それも、私が思っていた以上だったみたいね……。」
インプレッサが横に出る。一瞬敏行と視線を合わせるが、彼も煽るような様子は見せない。
「あんたの奥底に眠る底力は、もしかしたら誰よりも計り知れないものなのかも知れないわね。まさに、不屈の闘志って奴かしら……。どんなに実力差のある相手でも、あんたならいつか越えてしまう気がするわ……。そう、美由ですらね……。」
暫くはインプレッサと並走していたが、やがてインプレッサが離れて行く。
「車は所詮物理計算の塊の機械であっても、そこに人間という要素が加われば、それは良くも悪くも限りなくイレギュラーな存在になってしまうのね……。あんた達を見てると、日に日にその事を実感させられて行く気がするわ……。」
周回コース東の空き地に、レガシィが姿を現す。そこには既に敏行の姿もあった。
「今晩は、水看さん。この場所で会うのは久し振りですね。」
敏行が車から降り立った水看に声を掛ける。
「まぁ、たまにはね。私だって、仕事に疲れたりすると、ふと走りに行こうかなって気になる事もあるのよ。それにしても、インプレッサの調子も良さそうね。」
水看の言葉に、敏行は少し詰まったように答える。
「そう……ですね。まぁ、良いんじゃないでしょうか。」
「ん? 何か歯切れ悪い答え方ね。本当は何か不満でもあるの?」
水看が勘ぐると、敏行はやや遠慮がちに言う。
「いやまぁ、僕の気の所為と思うんですけどね。何だか中間域辺りが思うように伸びない気がしてたんですよ。最初は気付かなかったんですけど、美由と走った時に少し気になったもんでして。」
そう言われて、少し考え込むような様子を見せる水看。
「……そう。分かったわ。それなら、暇のある時に持って来なさいよ。もう一度見直してみるわ。」
「済みません。お願いしますね。ホント、僕の気の所為かも知れないんですけどね。」
軽く頭を下げる敏行に対して、水看はそれとは分からない程度に浅く溜め息を吐きながら言った。
「ま、良いのよ……。乗り手の気になる所を見るのが作り手なんだから。それにしても、こないだは危うく事故りかけたそうじゃない。無理させ過ぎるなって言っといたのに。」
すると今度は敏行は照れ臭そうにして笑った。
「いやぁ、そうなんですけどね。ロードスターの姿を見たらつい……ね。僕としてもあの時ばかりは流石に無茶し過ぎたかなって思いましたよ。尤も、走り終わってからなんですけどね。」
その言葉に、今度は大きめに溜め息を吐く。
「しょうがないわねぇ。……あんたは普段は結構自信家だけど、逆境になればどんどん力を増すタイプなんでしょうね。今までもそう思わなかったわけじゃないけど、こないだ美由と走った時の事を聞くと、その事を実感させられた気がしたわ。」
「何もそれは僕に限った事じゃないんじゃないですかね。走り屋なら、誰だって負けたくないって思いは強いでしょ。それでですよ。」
穏やかに言う敏行だったが、水看の方はそれを聞くと少し見上げるようにしながら言った。
「負けたくない思い……ね。そうね。此処はそういう場所だものね……。耳を澄ましても聞こえるのは、エンジンの咆哮とタイヤの悲鳴だけっていう場所なんだからね……。それでもこの場所に立ってると、その瞬間だけにしろ、雑念を消せる気がするのよ。だから、私でもこの場所に来たいと思うのよ。私みたいな……走り屋なんて呼べるかどうか怪しい人間でもね。」
「車へのアプローチの仕方が違っただけですって。僕達とそんな差があるわけじゃないですよ。」
「それは誉め言葉なのかしら?」
混ぜっ返すような発言ではあるが、水看の表情は真面目である。敏行もそれに落ち着いて答える。
「ええ。勿論じゃないですか。」
「そう……。じゃ、有り難く受け取っておくわ。」
またも軽く受け流すかのような返答だが、水看の思いは複雑だった。自分が走りの人間ではないと思っていたからという事もあるが、それが敏行に言われた事であるからという理由も大きいだろう。
敏行自身に何か憎しみを感じているわけでは決してない。だが、彼らを案じるが故に、少なくとも走りの面に関しては敏行には敵対する行為を、それも結構長い間取って来たと言っても過言ではない。それでも、敏行は未だにそんな言葉を掛けて来る。
「……でも、アプローチが違うから、時には敏の期待を裏切る形になる事だってあるのよ。必ずしも私があんたの望み通りに出来るとは限らないんだから……。」
「それがトライ&エラーって奴じゃないですか。何でもそうすんなりと行くわけじゃないですよ。というよりも、僕としては水看さんに車を手掛けてもらってるだけで大感謝ですよ。僕はかなり恵まれてるなって。」
敏行の屈託のない表情が、水看には苦しかった。自分は感謝される人間なんかじゃない。寧ろ、恨まれたっておかしくない人間なのに――。
「……折角来たんだから、もう少し走ってくるわ。じゃあね。」
何だか居た堪れなくなり、走りに行く事を口実にその場を去る水看。それを見送る敏行の瞳には、疑いの色など微塵もなかった。
「美由もそうだけど、あんたはそれ以上に本当に何処までも実直なのね……。全く、今日は二人して私を苛ませるなんて、酷いじゃない……。」
水看は今にも泣きそうになりながらも、必死に堪えていた。自分には泣く事など許されない。そう言い聞かせながら、低い音を轟かせるレガシィを駆り幕張を巡って行った。
その頃、周回コースの中央を通るやや細めの道、公園中通に二台の車が停まっていた。異型とも言えるエアロを纏った180SXとフェアレディZ。シルバーブレイドの二人である。四方から響き渡るエキゾーストノートを鑑賞するかのように、街頭の袂で二人は佇んでいた。
「今夜は比較的出てる数が多いか……。」
180SXの男――当銘博文が呟く。その言葉に、フェアレディZの女――高瀬澄香が答える。
「そうね……。数々のエキゾーストノートと……そしてその数だけの想いが飛び交ってるって事か……。」
「想い……そうだな。ただ単に走るだけじゃ満たされない連中だからな。此処に集い来る奴らは……。」
表情を変えずに言う博文に対して、澄香は顔だけそちらへ向けてシニカルさを含めて言う。
「なに他人事みたいに言ってんの。あんただってその中の一人なんだぞ。」
すると博文はやや大袈裟に呆れたようにして呟いた。
「……お前もだろうが……。」
澄香の方もそれを軽く受け流しながら、言葉を続ける。
「ま、そうなんだけどね。この場所に居る時点で、その事の証明になってるんだ。」
「そういう事だな……。此処ほど同じ匂いの持つ者しか集まらない場所はないだろう……。」
「それも、私らみたいな捻くれた人間ばかりがね。」
再びシニカルな表情を浮かべながら言う澄香。そしてそれに答える博文の表情も相変わらず変わらないままだった。
「当然だろ。だって此処は……。」
見上げれば、そこには不自然なほどの穏やかな夜空が広がる。
「堕ちた聖域なんだからな――。」