― 7.趨勢(すうせい)Geistes strömung ―

 

 

 時の流れは万物に等しく、そして留まる事無く流れ行く。それは、時の流れから逸脱したかのような、この幕張という場所においても然りである。日常の潮流から遠く離れた深夜の幕張。しかしそれだけに、この場所の移ろいは日常よりも遥かに激しいとも言える。或いはそれは、此処に集う者達が刹那の領域で争おうとするが為なのか……。いずれにせよ、今の幕張にも何処かへ流下して行こうとしている筈である。だが、それが何処であるのかを知る者はいない。刹那を競う者にとって、明日は余りにも遠過ぎるのかもしれない――。

 

 

 

 

もう日付も変わってしまった完全な真夜中であるが、工場には弱々しくも光が灯っている。グレーのインプレッサとピンクのロードスターが、ガレージ木之下へとやって来ていた。

「こんな時間にどうしたのよ? 二人揃って。何かトラブルでも起きたの?」

 水看が少し驚いたように二人の方を見る。

「いやぁ、別に何って事はないんですけどね。ふと水看さん所へ寄ってみようかって話になったんですよ。」

 敏行が手振りを加えながら言う。美由もそれに続く。

「水看さんなら、この時間でも絶対に起きてると思って。水看さんって、いつ寝てるの? ってくらいのイメージだもん。私なんか、走りに行った日はもう眠くてしょうがないのに。」

「私だって人間なんだから、ちゃんと寝てるわよ。にしても、その感じだと単に気分転換に此処へ来たっていうわけ? それこそ、私ん所は喫茶店じゃないんだからね。」

「まぁ、良いじゃないですか。ふと、此処が思い浮かんじゃったんですよ。たまには気分転換したくなる時もあるんですよ。確かに僕達は走る事が何よりも好きで、一生やってても飽きないと思うけど、それでも走りに疲れるって事も、偶にはあるもんなんですよ。」

 それを聞くと、水看は再び少し驚いたような表情を見せる。

「へぇ……。あんたでも、そんな事があるのね……。」

 そして、少し俯きながら言葉を続ける。

「そうね……。あんた達みたいな連中は、ただちょっとした楽しみを味わいたいって程度で走ってるんじゃないものね。全てを賭けて走ってるんだから、そういう時もあるものよね。」

 

 

「求道者なんて偉そうな事言える世界じゃないけど、でもどんな道でも極めようとすれば、その過程は決して楽なものじゃないわよね。」

 ポットの湯でお茶を淹れながら、水看が先の言葉の続きを述べる。

「そうですね。それに、単調で平坦な道だったら、極めるのもつまんないですよ。」

「まぁ、そんなだったらそもそも極めようなんて気が起きないけどね。楽しいんだけど、たまには一歩引いて見てみようかなって時もあるよねぇ。水看さんだって、そういう時ってあるんじゃないですか?」

 その言葉に、盆に載せて持って来た三杯の茶碗を各人の前に置き、そして自分も腰掛けて少し考え込むようにして答える。

「私は……そうね。どうなのかしらね。確かに私も車が好きで、メカにも興味があって、その時はこの世界に入る事があたかも自然な事であるかのように、この道を選んだわね。給料も労働条件も決して良い方じゃない仕事だけど、自分の好きな事を仕事に出来るのは最高だと思ったわ。でも、趣味を仕事にした時点で、それは趣味じゃなくなるのよね。趣味なら自分の好きな時に好きなようにやれば良いけど、仕事の場合はそうは行かない。自分の気の向かない事もやらなくちゃならないし、やりたい事がやれるとも限らないわけだしね。それを繰り返している内に、好きだった自分の趣味は、単なる仕事へと成り果てるのよ。まぁ、どのみち私にはこれ以外の職種はなかったと思うんだけどもね。」

「じゃあ、今は水看さんはもう車好きじゃないの?」

「う〜ん……好きとか嫌いとか、そういうものじゃないのよ。私の人生の一部って言えば聞こえは良いかも知れないけど、もっと平たく言えば生活の一部って事かしらね。私の生きる術なのよ。私が生きて行く上で、車はもう切り離す事の出来ないものになってるのよ。例え、私がどんなにこの世界から離れたいと思っても。今までもそうだし、きっとこれからもずっと……ね。」

 まるで諦めているかのように、少し遠くを見詰めるようにして言う水看に、敏行が尋ねる。

「でも、それだったら僕らの車を手掛けてる時はどうなんですか? 工賃なんて殆どタダ同然で僕達の車をチューンしてくれてますよね。仕事外で受け持ってくれてるんですし、それは水看さんもやっぱりチューニングと、そして車が好きだから出来る事だと思うんですけど……。」

「それは……。」

 水看は、一瞬言葉に詰まる。そして再び考え込むような表情を見せた後、顔を上げて敏行の質問に答える。

「……そうなのかも知れないわね。いいえ、もしかするとそうであり続けたい為なのかも知れないわ。車が仕事に変わり果てて、好きな事でなくなってしまうのが恐くて、それで自分の中の車好きの心を、自分がやりたいと思った事をやる事で、何とかして保とうと足掻いてるからなのかも知れないわね……。さっき、好きとか嫌いとかってものじゃないって言ったけど、でもそれでも敢えて好きか嫌いかと聞かれたら、今の私は胸を張って車が好きだとは言えない気がするものね……。」

 お茶を啜りながら、水看は天井を見上げる。

「だから、思うのよ。趣味は趣味のままにしておいた方が良いって。どんな分野にでも当て嵌まるとまでは言えないけど、私の場合はそうだったと思うわね。」

 その様子を見て、敏行もお茶を一啜りした後、水看に言葉を返す。

「……確かにそれはそうなのかも知れませんね。その意味では僕ら走り屋は趣味の極みとも言えそうなもんですし。誰にも強要される事もなく、自分が走りたいが為だけに、走ってるんですからね。走り屋は何処まで行ってもやっぱり走り屋でしょうからね。走り屋の延長線上にはプロドライバーは来ないと、僕は思いますもんね。いや、それこそ走りを趣味として純粋に楽しめるままにしておきたいから、来させたくないって事なんでしょうが。今、こんなに好きな車の事を嫌いになるなんて、絶対に嫌ですから。」

 そこまで言って、敏行は再びお茶を啜る。そして、もう一言付け加える。

「でも、そんなに悲観的になる事もないんじゃないですか。」

 それを聞いて、水看は敏行の方を向く。

「……どうして?」

 その言葉は、悲観的になる必要はないという敏行の意見に同意しかねている思いも含んでいるものの、明らかに敏行の答えを待っている。敏行もすぐに言葉を続ける。

「……僕からしてみれば、水看さんは車が嫌いだなんて風には思えないんですよ。そりゃ、仕事として車に関わってる分には、好きだ嫌いだなんて言ってる余地はないんでしょうけどね。だけど、やっぱり僕らの車を見てくれてる時は、車の好きな水看さんで居られてるんだと思いますよ。だって、そうでなきゃこんなに良いマシンは出来ないと思うんですよ。ねぇ、美由?」

 美由は静かに頷く。

「そうだね。私もそう思うよ。敏ちゃんのインプがそうなら、()してや私のマシンなんて間違いなく車が好きな水看さんだから出来たものだと思いますもん。」

 水看は未だに訝しげな表情を崩さない。

「だから、どうしてそう思うのよ? 確かに私としてもあんた達のマシンは良い出来に仕上がったと思ってるわよ。でも、そんなのは経験と知識さえあれば出来るものじゃない。」

 すると、敏行が咄嗟に指摘する。

「ホラ、それですよ。」

「え?」

「僕達のマシンは良い出来だと思ってるんですよね? 車を仕上げて、満足感を得る事が出来てるのなら、決して車が嫌いなんて事はないと思いますよ。それに、水看さんにインプを見てもらうようになってから、走ってる時のインプとの一体感が強くなったような気がしてたんです。僕はそういう類の事には鈍感な方なんですけどね。だから、ずっと感じてましたよ。水看さんは知識や経験って意味だけじゃなく、車が好きで車の事を本当に理解しているんだな……って。」

「それに、ただパワーアップを計る為だけなら、ロードスターにロータリーエンジン載せようなんて発想は出て来ないですよね。そういう馬鹿チュ……あ、いや、えっとその……ちょっと突飛なチューニングメニューをやろうと思って、本当に形にしてしまうなんて、なかなか出来るもんじゃないですよ。」

「何よ。やっぱりあんた、馬鹿チューンだと思ってたのね。」

 そう言いながらも、水看の表情には明るさが戻って来ていた。

「い、いや、そうじゃなくて、ええと、あああ、あの、で、でもロードスターとロータリーの相性バッチリですよ!ホントに動きが軽いしエンジンもよく回るし、えっと、ホントのホントに私今のロードスター凄く気に入ってるんですよ!」

 大慌てで美由が言葉を取り繕う。しかし、水看は穏やかに美由に微笑み返す。

「分かってるわよ。私だって十分承知の上でやった事なんだから。そうね。チューニングメニューを考えてる時はやっぱり楽しいのかも知れないわね……。あれやこれやと思いついて、色々と試行錯誤を繰り返して、一台のマシンが完成した瞬間は、何とも言えない嬉しさが込み上げて来るものだからね。」

 軽く溜め息を吐いて、言葉を続ける。

「私もね。Beyond Limitからこっちへ出て来た頃は色々あって、あんた達みたいなハードチューンもあんまりやりたくなかったりした事もあって、仕事をライトチューンの方ばっかにシフトさせて、そのまま時の流れに任せて日々に忙殺される事で、雑念が消せるかも知れないと思ってたわ。あんた達が来た時も、やっぱりそうだったと思う。今もまだそうなのかも知れない。だけど、あんた達の言うように、あんた達の車を仕上げてる時は私も車弄りを楽しめてるような気がして来たわ。……私の足掻きは、案外成功してるみたいね。」

 それを聞いて、敏行が独り言を呟くかのように言う。

「時の流れのままにって言っても、早歩きで歩くかのような今の時代と歩調を合わせて雑踏の中を流れて行っても、何も見えては来ませんからね。現実に(すが)る事が、もしかしたら現実逃避になる事もあるのかも知れません。時には斜に構えて、時代の流れから離れたり対峙してみたりするのも良いのかも知れませんね。」

 その敏行の言葉に、今度は美由が口を開く。

「……だけど、そういう風に時代の流れから逸脱するのって、案外簡単じゃない時もあるんだけどね。周りと違う事をすれば白い目で見られる事もあるし、離れて行っちゃう人達も沢山居るんだから……。自分の信念を貫き通すのか、周りの流れに合わせるのか。どっちを選んだって、何かを妥協しなくちゃいけないんだから、どうしても迷っちゃうよね……。」

 美由の表情が少し暗くなる。それを気遣ってという事でもないのだろうが、敏行が言葉を返す。

「……そうだね。僕達のやってる事は、決して誉められる事じゃない。そんなものの為に何かを捨てるなんて、他人から見れば単なる馬鹿としか映らないだろうからね。だけど、それでも僕達は誰もが走りに対しては半端じゃなく真剣に取り組んでる筈だよね。それが原因で、普通なら悩まされなくても良いような(しがらみ)を生む事もよくある。にも(かかわ)らず、走りを止める事は出来ない。寧ろ、そういう走り屋である事を誇りに思う時すらあるんじゃないかな?」

 敏行は窓の外へと目を遣り、言葉を続ける。

「それに、僕達にだって居場所はある。時の流れに取り残されて誰からも見向きされない遺物みたいな所だけど、そんな場所だからこそ、深夜の幕張は俺達が棲み付くのに相応しい場所と言えるんじゃないかな。」

 そして少し間を置いてから視線を戻し、苦笑いを浮かべる。

「まぁ、難儀な人間ですよね。僕らって。」

 それを聞くと、水看は目を閉じて少し笑みを浮かべる。

「そうね。難儀な人間かも知れないわね。……分かっていても、物事はそう簡単に割り切れるものじゃないからね。そう、私もね……。」

 水看は再び俯くと、残りのお茶を静かに啜った。

 

 

 

 

黒いシビックがハイテク通から、周回コースの中央を通る公園中通へと逸れて行く。今までは周回コースの東に位置する空き地が走り屋達の休憩スポットだったが、最近そこもマンションの建設が始まった為に入れなくなってしまい、このような脇道などへと追いやられる形になっていた。その場所にはシビックより先に、緑のSA22C RX−7と赤いセリカが停まっていた。

「お、尊か。今日は美由と一緒じゃないんだな。」

 車を降りて軽くお辞儀をし、2人と挨拶を交わした尊に対して、孝典はそう声を掛けた。

「ええ。今日は美由は敏さんと走ってるみたいでしたよ。」

 それを聞いて、豊が口を開いた。

「あの2人ってよくつるんでるよな。仲良いのか?」

「良いと思いますよ。以前は敏さんが美由の所の喫茶店で働いてた事もありましたからね。」

「でも、変な詮索は無粋だぞ? 豊。」

 孝典に軽くからかわれて、豊は少し焦った。

「いや、別にそういうつもりで言ったわけじゃねぇけどよ……。ただ、俺が始めて青山とバトルした時も、助手席に美由が乗ってたしな。」

「ああ。そういえばそうだったな。あの時は美由のロードスターが掛かり付けのチューナーに預けてあった最中だったんだよ。敏もそうだが、あいつらは車がなくても夜の幕張の雰囲気に浸りたくて来る事もあるんだよ。ま、俺もその気持ちはよく分かるけどな。」

「成る程な……確かにな。」

 そこまで話すと、不意に思い出したかのようにして孝典が別の話題を切り出す。

「そういえばこないだ、随分と派手なシルビアを見たんだよ。白地に桃色のラインが入って、メーカーのステッカーも沢山貼ってあったな。良いパーツも色々と組んでたようだったし。なかなか速そうだったが、どっかのデモカーだったりするんだろうか。」

 すると、事情通の尊がすぐに孝典に答える。

「ああ、その車はプロのレーサーさんですよ。レーサーにしては珍しく女性の方で、しかも国内のレースじゃなかなか活躍してるみたいですよ。車の方も、スポンサーの方から色々とフィードバックがあるんでしょうね。結構前から幕張に来てるそうなんで、一時期ちょっとした話題になった事もあったんですけど……。」

「え? ひょっとして幕張でも結構知られてる車だったりするのか?」

「まぁ、話題になったって言ってもこの場所の事ですから、皆さん変に持て囃したりするような事もしませんし、矢鱈と目立ったりって事はないですけどね。それだから、その方もプロレーサーの傍らで公道であるこの場所を走り続ける事が出来るんでしょうし。でも、それなりに馴染みの車ではありますよ。」

 尊の説明を受けて、孝典はシルビアを知らなかった事に対して少しショックを感じているようだった。

「そうかぁ……。俺も最近はそんな積極的に走り込んでないもんだから、すっかり事情に疎くなっちゃったもんだな。昔はその辺の情報は大概抑えてたもんだが……。」

「そういや確かに歌野って此処に知り合い多いよな。」

 豊の言葉に、孝典はやや苦笑しながら答える。

「俺も今じゃすっかり古参と化したからな。走り屋の世界は入れ替わりも結構あるし、その意味では俺が走り続けている間に大分と世代交代が起きたのかもしれないが……。まぁ、狭い世界に長い事居るんだ。必然的に知り合いも多くなるさ。」

「それじゃまるで老頭児(ロートル)みたいじゃねぇか。勿体ねぇ気がするけどな。歌野の腕なら、今でも存分に前線で戦えると思うがな。」

 しかし孝典は豊の言葉を肯定してしまう。

「老頭児か。そりゃ、言い得て妙かもしれないな。一線で戦うだけの気力が、俺にはもうないのかもな……。」

「歌野さん、そこは否定する所ですよ? そんな風に黄昏てたら、益々老け込んで見えてしまいますよ。」

 尊に冗談半分で言われ、孝典は再び苦笑したような表情を浮かべる。

「いや、そうだな。本当に俺も……って、何か言葉を重ねるとどんどん老けた印象が強まりそうだから、これくらいにしとくか。」

 そして表情を僅かに硬くして、話題をシルビアに戻す。

「兎も角、その感じだとシルビアには気を付けておいた方が良さそうだな。この場所においてだけでなく、レースの世界でもバリバリの現役ともなれば、相当なレベルを持ち合わせてると考えるのが順当な所だろうからな。」

「そうですね。最近は来る頻度が上がってるなんて話も聞きますし。まぁ、私は技術は元より、そもそも車の性能からして出遭っても相手にしてもらえないでしょうから、そんな心配とは無縁なんですけどね。」

 そう言って尊は少し情けなさそうに笑った。一方の豊は、やや真剣な面持ちで孝典の言葉に答えた。

「プロドライバーが駆るシルビアか……。面白そうじゃねぇか。部が悪いのかもしれないが、それはそれだけ倒し甲斐もあるって事だからな。俺も一度その走りを拝ませてもらいたいもんだぜ。」

 そんな豊の横顔を見て、孝典が静かに呟く。

「血気盛んだな。それだけ若いって事か……。」

 思わず口を衝いて出たその言葉は、またしても2人から反論を受けてしまう。

「だからそういう台詞は吐くなっての。」

「そうですよ〜。歌野さん。」

 指摘された孝典は、やはり先と同じようにして苦笑いを浮かべた。