― 9.交錯Kreuzung ―

 

 

 夜の闇の中を疾走していると、今この空間には自分しか存在しないのではないかという錯覚を覚える事もある。だが、そこに居るのは自分1人ではない。例えその数は少なくとも、同じように真夜中の公道に自らの愛機を駆って訪れている者達が居る。そして、同じ場所を同じ志で走る者達の道筋は、いつか必ず交わる。よく知ったもの同士が、或いは見た事もない者同士が、時には共感し合い、時には衝突し合う。どのような出遭いの形であるにしろ、その経験は彼らにとって貴重なものである。そしてそれらは複雑に絡み合い、進むべき道を眼前に切り開いて行く。再び誰かの進む道と交錯する事を望んで――。

 

 

 

 

 深夜の幕張を包む闇の中、一台のGTOが周回コースから少し逸れた場所で不気味にハザードを点滅させている。碧のボディながら、ボンネットに加えてフロントバンパーも一部カーボン地が剥き出しの出で立ちをしており、見た目からして異様な雰囲気を持っている。そんな車のシートに身を置くのは“破壊の関口”こと、関口陶冶(とうや)である。陶冶は周回コースの方を漫然と見詰めていた。するとそこへ一台の車がやって来て、GTOの後ろに停まった。そしてドライバーは車を降りると、陶冶の許へと歩み寄る。

「おう。歌野か。久し振りやな。」

 陶冶はパワーウインドウを開けると、流暢(りゅうちょう)な大阪弁で声を掛けた。一方の孝典も、車内を覗き込むようにドアに腕を掛けて陶冶に答える。

「そうだな。ちょっと前まであんまり見なかったからどうしたのかと思ってたけど、最近になってまたちょくちょく出て来るようになったんだな。」

「せやな。結構間が空いとったかもしれへんな。来てみたら、あの空き地も工事やってて使われへんようになってもうたもんな。まぁ、俺もそんなに暇ちゃうねん。来られへん時かてあるやろ。せやけど、最近は何やおもろそうな事になっとるみたいやったからな。俺も成るべく時間を見つけて、来るようにしてるっちゅうわけや。」

「成る程。流石にそういう雰囲気には目(ざと)いな。でもそれだったら、こんな所で大人しくしててもしょうがないんじゃないか?」

 その言葉に、陶冶は肩を震わせて皮肉るように笑う。

「何処の誰が呼び始めたかは知らんけど、俺もいつの間にか“破壊の関口”なんて通り名で呼ばれるほど、有名になってもうたみたいやからな。まぁ、悪い気はせぇへんけど、その代わり此処の連中は会う奴皆、何かリアクション取りおるんや。避けてく奴は別にええけど、えらい茶々入れてくる奴は敵わへんな。俺かて、そんなしょうもない奴とは走りとうないねん。せやから此処で、おもろそうな奴が通るんを待ってるんや。」

「“破壊”の二つ名で悪い気がしないのか?」

 彼の通り名は決して良いイメージから生まれたものではない。陶冶もその事はある程度は承知しているようである。

「ま、確かにそれはあるかも知れへんけど……。俺は別に破壊活動しとるわけとちゃうで。せやけど、あんまりしつこうて困る奴には、多少シバいとかなあかんやろ思うて相手したるんやが、そうゆう奴に限って変に噂流しおるんやろ。」

「関口の場合は口の悪さも災いしてると思うけどね。俺は。」

 苦笑いを浮かべながら言う孝典に対して、陶冶はまた肩を震わせながら笑った。

「クックック。否定はせぇへんよ。俺も自覚はある。あるけど、言うとかな気が済まへん事もあるねん。死と隣り合わせの世界やで? それを生半可な気持ちで走っとったら、死に急ぐようなもんやで。そんな奴は、走らへん方がええんや。大体、ほんまに走るっちゅう事を分かっとる奴は、俺に何か言われたくらいで止めるわけがないやろ……。」

 陶冶が浮かべてた笑みを一瞬消したが、すぐに再び皮肉るような笑みを浮かべ、言葉を続ける。

「それに、俺がいつも言うてるやろ。ちょっと幅寄せしたくらいでパニくるような奴には仕掛けへんって。そんな奴の近く走っとったら、こっちかていつ巻き込まれるか分からへん。ま、お前くらいのレベルになってまうと、中々仕掛ける隙を与えてくれへんもんやけど。」

「全く、しょうがない奴だな。」

 孝典が少し呆れたように笑う。

「それより、歌野。少し付き合わへんか? 折角()うたんや。少し一緒に走ろうやないか。どのみち、ぼちぼち出ようか思うてたところやねん。」

「良いけど、危ない真似はしないでくれよ。」

「さぁな。ま、お前やったら俺の攻撃くらい、楽に(かわ)るやろ?」

 陶冶が不気味に孝典に向かって笑い掛ける。

「勘弁してくれ。」

 再び呆れたように笑いながら大袈裟に両手を広げ、それから孝典も自分の車へと乗り込んだ。やがて二台は周回コースへと出ると、幕張に野太いV6サウンドと甲高いロータリーサウンドを響かせる。

「俺らが求めてるんは、最速の二つ名。今の所、俺は此処ではそれを得られてるみたいやが……そんな称号なんて好い加減なもんや。自分より速い奴がおらへんなんて、そんな事あるわけがない。誰かて分かってるんや。真の最速の座には、誰も行き着く事が出来へん事を。せやけど……いや、だからこそ、それを目指して走り続けられるんかも知れへんな……。」

 GTOは重たいボディを物ともせずに、留まる事のない加速を続ける。

「偽りの最速の称号なんぞ、打ち砕いてくれや。そうすりゃ、俺は更に最速へと近付く事が出来るんやから……。」

 幾つものビルに見下ろされながら、二台は幕張の街を走り抜けて行った――。

 

 

 

 

「悪かったわね。一日余分に掛けちゃって。」

 ガレージ木之下を訪れた敏行に対して、水看は先ず詫びを入れた。当初は二日で仕上げる予定だったのが、水看の方からもう一日待ってくれるように頼んでいた。それに合わせて、敏行も一日ずらしてインプレッサを引き取りに来た。

「いえ、構わないですよ。でも、水看さんが予定よりも長く掛かるなんて、珍しいですよね。」

「念の為に言っておくけど、サボってたわけじゃないのよ。そこんとこは、勘違いしないでよ。確かに最初は二日で仕上げようと思ってたけど、色々とやり始めたら止まらなくなったって言うのか、最初に考えてたよりは手間の掛かる事やったのよ。これでも大分頑張ったのよ。」

「そうだったんですか。有り難う御座います。いや、正直もしかしたら後回しにされちゃってるのかな……って思ってた節もありますんでね。」

 申し訳なさそうに言う敏行に対して、水看は淡々と言葉を続ける。

「大丈夫よ。あんた達の車を後回しにする事はないわ。……私がこの手に引き受けてる以上はね。」

「そうですか? 兎に角、例によって今回も早速走らせてみますよ。早く慣れておきたいですからね。」

 そう言って水看からインプレッサのキーを受け取ると、乗り込んでエンジンを掛け、然して暖気もせずにガレージ木下を後にした。

 

 

 立ち並ぶ街灯とビルの窓に灯る数少ない明かりが弱々しく幕張の街を照らし出している。敏行は水看のセッティングを確かめるべく、周回コースを目指していた。多少セッティングを変えた程度ならば、水看は具体的な仕様に関して告げる事はなく、敏行も敢えて訊こうとする事もなかった。どちらにしろ、実際に走ってみて体感するのが一番分かり易い。今回もそう思い、早速この場所へと出向いて来たのである。

 中浜橋を越えると突如ビル群が姿を現す。センターストリートと銘打たれたその通りは、新都心らしい様相を呈している。やがて駅北口の信号が見えて来た。そして周回コースへと入ろうとしたその時、聞き覚えのあるサウンドが近付いて来ている事に気付いた。軽快なロータリーサウンドである。

「美由……ッ!」

 駅前ストレートを加速しているのはピンクのロードスター。美由である。

「……そういや、前の時(・・・)もそうだったっけ。何て偶然だ。……でも、こっちだって願ったりだよ。セッティングを試すのに、これ以上ないってくらい(あつら)え向きの相手だからね。今日は雨も降りそうにない。心置きなく戦えそうじゃないか……。」

 一瞬不敵な笑みを浮かべ、そしてすぐに表情を険しくして構える。ロードスターが来るのに合わせて、敏行も周回コースへと入る。

「さぁて。今回はどんな感じに仕上がってるのか……。」

 敏行はアクセルに掛けた右足へ力を入れ、インプレッサを加速させて行った。

 

 

「……確か水看さん所へ入れたって言ってたから、今日はまた引き取って来たばっかで出て来たかな……? それで今回もまた初戦が私になるなんて、敏ちゃんも因果な人間かもね……。」

 “初戦”の言葉に表れているように、美由は既に敏行のインプレッサを確認した時点で臨戦態勢に入っていた。

「これは単なる偶然? それとも必然なのかな? ……どちらにしろ、出遭ってしまった以上はそんな事考えても仕方ないか……。それに今日は病み上がりだった前とは違って、再セッティングしてもらうみたいな事言ってた筈だから、前とは訳が違うのかな。私だって前みたいなへまをやるわけには行かないからね。」

 インプレッサの姿をバックミラーで一瞥した後、美由は幕張海浜公園の交差点へ突入する準備を整える。前を走っているので、コーナリングに関してはマシンにも技術にも絶対的な自信を持つ美由は、比較的楽に交差点を抜けて行く。綺麗にテールをスライドさせながら、コーナー出口へ向かってアクセルを踏み込む。しかし美由ほどのコーナリングスピードではないが、敏行のインプレッサもかなりスムーズにコーナーを抜けて来ており、しっかりとロードスターを捉えたままだった。

「……やるじゃん。敏ちゃん。」

 厳しい顔つきのまま、美由は一言呟いた。

「分かるよ。敏ちゃんがどれだけバトルへ強い想いを持っているのか。……でも、それだけじゃないよね?」

 海浜大通の短いストレートで前を明け渡さない為に、左右に揺さぶりを掛けてくるインプレッサをしっかりとブロックする。

「私達は走りの人間だから……。結局は走る事でしか分かり合えないっていう人種だから……。だからこそ、走っている今なら痛いほどに伝わって来るよ。私には絶対に負けたくないっていう、敏ちゃんの意思が……。」

 見浜園の交差点。割り込もうとして来るインプレッサの追随を許さないほどのスピードでコーナーをクリアする。車幅を目一杯に使い車体を滑らせて行くその姿は、豪快ながらも決してラフなものではない。今回は敏行に強引な割り込みの隙さえも与えないほど、美由は鋭いコーナリングを見せる。

「勿論それは私だって同じ事。私だって敏ちゃんに負けるわけには行かないんだから……。」

 しかし、此処もインプレッサは確実に食らい付いて来ていた。立ち上がりのトラクションの差に因る所が大きいとはいえ、敏行も確実にロードスターに離されずにコーナーをクリアして来ている。美由の表情が益々険しくなって行った。

 

 

 眼前にロードスターの姿を捉えながらも、敏行は少し不思議そうな顔をしていた。

「確かにセッティングが変わったってのは分かるけど、でもこれは……。」

 緩く大きく左右にうねる公園大通は、ロードスターにとっては得意分野であり、一方のインプレッサにとっては決して得意とは言い難いエリアである。敏行自信もそれは十分自覚していた。しかし敏行の操るインプレッサは、相当なスピードで駆け抜けて行くロードスターの後姿を捉えて離さない。それにも拘らず、敏行は信じられないといった様子で呟いた。

「速くない……?」

 敏行はそう感じていた。いつもと変わらぬ美しいほどのコーナリングを見せるロードスターに対して、決して引けを取らないスピードで走っているのは間違いない筈であるのに、敏行は体感的には前よりも遅くなったように感じていた。その体感が正しいのかどうか、敏行は各計器類に目を遣る。そして敏行は、再び驚いた。

「……違う。そうじゃない。速く感じないだけだ……ッ!」

 スピードメーターは明らかに敏行のアベレージを超える数値を示しており、ブースト計も以前よりも高い数値を安定して指している。

「初めはオーバーシュート気味なのかと思ったけど、違ったんだ。水看さん、設定ブースト上げたのか……。……そうか……。全体の性能が底上げされてるのに、余りにもトータルバランスが良過ぎるもんだから、僕には何処が速くなったのか分からなかったんだ……。体感の速さは捨てて、あくまでも実際の速さを求めたって事か……。」

 途端に敏行はニヤリと笑った。

「……こりゃあ良いや。これなら今度こそ、美由を撃墜出来るかも知れない……。」

 ガード下を(くぐ)った後の緩い右コーナーを抜けて、周回コース北東の交差点までの僅かな距離の直線を加速すべく、敏行はアクセルを踏み込む。体感とは裏腹に、スピードメーターは狂ったように高みを目指して振れて行った。

 

 

 美由は真剣に焦りを感じていた。今まではコーナリングでは常に一枚上手を行っていた筈であったが、今回の敏行そしてインプレッサはまるでいとも簡単に付いて来ているかのようだった。ストレートでの加速も、以前よりも鋭くなったように感じられる。

「これが水看さんのセッティング? それにしたって……ッ!」

 周回コース北東の交差点。美由はギリギリまでブレーキを我慢して突っ込み、コース幅を目一杯使って立ち上がる。美由にとっても正に改心のコーナリングといえるほどに驚異的なスピードで交差点をクリアした。流石にそのコーナリングにインプレッサは完全に追随する事は出来ない。だが、そこで開いた差は大したものではなかった。その僅かな差は、すぐにパワー差で消されてしまう。

「どうしてッ!? 何でッ!? 幾ら何でも、こんな事ってあり得ないよ!」

 確かにセッティングは変わっているのだろう。加速力の向上も垣間見られる。だがそれは、劇的というほど大きく変わったようには見えない。加速力を見る限りでは、恐らくはセッティングの変更の範疇での事であろう。それなのに敏行の走りは、前回よりも遥かにレベルの高いものだった。前のバトルでもコーナーで差された事はあったが、それは敏行のかなり強引な割り込みによるもので、コーナリングでは美由の方が優位に立っているのは明らかだった。だが、それからそう月日の経っていない今日の敏行は、まるで見違えるように鋭い走りを見せている。

「……軽量さに甘えてた……。こんなんじゃ駄目だよ……。パワーが……全然足りない……。」

 美由のロードスターの心臓として据えられるのはFD3S RX−7の13B−REW。取り回しの関係上、給排気系等にはオリジナルパーツが使われているものの、エンジン自体はタービンも含めて完全なノーマル状態でスワップされており、馬力は300psにも満たない。ロードスターにとっては暴力的なパワーであるが、敏行のインプレッサの400ps等に比べれば数値的にはやや大きな開きがある。それでも、そのパワーに対しては余りにも軽量過ぎるボディと美由の技術とが相俟って、もはや敵なしではないかと思えるほどの速さを誇っていた。美由自身も、ストレートでのパワー差をコーナーで取り返すだけの自信があった。そう、今この時までは。

「逃げ切れない……。駅前ストレートまで持たない……。」

 美由はそう自覚しつつあった。それでも、アクセルは抜けなかった。美由は敏行ほど目に見える勝敗を望むわけではないが、このバトルでは目に見える結果が出るまで諦めたくはなかった。テクノガーデンの交差点に差し掛かると、美由は深く息を吸い込み、そして一気にコーナリングの操作に入る。爪先(つまさき)はペダルの上を軽やかに踊り、左腕は怒涛の勢いでシフトチェンジを行う。車体は文字通り滑るように滑らかに旋回して行く。その速さは間違いなく一級品である。コーナリングスピードでインプレッサの上を行っているのは間違いない。それでもそれは、ストレートでの不利を補うほどのものではなかった。美由自身が、それを最も分かっていた。

「……………………ッ!」

 コーナーを立ち上がるとすぐにインプレッサが追い付いて来た。美由はブロックを諦め、道を譲る。インプレッサはすかさず空いた道からロードスターを抜き去って行った。まだ美由はアクセルペダルから足を離してはいないが、インプレッサとの差はどんどん広がって行くばかりだった。やがてシネプレックスに差し掛かった辺りで、美由は力なくその右足をアクセルペダルから下ろした。インプレッサの姿は、一気にストレートの彼方へと消えて行った。

 

 

 海浜幕張駅の南口のロータリーの片隅にロードスターを停めて、美由はシートに凭れたままでボンヤリとしていた。晴れた日は大抵オープンにして走っているので、見上げればそこには夜空が広がる。星の光は都会の明かりに消された真っ黒な夜空。そこにビルが(そび)え立つ光景は、いつか見た日の空と酷似しているような気がした。

「……敏ちゃんがあの日私と走った時に感じた想いは、もしかしたらこんな感じだったのかもしれないね……。何処かで絶対に自分の方が優位だと勘違いしていて、それの考えを覆された瞬間っていうのは……。でも、私の場合は悔しいっていうよりは……何だろうな、この感じは。確かに私には敏ちゃんを突き放せるだけの力があると思ってて、少なくとも今の段階ではそれは簡単には出来ないって事が分かった……。」

 空を見上げていた目線を下ろし、人気(ひとけ)のなくなった街中の方へ目を遣る。

「それでも私は敏ちゃんを突き放す事を望む。だけどそれは……。」

 その時、今までは気付かなかったが自分の居る場所よりももう少し向こうに車が居る事に気付いた。闇の中に浮かび上がるシルエットが2つ。その姿が市販車とは思えぬような形をしている事から、美由にはそれが誰であるかが分かった。ロードスターを降り、その許へ近寄って呟く。

「あの車は……シルバーブレイド?」

 スーツ姿に身を包んだ男と女が一人ずつ。博文と澄香である。尤も、美由はその名を知るわけではないが。2人は駆け寄って来た美由の方をやや訝しげに見る。美由は2人の姿を知るわけではないが、車ですぐに判別がついた。しかし博文達の方は美由の姿もその車も知るわけではないので、不審がるのも当然かもしれない。そんな2人に対して、美由は自ら話を切り出す。

「今晩は〜。あの、私、神崎美由って言います。敏ちゃんの友達で……。あっ、敏ちゃんって言うのはグレーのインプレッサワゴンに乗ってて……、少し前に、敏ちゃんのインプと走りましたよね? その時の話を、私も聞いてたんで。」

 インプレッサワゴンという言葉を聞いて、澄香の方はすぐに警戒を解いて穏やかな笑みを浮かべる。博文の方は見掛けは硬い表情を保っているようだったが、後の澄香によればそこで彼なりに随分と表情を緩めたそうだった。そして、澄香が美由に対して答える。

「ああ。あのインプレッサのドライバーの知り合いなんだ。そういえば、彼の車のエキゾーストが響いてたっけ。一緒に走ってたのかな。ん? でも、確かもう1個のはロータリーの音だった気がするんだけど、貴方の車はそのロードスターよね?」

「ええ。このロードスター、ロータリー積んでるんで……。」

「へぇ、ロードスターにロータリーかぁ。随分と珍しい仕様の車に乗ってるのね。」

 その言葉に、それまで黙っていた博文が独り言を呟くようにして言った。

「……俺らが言えた柄か?」

 確かに、博文の180SXも澄香のフェアレディZも、大幅にトレッドを拡大したフェンダーや巨大なリヤスポイラー等、その出で立ちは非常に稀有なものであると言えるだろう。

「そこ、いちいち突っ込まないの。」

軽く目線を遣って答える澄香を見て、鼻で笑うようにしてそっぽを向く博文。一方の澄香は美由の方へ視線を戻す。すると澄香はロードスターのボディの再度に貼られているガレージ木之下のステッカーに目を留めた。

「ん? ガレージ……木之下? 木之下って……。」

 そういって澄香は記憶を辿る。対する美由が訊く。

「水看さんの事、知ってるんですか?」

 水看という名前を聞いて、澄香はようやくそれが誰であるのかが分かったようだ。

「そうそう、水看さんね! やっぱりそうなんだ。」

 しかし博文の方は未だに分かっていないようだった。

「お前、知ってるのか?」

 すると澄香は博文の方を向いて説明する。

「覚えてない? たまに皐月(さつき)が話してくれるじゃない。私達がBeyond Limitに出入りするようになる前に出て行っちゃったけど、凄腕の女性チューナーが居たんだって。そういえば、幕張の方で店持ってるって聞いたような気がするわね。」

 それを聞いた博文も思い出そうとはしているが、余り覚えていないようである。それを見た澄香は、大袈裟にやれやれと首を振る。一方の美由は、再び澄香に問い尋ねた。

「えっと、お二人のマシンはやっぱりBeyond Limit製なんですね。」

 一瞬言葉に詰まった様子を見て、澄香は自分達が名乗っていない事に気付いた。

「あ、名前はね、私が高瀬澄香。で、こっちが当銘博文よ。そして、その通り私らはBeyond Limitにお世話になってるってわけ。水看さんには直接会った事はないからよく知ってるわけではないんだけど、水看さんと親しかったらしい奴が居てね。そいつから話を聞いた事があるのよ。とにかく腕の立つ人だったんだって。」

  その言葉に、美由は確信に満ちた様子で頷く。

「そうですね。それは間違いありません。」

水看の腕の確かさは、自分の車でも実感出来ているし、それについさっき敏行のインプレッサワゴンに実感させられたばかりでもある。

「チューンドロータリーの音って感じじゃなかったわよね……。パワーは求めずに、軽さと旋回性で勝負って感じかな?」

「……分かりますか? 流石ですね。」

 澄香が鋭く指摘すると、美由は少し悲しそうな顔をしながら俯いて答えた。

「そう、エンジンは殆どノーマルなんです。それでも、車格からすれば十分過ぎるパワーですよね。何よりもセッティングが凄くて、どんなにストレートで離されても絶対にコーナーでその差を詰めれるって自信を与えてくれる車……でした。ついさっきまでは……。」

 そこから後は口篭もるようにして言葉を途切れさせてしまう美由。その様子から、逆に美由が何を言おうとしていたかを察する事が出来たので、澄香も敢えて訊き返そうとはしなかった。やがて、暫く間も置かない内に、美由が二人に問い尋ねた。

「あの、ずっと聞いてみたかったんですけど、どうしてあの日敏ちゃんを……インプレッサを追おうと思ったんですか? 集まる台数は少ない場所とはいっても、あの時に走っていたのは敏ちゃん達だけじゃなかった筈なのに……。」

 すると、今まで美由に対しては一言も喋っていなかった博文の方が口を開いた。

「あの日……? それは、いつの事だ?」

 訊き返されると思わなかった美由は、少し戸惑いながら答えた。

「え? いつって……少し前に此処でグレーのインプレッサと出遭った時の事ですけど。後、豊君の……紅いセリカもその時一緒に走っていたと思います。」

「ああ……。あの時か……。」

 博文は納得したようだったが、美由はその反応に釈然とせず、その事について尋ねてみた。

「あの時って……、敏ちゃんと出遭ったのって、あれが初めてじゃなかったんですか?」

 しかし博文は相変わらず表情も変えずに答える。

「いや、別に深い意味はない。気にしないでくれ。それは、あいつと走った事においても然りだ。特異な理由があったわけじゃない。何となく、だ。」

「何となく……ですか。」

「……それじゃ納得しかねるか? そうだな……強いて言えば、あいつと走れば面白そうだと思ったから……って所か。まぁ、これも何となくの域を出た答えではないがな……。結局は偶然の成せる技……だろうな。」

「でも、結果は全然相手にならなかったんですよね……。」

 美由の言葉に、博文は表情はそのままに少し姿勢を変え、言葉を続ける。

「確かに、速さを求める人間が集う世界だから、速さは絶対的な判断基準にもなり得るだろう。だが、誰かと共に走る事で得られる悦びというのは、必ずしも速さの基準を伴うとは限らないんじゃないか?」

 そう言われて頷きはしつつも、美由は少し複雑な表情で博文に尋ねる。

「敏ちゃんは、その期待に見合うほどのものだったんですか?」

「さぁ……どうだろうな……。」

 愛想もなく言い放つ博文。するとそこで澄香が美由に提案する。

「……それが気になるなら、一緒に軽く流してみる? インプレッサの彼が私達の走りに何を見たのかは知らないけど、同じように走る事で、もしかすると彼の見たものを見る事が出来るかもしれない。」

 そして博文もその意見に同意する。

「そうだな……。雑な言い方かもしれんが、走るのが一番分かり易いだろう。」

 博文と澄香がそれぞれその言葉を発した時、美由は一瞬ビクッとした。走るという意志を見せた途端、2人の瞳が何処か達観したような強い耀(かがや)きを(たた)えているように見えたからだ。だが美由はそこで敢えて明るくその提案に賛成の意を表明する。

「そうですね! それじゃあ、お願いします。」

 美由は急に自分の胸の鼓動が高鳴り始めたのを感じていた。それは期待なのか、それとも恐れなのか。ロードスターに乗り込んでシートに座り、一呼吸を置いて気持ちを落ち着けて、それからイグニッションキーを捻った。間もなく、シルバーブレイドの二台のエンジンにも火が入った。

シルバーブレイドの方が先頭を取る形で3台連なって駅前のロータリーを抜け、周回コースの駅前ストレートへと入る。すると、すぐに前を行く2台はハザードを出し、美由に先行するように告げる。マシンの性能の差からして、美由を先行させた方がそのペースに合わせ易いという事なのだろう。美由はアクセルを全開にして前に出て、そのまま駅前ストレートを加速して行く。

少なくともパワー的には全く勝負にならない事は明白であるのだが、先の敏行とのバトルで感じたパワー不足の印象を引き摺っている所為もあり、美由は自分のマシンの加速がとんでもなく鈍いように感じていた。そして、恐らくはコーナリングに関しても少なくとも自分の方が勝っている事はないであろう事も分かっていた。しかし、今日の美由には引こうという考えは全く浮かばなかった。

やがて、海浜幕張公園の交差点が近付いて来た。美由は何かに抗おうとするかのようにギリギリまで突っ込み、渾身のコーナリングを見せる。道幅を目一杯に使いかっ飛んで行く様は、まさに一触即発のコーナリングだった。それでも、やはりシルバーブレイドはピッタリと後ろに付けていた。性能の差もあるので、一概に技術的な速さの優劣を付けられるわけではないが、兎に角総合的なスピードでは今の状態では敵わないという事だけは明らかだった。圧倒されると同時に感じる悔しさ。だが、そこには何故か爽やかさのようなものが伴っていた。

「何だか不思議……。技術論を語る以前に、車の性能差があり過ぎるから、比較対象にもならないっていうのは口惜しいけど、それを抜きにしてもこの2台の凄さっていうのはよく分かる。ただ、何だろう、この感覚は……。突き放されてる感じはしない。寧ろ、一緒に走ってるっていう実感がやけに強く湧いてくる気がする……。敏ちゃんが言ってたのとは少し違う気がするけど、シルバーブレイドの走る姿を見た時の心境は、こんな感じだったのかな……?」

 シルバーブレイドに会ってから特に、敏行は走りに対する姿勢が変化して行っているように美由は感じていた。今でこそ大分と和らいだものの、その時は敏行の変化を憂えていた。だが、今こうして走ってみて、敏行がそれだけの影響を受ける事もあり得るかもしれないと思えるようになった。不意に、水看の口癖が頭に浮かぶ。

「走り出した者は、もう誰にも止められない……か。……そうなのかもしれないね。知らない方が良い世界であろうが、知ってしまえばもう引き返す事は出来ない……。私だって、ずっとそう考えつづけて今まで走り続けて来たわけなんだし……。」

 見浜園の交差点を抜けた後、美由は2台を先行させる。しかし2台は、先行しても付かず離れずの距離を保っていた。あくまでも今日は競い合う為に走っている訳ではないという事のようである。敏行と遭遇した時の走りはもっと凄かったのだろうか。そんな事を考える美由の眼前で、2つのテールランプは揺らいでいた。

「……だけど、敏ちゃんの考えが変わろうと私の考えが変わろうと、結局は同じ事か……。やっぱり私は、行ける所まで行くしかない。やっぱり私は、敏ちゃんを突き放すべく、更なる速さを求めて行くしかないんだよね……。」

 速さを追求して行く道の果てしない長さを、美由は少し垣間見た気がしていた。