― 10.回帰Wiederkehr ―

 

 

 人には帰るべき場所がある。帰る事の出来る場所があるからこそ、人は安心して日々を送る事が出来る。

 深夜の幕張に集う者達にも、それは同じ事。朝が来れば、やがて彼らも此処から去り行く。それぞれの家路へと着く為に、或いは日常の業務へと戻る為に。

 だが、彼らは再びこの場所へと舞い戻る。いつかまた、深夜の幕張に帰って来る。何故ならこの場所こそが、彼らの在るべき場所、そして帰るべき場所なのだから――。

 

 

 

 

 今夜も非現実の様相を呈する深夜の幕張。だがその空気は、普段からすれば比較的穏やかであった。そんな闇の中に佇む1台の車。ボディカラーの碧とカーボン地の黒とのコントラスト、そして重厚感を漂わせる全体の作りは(おぞま)しささえ感じさせる。傍らに立つのはこの車の乗り手、陶冶である。少し奥まった場所で、まるで幕張の空気を確かめるかのようにして静かに立ち尽くしていた。

「何や。つまらんな。この場所がこんな穏やかやったら、意味ないやないか。」

 陶冶は1人、自嘲的に笑いながら言った。高回転まで回された甲高いエキゾーストノートやタイヤのスキール音が響き渡るこの環境は、普通の観点からすれば決して穏やかとは言えない。だが、この場所の空気を知る者にとっては、今日の穏やかさを感じ取る事が出来るのであろう。

「この時間帯の幕張には似つかわしくない空気……。せやけど、たまにはこんな日も必要なんかもしれへんな。まぁ、いつまで経ってもこの場所の持つ本質は不変なんやろうけどな。いつ見ても同じ、荒れ廃れた雰囲気が広がるばかり……。」

 幕張にも新しい建築物は次々に出来ているのだが、不思議と街の発展を感じさせない。陶冶の立つ場所のすぐ近くに建つビルも、夜空に向かって高々と(そび)え立ってはいるが、窓の灯りは殆ど消えてしまっており、そこには都会の持つ華やかさはない。いつまで経っても“新都心”の名には到底相応しくない、黴臭さの漂う寂れた街並みを擁するばかりである。

 そして陶冶は、この雰囲気が好きだった。それはただ単に走り屋が集う場所であるからという以上のものであるかもしれない。

 そんな陶冶の耳に、1つのエキゾーストノートが飛び込んできた。特徴的な水平対向のサウンド。その音を耳にするのは、今夜が始めてではなかった。陶冶の脳裏に、1台の車の姿が浮かび上がって来る。

「ほぉ。こりゃひょっとして、あいつ(・・・)か? ええ音色響かせとるやないか。」

 陶冶が知る音とは全く同じではない筈なのだが、その車だと確信出来るのは、陶冶の持つ走り屋としての直感からだろうか。

「今日は会うてもバトルっちゅう流れにはなりそうもないが……。どれ、ちょいとちょっかい出しに行ってみるか……。」

 陶冶はGTOに乗り込むと、ゆっくりと車を発進させた。

 

 

 幕張の街を駆け回るグレーのインプレッサワゴン。今夜も敏行はこの場所を訪れていた。相変わらず全体的な車の数が少ない事もあるだろうが、敏行も今日の幕張の比較的穏やかな雰囲気を感じ取っているようだった。

「何だかこんなに落ち着いた幕張を見たのは久し振りな気がするな。昔はそんな事、敢えて意識してなかったからなのかもしれないけど……。」

 そんな事を考えていると、ふと後ろから一台の車が追い上げて来ている事に気付いた。追い上げているといっても、流すペースが若干違うだけで、後方の車も全開というわけではなさそうだった。まだヘッドライトの光しか見えないが、そのエンジンサウンドから敏行はそれが誰なのかを判別した。

「……破壊の関口……か。」

 碧のGTO。現在の幕張で最速の1人と数え上げられている関口陶冶である。GTOはインプレッサの横に並ぶと、そのままの状態で走り続けた。敏行は煽って来るのかと思って身構えていたが、どうやら今日はそのつもりはないようである。やがてGTOはハイテク通に差し掛かると減速して行き、そして周回コースの中央を通る細い道路、公園中通へと入って行った。敏行もその後を追ってその道へと入る。別に追う必要はなかったのだが、向こうは煽って来なかったとはいえ無視もしなかった。恐らくは自分に対して何かしら言いたい事でもあるのだろうと思い、彼に続く事にした。以前、彼に散々辛辣な言葉をぶつけられたにも拘らず。

 車を停めると、GTOから陶冶が姿を現す。それを見て、敏行も車を降りた。陶冶は不気味とも言える笑みを浮かべながら、敏行の許へ歩み寄って来た。

「くっくっく……。付いて来てくれるとは思わへんかったで。俺の事、覚えとったんやなぁ。」

 その雰囲気に敏行は抵抗を感じながらも、冷静に言葉を返した。

「忘れませんよ。まだそんなに経ってないんですし。それに……負けた相手の事は余計に忘れられないもんでしょう。」

 すると陶冶は少し真顔に戻り、やや間を置いてから答えた。

「……せやな。そんなもんかもしれへん。誰が相手でも負けは負けやけど、そん中でも特に忘れる事の出来へん敗北っちゅう奴はあるからな……。お前にとって俺に負けた事は、印象深いもんやったんか?」

「どうなんですかね……。ただ、貴方は今の幕張で最速と呼ばれている走り屋の一人なんですから、同じ場所を走る人間としては、一つの指標である事は間違いないですよね。その意味では、確かに忘れられないものなのかもしれません。」

 素っ気無い素振りで淡々と言葉を綴る敏行。やはり彼に対しては以前のイメージから良い感情は持てていないようである。しかし陶冶はそれを気に留める様子もない。

「くっくっく……“最速”か……。まぁ、ええ響きではあるわな。せやけど、そんな称号に漠然と憧れてるようじゃ、まだまだ知れてるで。」

「……それは貴方がその称号を手に入れてるからでしょう。」

「そうばっかでもないで。それなら聞くけどや、お前は最速の称号を得たら、どないするんや?」

「え? どうするって?」

「自分より速い奴はもうおれへんって、最速の王座に踏ん反り返るか?」

「そんな事はないでしょう。世の中は広いんですから、走り続けてればいずれ自分よりも速い奴が出て来るって考えるのが自然なんじゃないですか。」

「せやろ? 俺もそう思うわ。せやけど、それって矛盾しとるんとちゃうか? 自分は最速になった筈やのに、自分よりも速い奴がおるって思っとるっちゅうんは。」

「……仮に現時点では最速だったとしても、そうなれば今度は自分が追われる身になるんですし、それに誰もが日々腕を磨いてるんですから、明日自分が最速で居られる保証なんて何処にもありません。矛盾してるわけじゃなく、一時的なものだからそう考えるんじゃないですか?」

「くっくっく……そうかもしれへんな。どのみち、最速の称号なんてそんな程度のもんや。確かにそれを目指しとる奴はぎょうさんおる。せやけどそれは、あくまでも一つの道標(みちしるべ)でしかあらへんのや。目的地へ行き着いたら、また新しい道標を探さなあかん。……いや、というよりも、それを目的地やと思い込んどるだけなんやろうな。大体公道での最速なんて、大抵が噂に過ぎへんのやから、曖昧なもんやで。せやからその事でお前と俺の間に差があるわけやないんやで。」

「……どちらにしろ、僕は以前貴方に負けた事実はあれど、勝った事実はないんです。最速であるかないかという以前に、貴方も僕が越える相手の一人である事には変わらないですよ。」

「そうや。そうするがええ。俺を越えてみろや。そうしたら俺は、またお前を越えてやる。ずっとその繰り返しや。届く事のない目標へ向かって、終わる事のない道を走り続ける。それがこの場所に巣食う俺らのやっとる事なんや。満たされる事のない欲求で満たされる……そんな所か。ほら、物はそれを欲しがってる内が一番幸せやって言うやろ? その状態がずっと続くようなもんなんやからな。」

 陶冶の言葉を聞いている内に、始めは警戒していた敏行の表情はいつしか驚きの混じったものへと変わっていた。

「……どうして僕を呼んだんですか?」

「ん? 別に呼んだ覚えはないで。お前が勝手に来てくれただけやろ。」

「だったら敢えて僕のペースに合わせたりしないで、さっさと追い抜いたんじゃないですか?」

 そう言われた陶冶は、面白がっているような嬉しがっているような、そんな表情を見せる。

「くっくっく……。食われへん奴やなぁ。まぁ、お前も最近色々と派手に走り回っとるやろ? 噂ってのは信憑性はなくても、回るのだけは早いもんや。ちょっと前までは来てなかった俺の耳にも、すぐに入るもんやで。俺もこの場所に心底惚れてる人間や。お前みたいな奴がおったら、ちょっかい出したくなるやろ。」

「…………。」

「なんや、嬉しないんか? 最速と謳われる俺に言われて、ちったぁ喜べや。」

 敏行は少し皮肉るように、しかし考え込むようにして言う。

「……何でなんですかね……。ちょっと前の僕なら内心少なからず嬉しくなって来た筈なんですけどね……。何か最近、そういう風な感情があんま出て来ないんですよ。僕の方は元から貴方が指標の一つであったからなのかもしれませんけど。……いえ、でも嬉しい事には変わりないですよ……。あの時とは車の仕上がりも、そして僕自信の腕も違います。二の舞を踏むつもりはありませんから……。」

「くっくっく……ええ度胸や。俺かて、目指す道標は遥か彼方にあるんや。なんぼ言うても、お前なんかに負けてるわけには行かへんのや。軽く蹴散らしたるで。」

 陶冶は始めと同じ、不気味なまでの笑みを浮かべていた。そして踵を返して立ち去ろうとしたが、ふと立ち止まって振り返り、先まで浮かべていたのと比べるとかなり神妙な面持ちで呟いた。

「……お前みたいな奴が居る限り、この場所も安泰やな。俺も安心してこの場所で走る事が出来るってもんや。」

「安泰……ですか? 僕にはあんまりこの場所には似合わない言葉のような気もするんですけど……。」

「ん? そうか? まぁ、戯言(ざれごと)やと思って聞き流しといてくれや。」

 そしてまた肩を震わせて厭味に笑った。

 

 

 

 

 穏やかな夜であっても、普段から訪れる者の数は少なくとも、此処に集う者が絶える事もない。黒いEK9シビックを駆る尊もそんな中の1人だ。最近、尊は15号線を流す事が多くなっていた。今日も港の方面へ向かって15号線を下っている。尊のシビックはターボ化までされているとはいえ、テンロクでFFに過ぎず、超高速コースでパワー重視の車が集まるこの場所での競演に参加するには少々役者不足である。追い抜いて行く車に感化されてアクセルを踏み込んではみるものの、FFであるが故の限界性能の低さからホイルスピンを起こすばかりで、思うように加速して行かない。そして、追い抜いて行った車が全開ではなかったかもしれないと考えると、尚の事もどかしさを感じるのだった。

「薄々と感じてはいた事でしたが……こないだ、あのGTOとシルビアに抜かれた時には、今の私では達する事の出来ない領域の存在をまざまざと見せ付けられた感じでしたね……。美由にせめて引き離されないようにとチューンも進めて来ましたけど、行き着いた先で知ったのはFFの限界ですか……。こんな手近な所で(つまづ)きたくはないのですが……。」

 そうこうしている内にまた後方からヘッドライトが近付いて来る。どうせ立ち(はだ)かったとしてもすぐに抜かれてしまうのだろうとは思いつつも、アクセルペダルは踏み込んだままにしてその車の接近を待つ。浮かび上がるシルエットはワゴンボディ。サイズはインプレッサよりも大柄だが、そのサウンドからは同系統のエンジンを搭載している事が分かる。それは鮮やかなブルーのレガシィワゴンだった。サイドには見覚えのある黒猫をあしらったロゴ。水看が珍しく幕張を訪れていたのだった。水看は尊のシビックと横並びになると、アクセルを緩めて併走した。

「こうして走る姿を見る事さえ稀ですが、きっと水看さんの事ですから、このレガシィも並みのレベルのチューニングではないんでしょうね……。」

 そして、そんな事を考えている自分に対して情けなく笑った。

「何だか私、卑屈になっちゃってますね……。私もようやくこんな考えに至る所までやって来れたと喜ぶべきなんでしょうか。或いは、もう私はすっかりスピードに飲み込まれてしまったという事なのかもしれませんが……。」

 尊の右足は今もアクセルペダルを必死に踏み付けていた。

 

 

 15号線を突き当たった先にある海に向かう広大な道路。尊と水看はそこに車を停め、降りて2人顔を合わせていた。

「水看さんが自分で運転して幕張に来るなんて、久し振りですよね。このレガシィも大分と長い事見てなかった気がします。」

「まぁ、私は夜中は基本的に工場に篭って車弄ってるからね。それが私の本業だし……それに、生憎私は車を走らせる事に関してはまるで向いてないみたいだしね。」

 皮肉っぽく笑う水看。しかし尊は穏やかなままで話を続ける。

「でも、水看さんの作り手としての才能は凄いんだと思います。このレガシィも、かなり手が加えてあるんじゃないですか?」

「言うほど凄い事はしてないわよ。EZ30が……ボクサー6がベースって意味では珍しさはあるかもしれないけど。バブル期に出たアルシオーネ以来だったからね。スバルから水平対向で6発が出たのは。それで、どんなもんなのかと思って早い時期にランカスター6を入手してみたのよ。まだBeyond Limitに居た頃の話なんだけど。当時はまだワゴンしかなくてね。今ならセダンでしかもB4にもEZ30積んだモデルも出てるから、もう少し待てば良かったかなって気もしなくもないけどね。」

 水看の話はレガシィからどんどん広がって行った。それを聞いていた尊は、ふと水看に尋ねる。

「水看さん、水平対向エンジンがお好きなんですか?」

 それは何の変哲もない普通の質問だろう。だが、水看はそう言われて少々妙な反応を示した。

「ん? ど、どうかしらね……。そうでもないとは思うんだけど……。まぁ……チューナーとしての私には、水平対向は性に合ってるのかもしれないけどね……。」

 素直に肯定の答えが返ってくるであろうと思っていた尊は少し不思議に思ったが、訊かれたくない事を訊いてしまったのかと思い、やや違う角度からの質問を投げ掛ける。

「水看さんは、水平対向やロータリーみたいな、ちょっと特殊なエンジンしかやらないんですか?」

「え? 別にそういうわけじゃないわよ。敏と美由がそうなのは偶々だし。今でこそ表立ってのチューニングはあんまりやってないけど、Beyond Limitに居た頃はRBとか他のエンジンも色々手掛けたし、一通りのノウハウは得ているつもりよ。」

 それを聞いた尊は、一度相槌を打った後に暫く考え込むようにして俯いた。そして顔を上げると、ゆっくりと丁寧に口を開いた。

「水看さん……。少し、相談に乗って戴けませんか?」

 

 

 

 

 東の空が白み始める頃、“Tanz mit Wolken”の許へ2台の車がやって来た。明るい緑のRX-7と真っ赤なセリカ。今日は孝典に連れられて豊もこの店へと来たのであった。

「あら、今日は鈴本君も一緒なのね。いらっしゃいませ〜。お久し振りね。」

「あ……俺の名前、覚えてんですか? 1回しか来てないのに……。」

「こんな時間に来るお客さんなんて他に居ないもの。すぐに覚えられるわよ。それにこう見えても私、人を覚えるのはなかなかに得意なのよ?」

 楓の性格をよく知らない豊は、少々圧倒されているようだった。そんな様子を見て、孝典は楽しそうに笑った。

「たまには豊も連れて来ようかと思いましてね。折角一度此処を訪れる機会に恵まれたんですから、もっとこの店の良さを分からせてやらないと勿体無いですもんね。」

「あら、嬉しい事言ってくれるじゃない。そういえば最近は歌野君1人で来る事が多かったわね。ちょっと寂しくなったのかしら?」

「ハハッ。それもあるかもしれませんね。敏達も顔を出す頻度が低くなってますし。最近はよく走り込んでるみたいで、下手すりゃこれくらいの時間でもまだ15号線の方でも走ってるかもしれませんよ。」

「確かに、美由もここんとこよく明らかに寝不足ですっていう顔付きで起きて来るわねぇ。ま、それでもちゃんと毎日を過ごせちゃうんだから、やっぱ皆若いって事よねぇ。私なんて、一晩徹夜する自信すらないわよ。」

「そうですか? 楓さんだっていつもこんな朝早くから起きて仕事してるんですから、遊び歩いてるだけの俺達よりもよっぽどタフだと思いますよ。」

「あら、そうかしらね?」

 そんな会話をした後、孝典と豊は2階へと登って行く。カウンターではエンジン音で孝典達の来店に気付いていた悠一が、既にコーヒーを淹れて待っていた。

「美由や敏はまだ走り回ってるのか?」

 楓との会話を聞いていた悠一が、孝典に尋ねる。

「いや、そうかもしれないっていう俺の憶測ですよ。実際に会っているわけじゃないですし。ただ、朝方まで走り込んでる事が多いってのは確かですから。」

「美由と言い敏と言い、入れ込みだすと止まらなくなる性質だからな……。俺が言えたもんじゃないとはいえ、ちょっと心配になる事もあるがな。そういう想いは場の雰囲気をやばい方へと引き込んで行く可能性もある。以前にそういう時期もあったわけだし、な……。」

 悠一の淹れたコーヒーを受け取って手近な席に着いた孝典は、少し淋しげに穏やかな笑みを浮かべる。

「……そんな時もありましたね。でも、もしかしたら悠一さんの言う通りの事が今の幕張にも起きようとしているのかもしれません。俺自身、旧い友人に会ったりして昔を思い出す事があったからそう思うだけかもしれませんが……。尤も、俺には行く末を見守る事しか出来ませんけどね。向かう先に何が待ち受けているかも分からないんですし……。」

 すると、孝典の斜め向かいの席に着いた豊が口を開いた。

「でも、それで良いんじゃねぇか? 俺としては寧ろそうだからこそ、この場所を訪れてると言っても良いくらいだからな。何が起こるか分からない……だが、それだけにきっと何かがあると信じる事も出来るんだと思うぜ。幕張に来れば壮大なドラマに遭遇出来る。そう思う俺は夢見過ぎなんだろうか……。そんな風に思う事もある。けど、やっぱり俺は心の奥底で、それを信じて止まないんだろうな。」

 その言葉を聞いて、孝典は少しの間を置いた後、今度は明るく微笑んだ。

「夢……か。そうだな……。現実に居ながらして、紛う事のない夢を見られるというのは、考え様によってはこの上ない幸福なのかもしれない。寝ている時に見る夢の世界へ戻る事は出来ないが、深夜の幕張というこの空間には、望めばいつでも舞い戻り、夢の続きを見る事が出来るのだからな……。」

 そこまで言って、孝典はコーヒーを一口啜った。そしてまた、少し淋しげな表情をする。

「でもな、豊。夢は必ずしも楽しいものばかりとは限らないんだ。見た事を忘れてしまいたくなるような夢もある。しかも、この場所で起きた出来事は、どんなに夢のように感じたとしても、間違いなく現実での出来事なんだ。それから逃れる事は出来ない。そうして、例えこの場所を離れる事はなかったとしても、真っ向から対峙する事も出来なくなる。時にはそんな事もあるんだよ……。」

 孝典が何を言わんとしているのか、豊には解りかねて少し戸惑ったが、やがて表情と共に口調も落ち着けて言葉を返した。

「……俺は歌野程のキャリアはないし、苦い経験ってのを味わった事がないから言える事かもしれねぇが、それでも俺はこの場所で夜が明けるまで夢見続けていたいと思うぜ。根拠なんかねぇが、きっとドラマは起こると確信させてくれるような、そんな空気が流れていると感じさせてくれる場所だからな……。」

 すると孝典はやや呆然とした表情を浮かべ、その後にまだ明るくなり切っていない西の空を窓越しに眺めながら言った。

「豊はそうやって今まで走り続けて来たんだ。その想いを貫けば良い。ただ、俺は……。」

 そこまで言い掛けた所で、悠一が口を挟む。

「……良いんじゃないか? 彼と同じように実直にこの場所と向き合ってみるのも。今の歌野には、それが必要なのかもしれないぞ。」

 そう言われた孝典は、手に持っていたコーヒーカップを覗き込むようにして少し俯く。

「俺も迷っている所ではあるんですけどね……。俺にも出来るんでしょうか……。」

 孝典のそんな様子を、豊は不思議そうにして見ていた。

「歌野でも迷ったりする事もあるんだな。」

「当然じゃないか。きっと俺は、お前なんかよりもずっと迷ってるんだと思うよ。毎晩幕張の地を迷走して、俺が目指すべき道の彼方の光を捜し求めてるんだ。時にはそれが本当にあるかどうかも分からなくなりながらな……。」

 

 

 いつしか楓も掃除の手を止めて階段の手摺に寄り掛かり、2階でなされている男達の会話に耳を傾けていた。そこへ、ようやく走りを終えて喫茶店へとやって来た敏行と美由が姿を現した。楓はそれに気付くと、いつも通りに(にこ)やかな笑顔で声を掛ける。

「あら、お帰りなさい。今日は遅かったわねぇ。」

「うん、朝方になってから敏ちゃんと出(くわ)しちゃってね。ちょっとだけ走るつもりが、気付いたらこんな時間になっちゃった。」

「僕も15号線を軽く流すくらいのつもりだったんですけど、いつの間にか熱くなって来ちゃいましてね……。」

 それを聞いた楓は、少し呆れ顔も交えながら笑った。

「2人共、ただ単に好きだって形容するだけじゃ全然物足りないくらい、走るのが好きよねぇ。ま、それで良いのかもしれないわね。果てのない世界なんでしょうけど、貴方達なら、本当に何処までも()けて行けるような気がするわ。やっぱり、貫ける想いを抱いてるってのは強いのかしらねぇ。」

 飄々とした中で少しだけ真面目さを忍ばせて言う楓。それに対して敏行は、それに気付かなかったのか、或いは気付かぬ振りをしているのか、同じように明るい調子で答えた。

「それはあるかもしれませんね。楓さんもなかなか上手い事言いますね。」

「あら、そう? 何でも言ってみるものねぇ。」

 一方の美由は暫く黙って聞いていたが、やがてもはや我慢し切れないといった様子で楓に訴え出る。

「ねぇねぇ、お母さん。そんな事より、喉乾いちゃったよ〜。何か冷たい飲み物頂戴。」

「はいはい。ちょっと待っててね。敏君も要るわよね?」

「あ、じゃあ、お願いします。」

 そうして楓は奥の調理場へ2人の為の飲み物を用意しに行った。