― 12.切磋das Glanzschleifen ―

 

 

 速くなる為には、走り込むしかない。只管(ひたすら)走り込む事で、車の扱い方とコースの攻略法を覚えて行く。黙々と走り込んで行く内に、徐々に速さが身に着いて行っている事を実感出来る。だが、今自分がどれだけのレベルにあるのかを知るには、独りで走っているだけでは中々分からない。そうして、誰かと腕を競い合う事を望むようになる。自分はあの車と、あのドライバーと戦えるだけの技量を持っているのか。それを確かめるべく、バトルへと挑んで行く。

 自分の技術を立証したい。その想いは、時に人を想像以上の領域へと導く事もある。そして例え敵わなかったとしても、いつかは越えて見せるという想いが沸き立ち、更なる速さを得ようと必死に努力する。

 深夜の幕張とは、そういう場所である。集う走り屋同士がぶつかり合い、互いを磨き上げて行く。やがて彼らは研ぎ澄まされ、驚異的なまでの速さを手に入れる。同じ想いを持つ者達との切磋琢磨。それも此処に巣食う者達の宿命、そして望み見る事の1つなのかもしれない――。

 

 

 

 

 幕張に夜が訪れ、そして夜が深まって行くと同時に次第に走り屋が幕張へと集い始める。そんな中、“Tanz mit Wolken”の横の小道には紅いセリカと共に豊の姿があった。空き地が使えなくなって以来、此処に車を停める事も多くなっていたが、今日は彼の顔見知りは他には来ていないようで、一人でセリカに凭れ掛かり一息吐いていた。すると、そこへ一台の車が入って来た。その車はセリカの後ろに停まる。見知らぬ車が寄って来て豊は訝しがっていたが、降り立ったドライバーに豊は驚いた。

「今晩は。豊さん。」

 その車――黒いBCNR33 GT-Rから降りて来たのは尊だった。

「え? ほ、法月……? 車乗り換えたのかよ?」

「そうなんですよ。乗り換えちゃったんですよ。まだ何日か前に来たばっかりなんですけどね。」

 丁寧に話す尊に対して、豊はまだ驚きが収まらないといった感じだった。

「いや、しかし突然だな……。しかも、33Rとは……。正直、ちょっと意外だぜ。」

「確かに私、他の人に車乗り換えるんだって話してなかったですからね。でも、ちょっと前から乗り換えたいなって気持ちがあったんですよ。私、皆さんと比べて技術ないですから、ちょっとでもパワー上げて付いて行こうと思ってシビックにターボまで付けたんですけど、流石に苦しいかなって思って来てたんです。FFですし。それで、もっとハイパワーマシンに乗り換えようと思ったんですけど、私学生の身でお金ないですから……。頑張ってバイトしてるんですけど、それも限界がありますからね。だから、一番安上がりで手っ取り早くパワーを出せる車って事になるんですけど、そしたらやっぱりRしかないって事で、この車にしたんです。」

「でも、幾ら安上がりで手っ取り早くっつったって、そんな安かねぇだろ?」

「それが、外見こそはエアロ組んでGTウイングなんかも付いてますけど、中身は殆どノーマルのままなんですよ。だから、言うほどお金は掛かってないんです。車自体も知り合いの方に手配してもらって安く買えたんですけどね。」

 そして、少し表情を固くして言葉を続ける。

「あの、ところで……。良かったら少し私と走りませんか? ノーマルに近いとはいってもGT-Rには変わりないですし、私自身も驚いてるくらいなんですけど、前のシビックとは比較にならないほどの戦闘力を持ってる車です。頑張って付いて行きますから。」

 その提案に豊はまたもや意外といった表情を見せたが、それを受け入れる事にした。

「……そうだな。法月とはちゃんと走った事ねぇもんな。それに33Rってんだから、俺としても面白そうだぜ。手加減はしないからな……。」

「宜しくお願いします。」

 軽くお辞儀をする尊に調子を狂わされそうになるも、すぐに気を取り直してセリカに乗り込む豊。そして尊もGT-Rに乗り込む。両車ともエンジンを掛けてから暫くすると、周回コースへと向かってゆっくりと動き始めた。

 

 

 右に曲がればすぐに周回コースである。セリカから先にコースへと入る。そして豊はすぐにアクセルを全開にする。ブースト計の針が振れ、セリカの車体は一気に高速域へと押し上げられる。するとすぐに後方からも高鳴ったエキゾーストノートが聞こえて来る。小道を出てから暫くの間は様子を見ながら走ったが、きっちり付いて来ているが特に気になる動きはしていない。やがて、ハイテク通を抜けて駅前ストレートに入る。尊のGT-Rがどれ程の加速力を持っているのかを伺おうとバックミラーを覗き込む。

「……ほぼノーマルだって言ってたもんな。流石に追い上げて来る事はねぇか。」

 豊のセリカは400psを超えるパワーを持っているし、内装も剥がしてしまっており重量はかなり軽い。対して尊のGT-Rは給排気系のみのライトチューンであるので、馬力は350psもないであろう。2台の差は少しずつ広がって行っている。ただ、それ程のパワー差がある割には、差の広がり方は遅いように感じられる。

 そして幕張海浜公園の交差点が迫る。GT-Rとは若干の差が付いているので、コーナーの突入に備えて豊はセリカの車体をきっちりとアウト側に寄せる。それと同時に、サイドミラーも視界に含めながら後方の様子を確認する。しかし、それに気を取られてしまったのか、一瞬コーナーに入るタイミングを見誤ってしまいブレーキングが遅れ、そこで予定よりも大きく減速する事を余儀なくされてしまう。

「ちぃッ! やっちまったッ! ……人の事なんかよりも、自分がしっかりしてねぇと始まらねぇか。」

 車体の姿勢を修正してコーナーを立ち上がった頃には、GT-Rはほぼ真後ろにまで接近していた。それに気付いた豊は、やや訝しげな表情を浮かべる。

「……さっきのコーナーでミスっちまったから、差を詰められてんのは当然だが……。こんなに近付かれるほどのミスじゃなかったと思うんだがな……。」

 ややブレーキングが遅れたとはいえ、そう極端にラインを崩したわけでもなかったので、ストレートで付いた差から考えると、後ろに張り付かれるまでに差が縮まるとは思っていなかった。自分が思っている以上に減速が大きかったのかと思い直してみるものの、今一つ釈然としないようだった。

 周回コースにおける海浜大通のストレートは短い。その為、後続のGT-Rを引き離せない内に見浜園の交差点へと差し掛かる。今度はミスしないように、そしてそうする事によって尊とGT-Rが如何なるコーナリングを見せるのかをしっかりと確かめる為に、的確なラインでコーナーへと侵入して行く。豊のセリカは足回りはかなり固めにしてあるが、ボディは軽量化のみで補強は殆どしていない為にパワーに負け気味である。それでもこの車に慣れている豊は、やや強引ながらもきっちりと車体を曲げさせて行った。

 しかしGT-Rは離れない。コーナーへの突入から立ち上がりまで、セリカにきっちり付いて来ていた。ある程度の車間距離は開けられているが、それは寧ろ車間を調整するだけの余裕が相手にはあるという事を示しているようにも感じられた。

「……何だ? この感覚は……。俺の方がパワーもあるし車重も軽いし、それに法月はまだあの車に慣れてもいない筈だ。有利な条件は揃ってるじゃねぇか。今のコーナーだって付いて来たってだけで、別に抜かれたわけでもねぇ。それなのに、全然優位だとは思えねぇのは、何故だ……?」

頭を巡る考えと感覚的に伝わって来るものとの食い違いに戸惑いを感じたが、その思いを振り切らんとするばかりに右足でアクセルペダルを強く踏み付ける。セリカのボンネット内に納められた3S-GTEが唸りを上げた。

 

 

 直線の加速ではセリカの方が上である。公園大通に入ってから、セリカとの差は少しずつではあるが広がって行っている。しかし、尊はその事で焦りを感じたりはしていなかった。

「……確かに一人で走っている時も安定感があるから安心して走れるとは感じていました。でも、安心して走れる理由はそれだけじゃなかったんですね……。」

 ひび野2の交差点を通り過ぎてから少し行くと、超高速コーナーが待ち構えている。前を行くセリカはやや苦しそうにしながらコーナーを抜けて行く。対して尊のGT-Rのコーナリングは、セリカのそれよりも軽快な様子だった。

「このGT-Rが持つ安定感というのは、スタビリティの意味だけでなく、高いアベレージを保てる……安定して高い速度域のまま走り続けられるという事でもあるんですね……。豊さんを追ってる今、それがよく実感出来ます……。」

 尊はシビックを操っていた時と比べて何か特別変わった事をしているわけではない。コーナーに差し掛かったら、ブレーキを踏んで減速し、ハンドルを切って車を曲がらせる。あくまでも基本的な動作しかしていないし、車もその基本的な操作に忠実に答えているだけである。そして、それこそが前のシビックとは違う点なのであった。

「意のままに操れるとは、きっとこういう事なんでしょうね……。頭の中で思い描くラインに、きっちりと乗せていく事が出来ます。これなら……確かに水看さんが言っていた通り、今の私でも豊さんや……そして美由でさえも、追う事が出来そうな気がします……。」

 左、右と続く高速コーナーを抜けた頃には、GT-Rは再びセリカのすぐ後ろへと付けていた。余りバトルに慣れていない尊には、オーバーテイクのポイントは探り辛いが、少なくともセリカに置いて行かれるような事はなさそうである。

「私がこんなにもしっかりと相手を捉えて走る事が出来るなんて、GT-Rというのは本当に凄い車なんですね。今までの私からすれば、車のパワーも高めの豊さんにしっかり追い付く事が出来るだけでも充分に凄い事ですけど、でも……。」

 先行するセリカの走りにもどかしさを感じるわけではない。しかし、幾ら性格は大人しい尊であるとはいえ、幕張に集う他の者たちがそうであるように、彼女にもスピードに飢えた走り屋の血が流れている。相手に確実に食い付けるという事を知った時、まるで当然の事のように次のステップへと踏み出して行くのである。

「……もしかしたら、豊さんの前を走る事すら出来るのかもしれません……。今の私は、まだまだ車に助けてもらっている状態ですけど、逆に今の私でも、そしてこれだけの馬力でも、こんなにも高いスピード域で走る事が出来るんですから、もしこの車を完全に手の内に収めたらどれだけの速さを持つ事になるんだろうって考えると、果てしないですよね……。この車なら、本当に心の底から思います。完全に扱えるようになってみたいって……。」

 そして、そんな事を考えている自分に少しだけ違和感を感じる。

「……何時の間にか私もこんな事考えるようになっちゃったんですね……。」

 尊は昔から車が好きであり、前のシビックを親から譲り受けて走り始めたのも美由より先だった。だが、本格的に走りに打ち込むようになったのは、美由がその頭角を現し始めてからだった。走りにのめり込んで行くに従って自分を孤立化させて行く美由を見て、自分は絶対に美由を見放したりはしない、美由は一人なんかじゃないという事を分かってもらいたい、そんな想いから美由を必死に追うようになった。今もその想いに変わりはない。だが、その形は少しずつ変化しているようだった。

「始めは美由を追う為に走ってた私が、美由をも超える可能性を持つ車を手にするようになるなんて、しかもシビックを手放してまで手に入れたがるようになるなんて、思いもしなかったですよ……。何だか美由に対する背信行為のような気もしてしまいますけど、やっぱり私も美由の速さに惹かれてたんですかね……。」

 ハイテク通も右、左と高速コーナーが続く。セリカとGT-Rはテールトゥノーズの状態のままで走り行く。

「公道をこんな風に走り込むなんて、確かに危ないですしやるべきじゃない事ですけど、それでも惹かれる人間は惹かれてしまうこの世界ですから、美由がそういう人達を惹き付けるまでの速さを持っている事は、必ずしも憂える事ばかりじゃないと思うんです。美由が敏さんを突き放そうとしたその気持ちも分かるけど、寧ろ私とは突き放そうとせずに一緒に走ってくれた事が、私には嬉しかった。そうして引き込まれて来た私は、いつしかこんな領域を垣間見れるようになって来たんだから……。私はそうだし、そしてきっと敏さんも、本人にとってみれば引き込まれた事がこの上なく嬉しい筈だから……。」

 余り長期戦は望まない尊であったが、しっかりとセリカの後ろのポジションをキープする事で動きを把握しながら、抜き所を探って行こうと思い定め、前方のセリカのテールランプをより一層凝視した。

 

 

 駅前ストレートに入り、再びセリカはGT-Rとの距離を離し始める。しかし、常用ブーストのままのパワーではやや物足りなさを感じ始めていた豊は、駅前ストレートに入ってすぐにスクランブルブーストのスイッチを入れる。セリカは更なるパワーを稼ぎ出し、猛然と加速して行く。そしてGT-Rとの差が明確に開いて行っている事を確認した豊は、ようやく少しだけ安堵感を覚えた。

「……こんなにも苦戦させられるなんて、正直思ってなかったぜ……。俺は、法月を舐めていた……いや、寧ろGT-Rという車を舐めていたんだろうか……? 速い車だという事は分かってたつもりだったが、本領を発揮するのはもっと高いパワーでの話で、ライトチューンくらいのレベルじゃ、重ったるさが先行してそんなに速くは走れないと思っていた。……だが、そんな風にRを見(くび)っていた俺は余りにも無知だったという事なのか……?」

200km/hオーバーの速度で突き進んで行けば、1km以上の長さがあるこの駅前ストレートもあっという間に通り過ぎてしまう。2度目の幕張海浜公園の交差点。ギリギリまで待ってからブレーキングに入る。タイヤが激しく悲鳴を上げながら、コーナーへの突入に向けて体勢を整えて行く。後方に迫るGT-Rのヘッドライトから逃れるべく、コーナーをクリアして行く。差はそれ程変わっていないように見える。しかし、その事に安心しそうになる自分に喝を入れるかの如く、右足に渾身の力を込めてアクセルを踏み付ける。

「くッ! そんな理屈捏ねてもしょうがねぇか……。 俺にはそんな事をのんびり考えていられるほどの猶予は与えられていねぇみたいだからな……。俺は今、とんでもない速さを秘めた相手と戦ってんだ。油断も隙も許されねぇ。こんなバトルこそが、俺がこの場所で望み見る一番のドラマだッ! 負けるわけには行かねぇぜッ!!」

 真紅のボディは轟音を放ちながら公園大通を加速して行った。

 

 

 公園大通は途中に緩いものではあるがS字コーナーが存在しており、ずっとストレートが続くわけではない。しかし、その短いストレートの区間でも前方のセリカはスクランブルブーストを使用しているのであろうか、ぐんぐん加速して行き尊のGT-Rとの間隔を広げて行っていた。

「やっぱり独りで走ってるのとは違いますね……。バトルは、相手よりも速く走らなくちゃいけないっていう切迫した状況に追い込まれる訳ですし。それに比べれば、幾ら攻め込んだとしても独りで走ってる時なんて、気楽なものなのかもしれませんね……。」

 S字コーナーに差し掛かって、若干差を縮める事は出来たものの、立ち上がりからはセリカが此方をブロックして来ている事もあり、抜きを掛ける事は出来なかった。

「このまま駅前ストレートまで持って行かれてしまうと、ちょっと辛いですよね……。それまでに勝負を仕掛けるポイントと言ったら、2つの交差点と、後はハイテク通ですね……。」

 周回コース北東の交差点でも機があれば前に出たいとは思ったが、セリカは此方側の動向を警戒してか、的確にコーナーをクリアして行き抜く隙を与えない。こうなると、次のテクノガーデンの交差点も同じであろう。その後には駅前ストレート。更に差を付けられてしまう事は間違いない。よって残されたポイントは、このハイテク通に位置する、コーナーと呼ぶには物足りないほどの大きなRの超高速S字コーナーしかない。尊は此処でセリカを抜こうと思い定め、ラインを交錯させてセリカの懐に()じ込もうとする。高速コーナーでのコーナリングスピードは此方の方が上であるので、徐々にセリカの姿が近付いて来る。だが、それを見たセリカは、軽くではあるがブロックを仕掛けて来た。

「…………ッ!」

セリカに被せられた尊は、慌てて思わずブレーキを強く踏み込んでしまった。

「……あ……ッ!」

 それによって少しだけGT-Rは体勢をぐらつかせる。それは本当に僅かなものであったのだが、尊は焦りから更に急激にハンドルを切ってしまい、車体は尚の事安定性を失ってしまう。道に対してやや傾いた向きでフロントを沈み込ませながら減速して行くGT-R。やがて完全に止まり切ったGT-Rの後方には、ブレーキ跡がくっきりと路面に残っていた。

 

 

 急に減速したGT-Rに気付いた豊は車を脇に停め、その許へと駆け寄る。

「大丈夫か? バランス崩したみたいだったが……。」

中の尊はやや息が上がっている様子だったが、やがて車をどかすと、ゆっくりと車から降りて来た。

「エヘヘ。やっちゃいましたね……。やっぱり私って下手糞ですよね。ご心配掛けて済みません。調子に乗って豊さんの前に出ようとしちゃったんですけど、スピード出てるのに無理し過ぎですよね。危うく壁に接触する所でした。まだ新しいのに、ぶつけちゃったら泣くに泣けませんよね。」

 ホッとした表情を見せる尊。そんな様子を見てから、豊は少し遠くを見るようにしながら口を開く。

「……確かに、無理しちまう事ってのはどうしてもあるな。車に乗ってバトルしてんだ。相手の前に出たい、相手より速く走りたいって思うのは当たり前だ。それが例え無茶だと思えてもな……。今回も俺だって駅前ストレートじゃスクランブルブースト使いまくったからな。それに、そうゆう無茶をやって痛い思いをした事も幾度もあるが、それでもこの感情がなくなる事はねぇ。寧ろそれは、俺達を走り屋たらしめるものの1つだとすら思ってるぜ。」

 その言葉に尊も同意出来るといった表情をする。それから自分のGT-Rに凭れ掛かりながら豊に答える。

「そうですよね……。それもアクセルを踏み込むと変わる世界観の1つなのかもしれません。前を走ってる車があると、何が何でもその前に出たいと言う感情が沸き起こって来るんです。独りで走ってる時にもありますけど、そういう時は特に現実に自分の意識があるっていう感覚が薄くなって、夢を見てる時みたいに曖昧な感覚になるんですよね。それこそが走りに潜む“魔”なのかもしれませんし、飲み込まれちゃいけないものなんでしょうけど、でも私はその感覚は決して嫌いじゃないです。より速い車に乗って、より速い相手を追う事で、それを更に実感して行く事が出来るんですから、分不相応だと分かっていても、こんな車を手に入れてしまったりするんですよね……。」

 尊の言葉を黙って聞いていた豊だったが、そこで実感の篭った口振りで言った。

「……やっぱり法月も、完全にスピードに毒された人間の1人って事か。」

 そう言われた尊は少し照れ臭そうに笑ったが、その後少し表情を硬くして言葉を続けた。

「……豊さんにとって、敏さんはやっぱり1つの目標ですか?」

「え? ああ。まぁ、そうだな。目標ってのとはちょっと違う気もするが、青山にはいつも一枚上手を行かれてるのは事実だからな。そういう奴を目の当たりにしたら、いつか絶対()ち抜いてやろうとは思うよな。」

「そう思いますよね。多分、豊さんにとっての敏さんが、私にとっての美由みたいなものだと思うんです。美由は走り始めた途端にめきめき頭角を現して来て、私はすぐに追い付けなくなってしまいました。それでも……美由の友人として追い続けたかったのか、走り屋としての嫉妬だったのかは、今でもよく分からない所なんですけど、どちらにせよ私の内には美由に何としてでも追い縋りたいという想いがあるんです。その想いが、私にGT-Rを手にする事を決意させたのかもしれません……。美由の技術の向上は留まる事を知りません。だから私はそれに追い付けるように、どんどんパワーを求めて行くようになったんでしょうね……。」

 少し複雑な表情を浮かべる尊。それに対して豊は、少し間を置いてから口を開いた。

「……それが法月の性格だから仕方ねぇんだろうが、でもそんだけの車を手に入れた事に関してはもっと胸を張って良いと思うがな。ていうか、そうでもないと持たねぇぜ? 更なる速さを手に入れた事によって、美由をきっちり追う事が出来るようになるだろうが、それは同時に他の奴らを惹き付ける事にもなるんだ。走り続けていれば、次々に速い奴らが立ちはだかって来るだろう。そんな時に躊躇(ためら)いがあるようじゃ、あっという間に食われちまうだけだ。俺だって偉そうな事言えたもんじゃねぇし、迷いを断ち切るって事は簡単じゃねぇだろうが、それでもなるべくそう在るように心掛けるべきだと思うぜ。」

 豊にそう言われた尊は、ゆっくりとした動作で少し体勢を変えると、道の向こうへと連なる街灯の灯かりを見詰めながら答えた。

「そうですね……。私も出来る限りそう在りたいと思います。私だって、走るのを止めるなんていう選択肢は、もうとっくの昔に捨て去った人間なんですから……。」

 今夜もエキゾーストノートとスキール音の響く幕張新都心。そこを吹き抜ける風は、以前よりも更に厳しさを増しているようだった。

 

 

 

 

 水看は戸をあけて裏手の駐車場に出ると、大きく息を吸った。灯かりの消えないガレージ木之下。佇む水看の耳に、聞き慣れたボクサーエンジンのサウンドが届く。そうして間もなく敏行のインプレッサが姿を現し、駐車場へと車を停める。

「草木も眠る丑三つ時とはよく言ったものね……。お陰でインプのサウンドがかなり遠くに来た時点から分かるわ。」

 少し皮肉るようにして言う水看に対して、敏行は笑いながら答える。

「水看さんなら、多少の雑音があったって僕のインプの音はすぐに判別出来るでしょ。何たって、このインプレッサの作り主なんですから。」

「それでも、あんた程聞き慣れてはいないわよ。作り手の車との付き合いはあくまでも作るまでの間。その後長い期間を車と共にするのは、乗り手の方なんだから。……で、そんな乗り手がどうしたのよ? 今はロードスターをやってるから、それが終わるまではあんたの車を弄る暇ないってのは、知ってるでしょ?」

 そう、今水看が作業をしているのは、美由のロードスター。乗り手の求めに応じて、水看は更なるパワーをロードスターに与えようとしていた。

「ええ、だからですよ。所謂、敵情観察って奴ですかね?」

 事も無げに言い放つ敏行を目の当たりにして、水看も軽く笑う。

「成る程ね。あんたも中々に(したた)かじゃない。……やっぱり、気になるものなのかしら?」

「どうしても……ね。単純な興味本位ってのもありますし、どんだけ凄い事になるんだろうって考えると、恐怖感のようなものも感じます。幾ら軽量なボディとはいえ、13Bをノーマルで積んでたに過ぎないんですよ? それなのに、直線ばっかの幕張で頭張るほどの速さを誇ってたんですから、これでパワー上げて来られたら、本当に限りない速さを手にしそうですよね。」

「……似たような事、前も口にしてなかったっけ? 確か、13Bに載せ換えた後だったかしらね……。」

「え? そ、そうでしたっけ?」

 そう指摘されて敏行は少したじろいだが、水看は穏やかな口調のままで言葉を続けた。

「自分では気付いてないでしょうけど、前の時もそして今も、あんたって嬉しそうに喋ってるのよ。だけど、口では凄い凄いって言ってても、本心では敵わないなんて思ってないんでしょ?」

 水看の言葉に、敏行も落ち着いた口調で答える。

「……そうですね。でもそれは自信というよりは、自分の前に速い奴が現れる事に対する喜びからそう思うんですよ。……僕には最速の果てなんてまだ到底見えやしません。越えるべき相手が沢山居るんです。そんな相手と対峙する為にも、僕はまだまだ速くなりたいんです。だからこそ、速い相手を求めてるんだと思います。自分が本当に速く走る為には、競り合う相手も速くなければなりませんからね……。それには、美由は恰好(かっこう)の相手だと思ってるんですよ。あいつと走ってる時が一番、僕を更に高い領域へと引き連れて行ってくれる、僕はもっと高みへと行く事が出来るんだと思わせてくれるんです。……それだけ、美由の速さは凄いって事なのかもしれませんね。」

 いつしか真剣な表情で語っている敏行。一方の水看は、遠くを見詰めるようにしながら軽く溜め息を吐いた。

「……物事は偶然の積み重なりでしかない。それでも、あんた達……いえ、あんた達だけじゃなく、幕張に集う者達全ては引き合わされるべくして引き合わされた。そう思えてしまうわね……。個々の持つ強い想いが幕張という場所を創り上げているのならば、そこに他の者が干渉する余地などない。辿る道を遮る事など、出来るわけがないんでしょうね。今までも、そしてこれからも……。」

 すると敏行も、空を見上げながら口を開いた。

「……自分でも不思議に思う事もありますよ。どうして僕はスピードに、そしてこの場所に魅せられているんだろうって……。ただ、(いず)れの理由にせよ、僕は既にこの場所とそして多くの走り屋に引き合わされてしまったんですから、後はもう道の先へ向かって走り続けるしかありません。この道が、何処へ向かっていようとも……。」

 この場所は幕張からそう離れていないが、それでも見上げる空の様相は幕張とは似ても似つかぬ、穏やかな空が広がっているように見えた。

 

 

 

 

 周回コースより西に位置する、ワールドビジネスガーデンと幕張メッセ北ホールとの間に伸びるメッセモールと銘打たれた通り。そこで息を潜める銀色に輝く車が2台。博文と澄香は非日常的なスピードで車が行き交う領域から1本外れたこの場所で、響くエキゾーストノートに聞き入るようにして佇んでいた。

「……何だか最近、しょっちゅう幕張を訪れてる気がするわね。」

 澄香の言葉に、博文は姿勢も変えずに答える。

「……確かにな。この場所の空気がいよいよ張り詰めて来た。近頃は一層そんな風に感じられるからな……。」

「幕張も時代の移ろいと共に変遷して行っているのか……。いや、在るべき所へ還ろうとしているだけなのかもね。此処が時代に同調してるだなんて、到底思えないから……。」

そんな会話をしていた2人の眼前。1台の車が周回コースの方へ向かって、メッセ大通を通り過ぎて行った。純白のボディにフルエアロで武装したその車を見て、博文は厳しい目付きで睨み付けるようにして、そして澄香は穏やかながらもシニカルさを含んだ表情で今の車が過ぎ去った方向を見詰めていた。

「……時の流れに取り残されたこの場所に吹く一陣の風は、希望を(もたら)す西風なのか……。はてさて。」

「……こんな荒涼とした所に吹き荒れる風が、安息を運んで来る事なんてあり得ないだろう。だが……そんな厳しい風も、此処に集う連中にとっては希望を齎すものとなるのかもしれんな……。騒乱と狂気の果てに見え隠れする一縷(いちる)の希望の為に、時代の遺物に棲み付き混沌を闘い抜いて行く……。……そうだな……お前の言う通り、この場所は在るべき場所へ還ろうとしているのかもな……。」

「新造された都市は見た目には近代的なのに、その本質は何処か殺伐とした風景と(かび)臭いアスファルトが広がるばかり……。考えてみれば可笑しな場所ね。でも……だからこそ希望に縋れる場所って事か……。」

 

 

 逸脱した時の中を進むこの場所に起ころうとしている大きなうねり。それは彼らを動乱へと導くものとなるのかもしれない。それでもこの場所で彼らは生き抜こうとするのだろうか? それならば荒波に翻弄され、自分を磨き上げて行くしかない。まだ見ぬ明日に何が待ち受けているのかを知る為に――。