― 13.意志Wille ―

 

 

 景色が歪む非現実(さなが)らのスピードの領域。それに強く魅せられてしまった走る者達――。全てを葬り去らんとするが如し狂気の世界に伴う妖艶な魅力。一度惹かれた彼らは、もはやスピードの誘惑を振り払う事は出来ない。例えそれが、どんなに危険な世界であるかを承知していたとしても……。

 だが、此処は誰にも強いられる事のない世界。走る理由は、自分の中にしか持ち合わせていない。彼らはただ魅入られているから走るわけではない。自らの中に鞏固(きょうこ)な想いを持つからこそ、人は走る。そう、それこそがこの場所を走る意志。永遠の回廊の果てを見たいと願う、揺らぐ事なき力――。

 

 

 

 

 周回コースから1本入った所にある公園中通。そこにはインプレッサワゴンと共に、敏行と美由の姿があった。まだ美由のロードスターは仕上がっておらず、今日は敏行のインプレッサに乗せてもらう形でこの場所を訪れていた。そして、そんな彼らの話題は豊から伝え聞いた話に及んでいた。

「じゃあ、美由も尊が車乗り換えるって事は知らなかったんだ?」

 敏行の言葉に、美由は大きく首を振って答える。

「全ッ然。確かに最近は尊のシビック見掛けてないなぁ、とは思ってたけど、まさか乗り換えるつもりだったなんて、私もまるで気付かなかったもん。」

「そうなのか……。しかし、乗り換えたって事だけでも驚きだけど、それが33Rだっていうんだから、尚の事びっくりだよなぁ。豊の話じゃ、大分と苦戦したみたいだったしね。パワーはそれ程でもないけど、コーナーでの安定感が抜群なんだって。」

 彼らは2人とも、尊がGT-Rに乗り換えたという事を聞いて、驚きを禁じ得ない様子だった。

「……警戒ってのも変な言い方かもしれないけど、でも僕らも気を付けといた方が良いのかもしれないね……。特に美由は、すぐに一緒に走る時が来るんだろうしさ。その意味でも、今回パワーを上げといて良かったかもしれないよ。」

 そう言われた美由は、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。

「……尊がGT-Rかぁ……。車乗り換えるなんて、走り屋としては当たり前の事だけど、あんまり突然の事だったから、何だかちょっと信じられないって気もしちゃうな……。」

「……ここ何日か、攻め込む黒い33Rがよく見掛けられるらしい。豊との時も最後はバランス崩してスピンしたらしいし、扱いにはまだまだ不安が残るみたいだけど、それだけに今の尊は新たな車に慣れようと必死に走り込んでるんだろうな……。」

「尊……。」

 美由はそのまま俯いてしまった。

 

 

 

 

 15号線の東端にある、海へと向かう道。集う幾台かのチューンドカーの中には、黒いGT-Rも混じっていた。今夜も尊は走り込みに来ていた。高速域での扱い方を会得するべく、殆ど直線ばかりの15号線を走っていたが、高いスピードを維持して車を走らせる事は心身共に負担が掛かるものであるし、尊自身それ程体力がある方でもないので、長い時間走る事はなかなか難しい。走りたいという気持ちは(はや)るのだが、今はこうして休憩を取っているところであった。

 尊は息を吐くと、手にしたペットボトル入りのスポーツドリンクを口にした。

「……こんな調子で、本当に美由達と対峙する事が出来るんでしょうか……。車の性能は今の私には充分過ぎるほどのものであるが故に、自分の技術には余計に自信が持てない気がします……。こんなんじゃ駄目なんですが……。こないだ豊さんが言っていた通り、気の迷いは破滅を招いてしまうんですからね……。」

 そうやって暫く潮風に当たっていたが、ある程度体力が回復した事を感じ取ると、もう一度ドリンクを口にして、そして車に乗り込みイグニッションキーを回した。まだエンジンは暖まったままだったので、そのまますぐにGT-R15号線へと車を向かわせた。

 

 

 GT-Rが出て行ったその時、辺りにもう1台のイグニッションの音が響いた。――尊は気付いていなかったが、さっきまで車を停めていた場所よりもう少し向こうにも、別の車が停まっていた。純白のボディに強烈なフルエアロ――その出で立ちは、只者ではない事を見て取るに充分な様相だった。

 暫くはアイドリングをしたまま待機していたが、やがて車を発進させ、静かにしかし確実に速度を増しながら、先の尊と同じように15号線の方へと走り始めた。

 

 

 

 

「ねぇ、敏ちゃん……。」

 再び走り始めたインプレッサの助手席に座る美由は、呟くようにして運転席の敏行に語り掛けた。

「私は、尊に気付いてあげられなかったのかな……?」

「ん……? どういう事だよ?」

 運転中の敏行は当然ながら美由の方へ視線を遣る事は出来ないが、美由らしくない元気のない声を聞き、怪訝(けげん)そうにしながら美由の言葉に耳を傾ける。

「尊とは、ずっと一緒に走って来たんだ。私よりも先に免許取って走り出したのは尊の方だったから、私の走り屋としての想い出の中には、常に尊の姿が在るって言っても言い過ぎじゃないくらいなんだよ。だからなのかな……私にとって、尊が居る事はごくごく自然だった。居てくれるのが当たり前だと思うようになってたんだ……。」

 重々しげに語る美由が何を言わんとしているのかがまだ完全には掴み切れていない事もあり、敏行はゆっくりと言葉を選びながら答える。

「……別にその状況は今も変わらないじゃないか。尊は間違いなく美由の傍に居る。例え車を乗り換えたからといって、それで尊の存在が揺らぐわけじゃない。」

 (なだ)めるつもりで言った言葉だったが、それでも美由の口調は変わらない。

「それはそうなんだけどさ……。でも、尊が居る事は変わらなくても、その在り方は違って来てるような気がするんだ。同じ走りの人間の事は、どうしても走り抜きで考える事って難しいからさ……。いずれ、尊が私の前に立ちはだかって来る事もあるんだって思うと、何だか居た(たま)れないような気持ちになっちゃうんだ……。」

 言葉を紡いで行くに連れてますます口振りは弱々しくなって行った。だが敏行は、今度は今の美由の言葉に自らの考えを重ね合わせるかのようにして、半分独り言のような様子で言葉を返した。

「そうだな……。確かに、僕らはついつい走りを基準にして物事を考えてしまう時も多い。尊がGT-Rを手に入れたなんて事を聞けば、意識せずに居られないよね。でも……尊が大きな力を手にして美由の前に現れようとも、その事が憎く思えるってわけじゃないだろう?」

 敏行の最後の問い掛けがやけに染みた。尊が憎い――? そんな事などあり得ない。だが、自分の物言いは敏行に僅かであってもその可能性を感じさせてしまうものだったのであろうか。その事に軽い自責の念を感じながら、力一杯首を振りつつ敏行の問いに答える。

「勿論、憎いなんて事は全然ないよ。そうじゃなくて……寧ろ、その逆かな。……私は知らず知らずの内に、尊を狂気の世界へと引き摺り込んでしまったのかもしれない。尊だって凄い車が好きなのは分かるけど、あんな性格だから、闘争心を剥き出しにする事なんて先ずあり得ないし、尊は一歩退いた位置からこの世界を見れてるのかなって思ってた所があるんだ。だけど……この場所に集う人間が、そんなに冷静で居られるわけがないもんね……。尊の前を走り続けるという事が何を意味するのか、私はもっと早く気付くべきだったのかもね……。」

「……尊を公道暴走の世界に惹き付けてしまった事が、罪であると……?」

 敏行が美由の述べた言葉を要約すると、美由もそれに俯きながら頷く。

「うん……。せめて私が、その事をもう少しだけでも分かってればなって……。」

 その言葉からは悔恨の情が伝わって来る。走り屋とは、幾ら綺麗事を並べようとも、非合法で危険なものであるのは事実だ。それに無頓着なわけではない。寧ろ、此処に集う者達はその事をはっきりと認識している。だからこそ、他人を気軽に誘えるような世界ではない。取り分け美由はその事を強く意識している。それ故に、親友の尊がここまで走りにのめり込んでしまった事に、自分がそれを見過ごした、或いは後押ししてしまったのだと負い目を感じているのだろう。

そんな美由の言葉を聞いた敏行は、少しアクセルを緩めてスピードを落とし、そしてやや間を置いてから口を開いた。

「……じゃあさ。もし、美由が逆の立場だったら、どう思う?」

「え?」

 不意な質問に美由はやや驚いたようだったが、敏行は構わず続ける。

「物凄く速い奴が居て、そいつを追う内にいつの間にか走りの世界の深淵へ達してしまったとしよう。その時美由は、その相手の事を恨んだりするかな?」

「そ、それは……。」

 敏行の問い掛けは反語的であるが、美由自身もそれを肯定する事が出来ず、口篭もってしまう。対する敏行は、美由の反応を予想していた上で更に言葉を続ける。

「そんな事はないだろう。それどころか、その相手に対して憧れを持つ筈だ。いつか追い縋ってみせる……そう思わせてくれる相手の存在は、走る人間にとっては掛け替えのないものといっても良いんじゃないか?」

 今度の敏行の言葉にも、反駁したくなるような部分は見当たらない。それでも美由はまだ敏行の意見を完全に受け入れる事も出来ず、無理にでも反論してしまう。

「で、でも、尊は知らずに惹き込まれてたとしたら……。」

 しかし美由のたどたどしい反論は、敏行の迷いのない言葉で即座に打ち消される。

「惹き込まれたなら……それは尊に走る意志があったからだろう。走る意志があるから、僕らは走り続けているんじゃないかな。」

「走る……意志……?」

 敏行が二度繰り返した言葉を、美由も更に反復する。それを聞いた敏行は、静かに頷いた。

「僕は尊じゃないから、尊の本心が分かるわけじゃないけど、でも走る意志のない人間がこの場所を走り続けるわけはない。速い相手に惹き込まれるのも、それを追ってパワーのある車に乗り換えるのも、総ては走る意志があるからだと、僕は思ってるよ。」

 それなりに高い回転数を保っているEJ20のエキゾーストノートはかなり大きい筈なのに、いつしか美由の耳にそれは入っておらず、ただ敏行の言葉のみが静かに響いていた。そして、そんな言葉を語る敏行の目は、揺らぐ事のない確信に満ちているかのようだった。

 だが、すぐにその意識は現実へと引き戻される。その時、インプレッサは15号線を下っていたのだが、対向車線を一台の車が通り過ぎた。その車は漆黒のボディを纏っており、夜の闇の中ではかなり近くに来るまで車種を確認する事は難しかった。だが、擦れ違いざまに車種を確認すると、敏行は咄嗟にアクセルペダルを踏み付け、最寄りの交差点からUターンして先の車を追った。その理由は、助手席の美由にもすぐに分かった。

「尊……ッ!?」

 黒いBCNR33 GT-R。二人共、まだ尊のGT-Rを実際に見た事があるわけではないので、先の車が尊であるという確証はない。だが、もしそうであるとすれば、今の彼らには見過ごす事は出来なかった。GT-Rは完全に全開ではなかったようで、暫くすると再びGT-Rの姿を捉える事が出来た。

 しかし、GT-Rと邂逅しようとしていたインプレッサの後ろから、更に別の車が迫って来ていた。そのエキゾーストノートに気付き、敏行はバックミラーを確認する。今、GT-Rを追おうとしているインプレッサは、フルスロットルでエンジンパワーを搾り出していたが、それを嘲笑うかのように後方から迫るヘッドライトはぐんぐん近付いて来る。

「くッ……パワーが違う……ッ!」

 敏行は思わず口走った。殆どがストレートの15号線では、馬力の違いは決定的な差となり得る。敏行のインプレッサは、幕張の精鋭の中では比較的アンダーパワーな方であり、自身も15号線を訪れる機会は少ない。差はあっという間になくなる。

「こいつは……NSXかッ!?」

 ヘッドライトが眩しくてハッキリとはその姿を識別出来ないが、背の低いシルエットから恐らくはそうではないかと推察した。パワーは向こうの方が上である事は間違いないので、その気になればすぐに抜き去る事が出来る筈だが、そうはせず、アクセルを緩めて後方にピッタリと付けて来ていた。

「何だよ……。そっちの方が性能的に明らかに有利だっていうのを承知の上で、格下の僕らに仕掛けるつもりなのか? ……そこまで舐められちゃ、こっちだって退くわけには行かないよね……。弱い者苛めがしたいんなら、相手になってやるさッ!」

 苦笑いを交えながらアクセルを踏み付ける。GT-Rも全開走行に入ったようだった。GT-Rの加速はインプレッサと比べても遜色ない。必死に逃げる二台を他所に、白いNSXは余力を残した状態で、ゆっくりと狙いを定めていた。

 やがて、15号線の西側の終端が近付いて来る。海浜幕張公園の交差点から向こうは、かつてゼロヨンが行われていた為に、現在ではガードレールで仕切られカーブが作られている上に減速帯も敷かれている。よって、海浜幕張公園の交差点でUターンして再び15号線を港の方へ向かって下るか、周回コースへと入るかしなければならない。先頭を行く黒いGT-Rは交差点をUターンして暫く行くと、左にウインカーを出した。周回コースへと向かうつもりのようである。

「周回コース入りか……。これなら15号線よりはまだ何とかなるかな。尊も流石に15号線じゃ苦しいと踏んだか……。」

「まだ尊だと決まったわけじゃないけどね。でも……多分間違いないと思うよ。あの走り方は、きっと尊だよ……。」

「そうか……。なら、何としてでも食い付いて行かないとな……ッ!」

 後方に付けているNSXが何を考えているのかは分からない。それだけに余計に恐ろしくもあるが、それでも敏行は戦線を離脱するなどという考えは全くなかった。

「美由……よく見ておきなよ……。美由の速さに惹き付けられた者達の、走る意志をッ!」

 そう言うと、底まで踏み付けている右足に更に力を込めた。急速に流れ出す窓の外の景色と、そして胸に響く敏行の“走る意志”という言葉。尊にも走る意志がある? 私にも引けを取らないほどに――? 今、尊に直接それを訊く事は出来ない。だが、これから尊の走りを見る事によって、きっと答えを聞く事が出来る。美由はふとそんな風に思った。

 

 

「こんなNSX、私も見た事ないですけど、とんでもないパワーを誇るみたいですね……。」

 見浜園の交差点を立ち上がり、尊はフルスロットルで逃げているが、後方のNSXはきっちり付いて来ているようだった。やがてひび野2の交差点を過ぎると、超高速S字コーナーが現れる。尊はやや早めに減速に入る。ラインもアウト寄りだったので、イン側には割り込むスペースが出来ていたが、後ろに続くインプレッサもそしてNSXもそこから差して来る様子はない。但し、タイヤを鳴らしながら食い付いてくるインプレッサが必死さを露呈しているのに対して、その後ろを行くNSXは落ち着いた様子でいとも簡単に付いて来ているようである。その事が、NSXの速さを更に痛感させる事となる。

「あれだけの余裕があるなら、抜き所なんて幾らでもある筈なのに……。どう見たって私なんかより、いえ、敏さんよりも高度な速さを持っているにも拘らず、どうして私達の後ろを走るんですか……? その力の強大さは、後ろからでも嫌というほど伝わって来ます。……とはいえ、それでも今の私には退く事は出来ないんですが……。」

 NSXのパフォーマンスは凄まじい。GT-Rの戦闘力は高いとはいえ、絶対的なパワーもNSXの方が優位なようである。敏行のインプレッサが間に入っている為に、ハッキリとNSXの走りを窺えるわけではないが、走り屋としての自らの感覚が、力の大きさを感じ取っている。

「……確かにこのNSXは凄く速そうですけど、私はこんな所で(つまづ)いては居られないんです。底知れぬ速さを持つ、美由を追うとしているんですから……。」

 周回コース北東の交差点を抜け、ハイテク通へと差し掛かる。先の公園大通とこのハイテク通の超高速S字コーナーでは、以前に豊と走った時には差を詰めるポイントであった。今はその時とは状況が違うが、例え自分の思い込みでも得意と感じているセクションならば勝負所とするに足る。神経を集中させて最も効率的なラインを見極め、そこへ車体を投じるべくハンドルを切る。

「……今のは良かった筈……なんですけどね……。」

 此処は体勢を崩す事もなく、スムーズにクリアする事が出来た。だが、差は開かない。寧ろ、NSXのエキゾーストノートは先よりも大きく聞こえている。どうやら、敏行のインプレッサを抜いたようである。真後ろに付かれて、尊は更に威圧感を感じ取る。

「……敏さんを抜いて、且つ私との差も一気に詰めて来ましたか……。これは……相当ですね……。こうなって来ると、私に残されたチャンスは殆どないって考えるのが現実的なんでしょうけど……。でも……それでも、やっぱり退くわけには行きません……。」

 自分でも不思議になるほどの冷静な分析。そして、同時に沸き立つ負けたくないという想い。この車を手にして、尊は負ける事が許されないように感じていた。それはGT-Rという車が最速と謳われるからなのか、それとも――。

「……やっぱり私は、走り屋なんですね……。」

 尊は静かに呟くと、スピードに歪む眼前の景色を見据えた。

 

 

 最後尾となってしまった敏行はやや焦りながら、前方の2台を追っていた。今は駅前ストレートを走っているので、差は殆ど変わらずに食らい付く事が出来ている。それでも敏行は焦りを感じていた。何故なら駅前ストレートに差し掛かる前のテクノガーデンの交差点で、前を行く2台との距離が開いてしまったからだ。このままのペースで行けば、幕張海浜公園の交差点から先はどんどん差を広げられるばかりという事になる。そんな状況に苦渋しながら、敏行は悔しそうに言った。

「……もしかしたら、あのNSXのターゲットは始めから尊だけだったんじゃないか? たまたまそこに居合わせた僕の速さもついでに試してみたけど、取るに足りなかったから見切りを付けて抜いた……。さっきの抜き方は、そんな感じがした……。」

 そして、美由もそれに同意する。

「うん……。ハッキリ言って、私もそう思う。今もまだまだ余力を残して走ってるみたいだけど、私達の後ろを走っていた時に比べると動きが鋭くなってる。あのNSXのドライバーは尊に照準を定めてるよ。そうさせるだけの速さを見せてる尊にも驚きだけどね。だから……敏ちゃんの技術がどうこうっていう以前に、車の性能からしてあの二台には敵わないよ……。」

「性能的に敵わない、か……。以前の僕ならどんなに技術があっても無理なんだからしょうがないと思っただろうけど、今じゃそれが尚の事悔しいな。同じ土俵にすら上がらせてもらえないって事だもんな。」

 駅前ストレートが終わり、幕張海浜公園の交差点が迫る。敏行も必死に攻めては行ったが、やはりコーナーを抜ける頃には前との差は開いていた。敏行は思わず苦笑いを浮かべる。

「こういう瞬間なんだな。パワー不足を痛感する時ってのは。美由や尊がそうであったように……。まぁ、僕の場合はパワーだけじゃないんだろうけどね。」

 その言葉を聞いた美由の表情が曇った。

「……やっぱり敏ちゃんもそう感じちゃうか……。」

 心の底では、敏行もそう思っているのであろう事は分かっていた。それでも、実際に敏行がその想いを言い表すのを聞くと、複雑な想いが込み上げて来る。確かに以前ほどは敏行のそういった発言が嫌に感じる事はなくなった。とはいえ、尊に対して思った事は、また敏行に対しても思っている事でもある。走りにのめり込む事のネガティブな部分を、美由はよく知っている。いつしかそんな部分ばかりを見てしまうようになっている自分に苛立つ事もある。それでも、同じ思いを尊や、そして敏行に味わって欲しいとは思わない。敏行が走りに対して前向きな発言をする事を嫌がった理由も、そこに在るのだから。

 しかし当の敏行の様子は美由とは対照的である。力強く喋るその様からは、消極的な想いなどは微塵も感じられない。

「当然じゃないか……。……それが在ると分かってるつもりでも、ついつい自分の在る領域の中だけで世界を測ってしまいがちだけど、目の前でまざまざと見せ付けられちゃ、否が応でも認めざるを得ないよ。自分が達した事のない領域の存在をさ。そしてそこに達する為には、絶対的な性能を持つマシンがなけりゃ話にならないんだからね……。」

 そう、その通りなのだ。敏行の言葉は何一つ間違ってはいない。だからこそ、美由には辛いのである。

「だけど、その為に強いられる犠牲は計り知れない……。より大きな力を得るという事は、同時に自分を更なる危険へと(さら)す事になる……。それは、敏ちゃんだって分かってるでしょ? だったら……。」

そこまで言って一瞬口篭もる美由。敏行にも深みを知って欲しくはなかった。だが、最近思うようになって来ている。敏行も自分と同じ、もう後には引き返せない人間となってしまっているのではないかと。そして、何処かでそれを望んでいる自分が居る事も。でも、尊は――。すぐに思い直して言葉を続ける。

「……ううん、でも、少なくとも尊はまだ私達(・・)よりは手前の場所に居た筈だよ。尊なら……今までの尊ならまだ戻る事の出来る場所に居た。それを……ッ!」

 いつしか泣きそうになりながら声を荒げている美由。だが、敏行は美由の言葉を聞いて、穏やかな表情を浮かべながら答えた。

「そうか……。美由は優しいんだな……。」

「……え?」

 予想だにしなかった敏行の言葉に驚く美由。

「美由は高い次元に居る分、それに伴う危険性もよく分かっているから、そんな危険な領域へ他の人が足を踏み入れようとしているのを、黙って見ている事なんて出来ないんだな……。知らなくて良い世界……此処もそういう場所なんだし……。」

 美由は返す言葉が見付からず、俯き加減にただ敏行の方を見ていた。確かに敏行の言う通りではあったが、自分ではそれが優しさであるなどとは思った事もなかった故に、そんな風に言われるとは思いも寄らなかった。対する敏行は、その先を強い想いを込めたような表情で続けた。

「だけど、そんなに思い詰める事はない。さっきも言ったように、皆それぞれが走る意志を持ってこの場所を走っている。自ら望んで、スピードを追い求めているんだ。そしてそんな人間にとっては、速い相手と出遭える事は何物にも勝る歓びとなる。……そう、速い奴に惹き込まれる事は、当人にとっては嫌なわけがなく、寧ろこの上なく嬉しい事なんだ。」

 そして更に力強い口調でこう言った。

「だからさ、美由は胸を張っていてくれよ。最果ての地を見る事の許された、一握りの(えら)ばれし者である事を。そうじゃないと、追い掛けてる僕達は余りにも報われないじゃないか……。」

「敏ちゃん……。」

 美由の想いを否定するわけでもなく、そんなに自責の念に駆られる事もないのだと言ってくれているような敏行の言葉。それを聞いた美由はいよいよ泣きそうになりながらも必死に涙を堪え、外方(そっぽ)を向いて密かに目元を拭った。敏行の言葉は、自分の想いを肯定してくれている。それは嬉しい。だが、自らが抱いて来た想いからすれば、素直にその言葉を喜ぶ事も出来なかった。敏行の言葉に浸っていたいのに、居た堪れなさも感じてしまう。美由の気持ちはますます錯落(さくらく)した。

 そんな美由の様子を知ってか知らずか、敏行は前方をしっかりと見据えたままで言葉を続けた。

「僕だって、速さにおいてはまだまだ未熟だ。今だって、こうして前の二台から引き離されてしまってるんだからね。だけど、僕にだって走る意志はある。その強さは、他の誰にだって引けを取らない筈だ……。」

 コーナーを抜ける度に前を行くテールランプが遠ざかって行く。それでも敏行はアクセルを緩めなかった。

 

 

 幕張海浜公園の交差点を抜けた後の、短くも幅広であり充分にパッシングポイントとなり得る海浜大通でも、尊も無理なブロックを仕掛ける事はなかったにも拘らず、後ろに付けたNSXは抜きを掛けて来る事はなかった。最初に追い上げて来た時のスピードを考えれば、NSXは此方よりも遥かにハイパワーなマシンである事は間違いない。それでも此処までただ黙々とGT-Rの後ろを走り続けている。

「向こうはどういうつもりなんでしょうか……。逃げ切れているのなら嬉しいですけど……。」

 訝しがりながらバックミラーでNSXの様子を(うかが)う。高いスピードを維持して走っている筈なのに、NSXが走る様はまるで日常的な速度でゆっくりと流しているかのような、余裕のあるものに見受けられた。もはやその様から感じるのは恐怖だ。それから逃れたいという想いが、尊に決断を迫る。

「そっちが仕掛けて来ないなら、私だって勝負に出ますよ……。」

 恐らく此方が限界まで攻めたとしても、引き離せる事はないだろう。それを承知の上で、NSXを突き放そうと決意をする尊。走り込んで行く内にその感覚は研ぎ澄まされて来ている筈である。そう思いながら。

 見浜園の交差点から暫く行った所で待ち構えるのが、公園大通の超高速S字コーナー。勝負所の1つである。尊は覚悟を決めると、内奥から湧き上がる恐怖心を押さえ込んで、車体をコーナーへと飛び込ませて行く。極めてRの大きいコーナーなので、スピードは高いままである。一瞬操作を間違えば大きく減速する事を余儀なくされる。

「行きます……ッ!」

 息を殺して車を曲げる操作に入る。道幅も広くないので、アウトに差し掛かる時もインに差し掛かる時も、物凄い勢いで壁が迫って来る。それでも尊は車体の位置を見極め、GT-Rをコントロールして行く。1つ目のコーナーのインから2つ目のコーナーのインを見据えて更にハンドルを切る。アテーサET-Sが稼動し、持ち前の安定感を見せる。そして尊のGT-Rは、ハイスピードを保ったままで公園大通の超高速S字をクリアして行った。

「……これなら……ッ!」

 会心のコーナリングに、もしかしたら僅かでも差を広げられたかもしれないという、淡い期待を抱く尊。しかしその期待はすぐに絶望に取って代わられる。バックミラーでNSXの姿を確認しようとしたが、ヘッドライトの光はミラーに反射してはいない。その姿はGT-Rの横に現れ、そして尊の眼前へと出て行った。

「そんな……ッ! 幾ら何でも……ッ!」

 尊は理想的なライン取りが出来ていたので、NSXは変則的なラインからGT-Rを抜いて行った事になる。まるで、どのタイミングで何処から抜かれたのか全く分らないほど、美しいまでに見事なオーバーテイクだった。

「私が最も優れたコーナリングをするのを見計らって抜きに出たって事なんですか……? 確かに、今の私にはあれ以上のパフォーマンスは見せられそうにないですし、それを抑えて前に出られたんじゃ、私にはもう太刀打ちする術はありませんが……。」

 NSXはそれから幾らも行かない内にハザードを出して減速し、周回コース北東の交差点を真っ直ぐ行ってコースから外れると、そこでNSXは脇へ寄って車を停めた。尊もそれに合わせてNSXの後ろに車を停める。純白のボディにフルエアロを纏ったNSXから降り立ったのは女――物憂げに悲しさを湛えるような、それでいて余り感情を感じられない、そんな様子の女だった。尊を前にしても、暫くはNSXの女は黙ったままだったが、尊が対応に困った頃になって、ボソリと呟くように口を開いた。

「貴方は……。」

「え?」

「貴方は、諸刃の剣を振り(かざ)して、何を望むというの……?」

「諸刃の……剣……?」

 呆気に取られている尊を他所に、女は抑揚のない声で言葉を続ける。

「諸刃の剣が生み出すは破壊。他者を滅ぼすか、自らを滅ぼすか、行き着く先には破滅しか待ち受けていない。スピードに追われた者が付け焼刃にするには、余りにも危う過ぎる代物……。」

「…………ッ!」

「急く心は決断を逸る。彼方へ達さんとして、その身に合わぬ力を欲する。でも、己の力量を(わきま)えて戦わぬを択ぶ事も、恥ではないという事を努々(ゆめゆめ)忘れないで……。」

 尊にはその言葉を否定する事は出来なかった。しかし同時に、それに納得する事も出来ない。

「……確かにそうかもしれませんが……。でも、速さに魅せられた人間にとっては、それは避けられない選択の時もあるんです。それは走り屋である貴方にも分かって頂けるんじゃないでしょうか……? それに貴方だって、私のGT-Rを凌ぐほどのマシンに乗ってるじゃないですか……。」

 しかしNSXの女は、相変わらず無表情のままで答える。

「私は……伝説を追う事でしか生きられなくなった人間だから……。」

「え……、伝説……?」

 気になって尊は訊き返したが、NSXの女がそれに答える事はなかった。やがて、少し遅れて敏行のインプレッサが尊達の許へやって来た。NSXの女は車から降り立った敏行と美由を一瞥すると、横を向いて少し俯き加減にして再び口を開いた。

「……在りもしない幻想を求め、私は走り続ける。全てを失っても尚、私は走るのを止める事が出来なかった……。此処は、同じ想いを持つ者達の集う地。だから、私は走る……。」

 そこまで言うと、女はゆっくりとNSXに乗り込み、そのまま走り去って行ってしまった。

残された三人は暫く呆然としていたが、やがて尊がふと我に帰ったように言った。

「あ……敏さん達……。凄かったですね。あの人……。」

 すると敏行と美由も同じようにして言葉を返す。

「ああ、そうだな……。しかし、尊も凄かったと思うよ? 僕を抜いて尊のGT-Rを追い始めてからは、あのNSXも明らかにペースを上げてたからね。」

「そうそう。尊、凄かったよ。敏ちゃん、抜かれてからは全然付いて行けてなかったんだから。でも、本当にGT-Rだったんだね。まさかこんな車に乗り換えるなんて、私もびっくりだよ。」

「御免ね。美由。何の相談もなしに乗り換えちゃって……。」

 自分の車の事であるのに、仲間内に相談せずに乗り換えを決断した事に、尊は引け目を感じているらしい。一方の美由は尊の乗り換えを批判するわけもなく、尊が謝るのを不思議そうにしながら答える。

「何で謝るのさ? 尊の車なんだもん。何の問題もないじゃん?」

 それを聞いた尊は、少しホッとしたような表情を浮かべた。

「そうなのかな? そう言ってもらえると、安心するよ。美由は今は水看さんの所に車預けてあるんだっけ? それなら、仕上がったら一緒に走ろうね。この車なら、私でも美由の相手になれると思うよ。それから敏さんも、お願いしますね。」

 そう言われた敏行は、穏やかながらも真面目な口調で言葉を返した。

「ああ、そうだな。まぁ、こうなったら僕のインプレッサも馬力だけでも上げとかないと、ちょっと戦えそうにないけどね。美由が終わったら、僕も水看さんに頼んでおくとするよ。」

「そうだね。さっきのNSXも居る事だし……。」

 美由の言葉に、再び先程までの緊張感が僅かだが蘇った。

「……あのNSX、尊の知り合いとか?」

「ううん。全然知らないよ。噂すら聞いた事のない車だよ。」

「尊も噂を知らないとなると、あのNSXは幕張に来たばかりって事になるね……。」

 走り屋の事情に詳しい尊が知らないとなれば、恐らくそういう事になる。とんでもない新顔が現れたものだと思いながら、美由は呟いた。そして尊も、ついさっきまで繰り広げていたバトルを思い返しながら口を開く。

「でも、速さはかなりのものだよ。パワーも去る事ながら、ドライバーの技術がずば抜けてたよ。私が今日の中で一番良いと思ったコーナリングで、あっさりオーバーテイクされちゃったんだから。」

「そうなんだ……。……あの人、また来るかな?」

 すると敏行が真剣な面持ちで言った。

「恐らく、来るだろ……。『同じ想いを持つ者達の集う地だから走る』って言ってたんだしな……。」

「『同じ想い』……ですか……。」

 彼女が再び此処を訪れるならば、いつかあのNSXと戦う日が来るであろう。三人それぞれがその事を確信していた。NSXが走り去って行った方角を見詰めて佇みながら――。