― 14.昔日〜die alten Tage〜 ―
人は想い出を積み重ねて生きて行く。数多の出来事を経験しながらも、想い出と称する事が出来る鮮明な記憶というものの数は、その中では取るに足りないものかも知れない。しかし、その想い出は現在を生きる己に対して、多大なる影響力を及ぼす。良い想い出ばかりではない。想い出される度に悔やむような、苦い想い出もある。そしてそれは、往々にして柵となって纏わり付く。振り払えない過去。戻る事の出来ないあの時。
ある者は、儚き想いを成就させられなかった事を。
ある者は、刹那の幻影を追えなかった事を。
そしてある者は、盟友との約束を違えてしまった事を悔やむ。
その者達はいつか気付くのだろうか。その柵が、新たな柵を生む事を。そこから抜け出せなければ、昔日の連環から永久に逃れられない事を――。
公園中通の奥まった場所に、暗い碧のGTOと明るい緑のSA22C RX-7が停まっていた。そしてその傍らにはそれぞれの車の乗り手、陶冶と孝典の姿が在った。
「関口、聞いたか?」
「ん? 何の事や?」
孝典は自分の尋ね方から思い当たる節がなさそうな様子の陶冶を見て、静かに口を開いた。
「……知り合いから聞いた話なんだがな。最近、来るらしいんだよ。白いNSXがな……。」
その言葉に、陶冶の表情は一瞬で驚きに満たされる。
「……ッ! 白いNSXやて……ッ!?」
しかしそれは、やがて不敵な笑みに取って代わった。
「くっくっく……成る程な……。NSXなんてそんなポコポコ出て来るような車とちゃうよな。それに、お前がわざわざ俺にそれを言うっちゅう事は……つまりは、あいつなんやな?」
陶冶が敢えて代名詞を使い曰くありげに暗示した人物を、孝典も静かに頷いてそうだと認める。
「……俺も話を聞いただけで、まだこの目で確認したわけじゃないんだけどな。ただ、恐らくは間違いないんじゃないかと思うんだ……。」
神妙な面持ちで語る孝典。一方の陶冶は、相も変わらず不敵な笑みを浮かべたままだ。
「まだ生きとったんやな。もう戻って来る事はないんやと思うてたで。」
「何言ってるんだよ。お前こそが最も此処への回帰を信じてる人間じゃないか。」
比較的軽い調子で言った孝典の言葉だったが、陶冶はそれを聞くと笑みを消し、少し俯くようにしながら答えた。
「確かにな。……あいつかてこの場所へ還って来ても、全然不思議やあらへん。寧ろ、当然と言うべきか。」
そして今度は空を見上げる。何かに思いを馳せるようにして。孝典も遠くを見遣るようにして、呟くように口を開いた。
「移ろい行く時の流れは激しい。そんなに前の事でもないと思ってたのに、気付いてみればもう振り返っても見えないような場所まで来てしまった。それでも……何処まで走り続けたとしても、過去の呪縛から逃れる事は、そうそう出来ないのかもしれないな……。」
「俺はそれで一向に構わへんのやけどな。いっそ、あいつがこの地に眠る記憶を呼び覚ましてくれる事を期待したいくらいや。……ま、お前には悪いんやけどな。」
いつしか普段の表情に戻っている陶冶に釣られ、孝典は苦笑いを浮かべる。
「今更、文句は言わないさ。……俺もこれから暫くは穏やかには居られなくなるんだろうな。仕方ない。覚悟しておくか。」
漆黒の闇に包まれた新都心には、今夜もエキゾーストノートが響いている。
ガレージ木之下の許へ、敏行のインプレッサがやって来た。助手席には美由の姿もある。水看からの連絡を受けて、ロードスターを引き取りに来たのである。
「来たわね。いつも通り、裏に置いてあるわよ。」
そう言うと、水看は2人を工場の裏手にある駐車場へと案内する。その場に着くと、美由達の目には幾台かある車の内から、すぐに淡紅色のロードスターの姿が目に入った。それはボディカラーの色相の明るさの為ではなく、内奥に秘められた力を感じ取ったからなのであろう。
「不思議……。立ち姿がまるで別物の気がするよ……。」
美由が感嘆して呟く。そして、敏行もそれに同意する。
「ああ……。凄いな……。」
対する水看は、敢えて冷めた態度で美由達に答える。
「……パワーが上がったと知ってるから、そう思えるだけじゃない? まぁ、確かに数値的には結構上げたけどね。そうね……前よりも丁度プラス100psくらいかしらね……。」
「って事は……380psくらいですか!? 遂に僕のインプレッサに追い付いちゃいましたか……。」
「そういう事。もうあんたの方に残ってるアドバンテージって言ったら、4WDである事くらいかしらね。……で、その事が分かったあんたが、そのまま大人しくしてるわけはないんでしょうね。」
水看の言葉に、敏行は頷いた。
「ええ。お願いします。水看さん。僕のインプレッサにも、ロードスターに負けないくらいのスペックを与えて下さい。」
すると水看は、少しわざとらしく溜め息を吐いてから口を開いた。
「……全く。気安く頼んでくれるわね。ここんとこは立て続けに入って忙しかったし、暫く特別扱いは控えようかしらね?」
それに対して敏行は、真面目な表情で答える。
「それでも構いませんよ。今の僕は、それくらいパワーを欲してるんですから……。」
そんな敏行の様子を見て、水看は観念したというようにして手をひらひらさせた。
「冗談よ。今回もいつも通りで良いから。ただ、ちょっと日数は掛かるかもしれないわね。これ以上パワーを上げるとなると、流石にボディも補強してかないと無理だからね。徒でさえピラーレスで剛性ないのに加えて、後部がどんがらのワゴンボディだもの。本当ならとっくに補強すべきだったのよ?」
敏行には内装や快適装備などはそのまま残しておきたいという拘りがあり、今まではロールケージを組む事などを嫌っていた。しかし、この度は敏行にもその拘りを捨てる覚悟は充分にあるようだった。
「そうですよね。此処まで来て、今更内装の事なんて気にしていられませんもんね……。分かりました。お願いします。」
敏行は力強くそう言った。
その後暫くして、敏行が場を離れた事を見計らって、美由は水看に声を掛けた。
「ねぇ、水看さん。敏ちゃんの依頼、案外あっさり受けちゃったんですね。」
意外そうな様子の美由に対して、水看はさらりと訊き返した。
「ちょっとは渋ると思ってた?」
「だって、私が前にロードスターのパワーアップを頼みに来た時には、あんな事言ってたから……。」
そう言われて水看は、美由から視線を外してから口を開いた。
「……何だか私の方にも覚悟が出来て来ちゃったみたいなのよね。あんた達の覚悟に負けたのかもしれないわね。あんたと言い、さっきの敏と言い、不思議なくらいに瞳の奥に力強さが窺えるんだもの。こうなったら、私もあんた達の行く末を見守ってやろうじゃない。」
水看の言葉に、美由は目を細めた。
「有難う。水看さん。」
すると水看は手をひらひらさせながら答える。
「礼を言うのはまだ早いわよ。チューナーの私に礼を言うのは、仕上がった車の速さを実感してもらってからでないと。……そうね。取り敢えずは、尊辺りと勝負する事になるんじゃない?」
水看は尊がGT-Rに乗り換えた事を念頭に置いてそう言ったが、まだ尊のGT-Rが水看によって作られた事を知らない美由は、僅かだが驚いたような表情を見せた。
「……水看さん、勘が鋭いなぁ。もしかして、尊が33Rに乗り換えた事、もう知ってるんですか?」
「え? ああ、まあね。私の所みたいな店でも、それなりに噂は流れ込んでくるものだからね。」
尊に明確に口封じをされているわけではないが、尊は水看にGT-Rを依頼した事を余り他人には話したくなさそうな様子だったので、この場は誤魔化しておく事にした。
「そんな事より、あんたもしっかり走り込んどきなさいよ。確かにあんたは天才だけど、周りのレベルだって上がって来るんだから。誰がとかいうわけじゃなく、幕張全体のレベルみたいなものがね。力の応報っていうのは、そういう事なんだから……。」
「分かってます。私自身も、走り込まないと落ち着いていられなさそうだし……。だけどこんな状況でも、何処かワクワクする気持ちもあるんですよね。前はただ行ける所まで行くしかないっていう想いだけで走ってたけど、最近は少しだけかもしれないけど、そういう風に思えるようになって来たんですよ。」
「……それが善い事か悪い事か分からなくても……?」
水看の言葉に、美由は少し離れた場所に居る敏行の方を向きながら答えた。
「そうですね……。それはきっと、走り続けて行く事で答えを見つけられると思うんです。敏ちゃんが……走り続ける事で、その理由を見出そうとするのと同じように……。」
すると水看は、少し呆れたようにして溜め息を吐いた。
「全く。何だ彼だ言って、あんたの方が敏に感化されてるじゃない……。」
対する美由は、照れ臭そうに笑った。
「いやぁ、走りじゃ負けないんですけどね。……でも、今でも私は敏ちゃんに教えられた事って、結構色々あるような気がしますもん。敏ちゃんが私の走りの師匠みたいなものだっていうのは、今も同じなのかも……。」
「……敏を惹き付ける速さを持つ美由も、そのルーツを辿れば敏にこの世界に導かれたってんだし、しかも敏が走りの深みを知る事を嫌がる美由自身は、原点である敏をこれっぽっちも恨んでなんかいないだなんて、皮肉なものよね……。」
美由の視線の向こうに在る敏行は、工員と楽しそうに笑っていた。
ガレージ木之下を去った後、敏行と美由は深夜までの時間をファミリーレストランで夕食を取りながら時間を潰し、そして国道の車どおりも大分少なくなった頃になって、美由は敏行を助手席に乗せて、幕張の地へと向った。
その道中、敏行がふと美由に尋ねた。
「今の段階での新生ロードスターの乗り味は、如何なもんだ?」
訊かれた美由は、少し悩むようにして答えた。
「うーん、まだ何とも。やっぱり本質は回してみないとわかんないよね。街乗りする分には、寧ろ乗り難くなってる部分もあるだろうしね。」
そこまで言ってから一呼吸を置き、そして言葉を続ける。
「……でも、踏む前から可能性は存分に感じさせてくれる車になってるよ。」
力強く言う美由の表情には、僅かながら嬉しさも垣間見られた。
「そうか……。」
それを見た敏行は、窓の外を見ながら複雑な面持ちを浮かべた。
やがて国際大通を南下して行くと、テクノガーデンの交差点が近付いて来る。誰が言い出したわけでもないが、あの交差点を越えた先に広がるのは紛れもない異世界である。物理的に何らかの区切りがあるわけではない。それにも拘らず、この時間にチューンドカーに乗り込んでこの場所を訪れる者にとっては、此処が現実世界との境界なのである。
美由はその空間に突入するとすぐにアクセルを踏み込む。高鳴るロータリーサウンドは、以前よりも甲高くなったように聞こえる。そして何よりその加速である。一口に380psと云っても、小柄なロードスターにとっては暴力的とも云えよう。タイヤは路面を捕らえてはいるが、それも辛うじてと云った感じである。
「良いね。やっぱこれくらいの加速はしてくれなきゃね……。」
それでも美由は意外に冷静だった。元来、パワー不足を感じたが故に今回のチューンを依頼したのだから、ある程度は予測していたのだろう。とはいえ、新たなパワーに不満はないようである。
ストレートでの加速を確かめたなら、次はコーナリングである。ストレートエンドとなる幕張海浜公園の交差点が近付く。パワーが上がっているので、同じ距離のストレートでも、乗るスピードは断然高い。それに伴って難易度も上がる。高度な技術を持つ美由にとっても、感じる恐怖感は確実に増大している。一旦息を吸い込み、そしてコーナリングへと入って行く。減速体勢に入ると、途端に車体は安定性をなくし、僅かでも横へのGが掛かった方向へと吹っ飛びそうになるが、美由はそれを押さえ付け、コーナリングフォースへと変えて行く。スキール音を響かせながらコーナーの出口へ向かい、再びアクセルを踏み込む。しかし、もはや足回りはパワーに負け気味の為、すぐには全開に出来ない。トラクションの回復を待ちながら、徐々にアクセルを開けて行くしかない。
「いやはや、おっかないコーナリングだな……。」
敏行が素直な感想を漏らす。美由はそれに対して苦笑いを浮かべたつもりだったが、緊張感が勝って表情には表れなかった。
「これくらいになっちゃうよ。攻めればね。もう足回りが限界だもん。水看さんの事だから、詰めたセッティングしてくれてるんだろうけどね。……いや、水看さんがセッティングしてくれたからこそ、何とか扱えているのかもね。私もこんなに曲がりが恐いと思ったのは初めてだよ。だけど、それに怯えて微温いコーナリングになって、ストレートでの速さを相殺するようじゃ、意味がないからね。多少の恐怖は払い除けなきゃ。」
走りながらという事もあるが、美由の目付きはすっかり険しくなっていた。敏行はその顔を見て息を呑む。最近は美由の背中が大分近付いて来たと思っていたが、新たな美由の走りを見せられて、再びそれが遠ざかるかのように感じた。自分も既に水看の所にインプレッサを入れてある。しかし、どれだけ高性能なマシンを得られようとも、自分はこの美由を追撃する事など出来るのだろうか――?
「…………いいや。」
しかし、敏行は自分の考えに首を振る。これまでも同じ不安が頭を過ぎった事は何度もあったが、それでも今まで――何とかというレベルであったかもしれないにしろ――追い縋り続けてきた。ならば、今回も直向きに追えば良い。それが不可能だなどと結論付ける理由はない。そう考えると、今度はやけに高揚感が湧いて来た。
「こういう危ういバランスの上に成り立ってるようなマシンの方が、美由にはお似合いかもな。」
言われた美由も満更でもない様子である。
「やっぱりそういうイメージが定着しちゃってるのかな? 確かにまだ大したチューンもせずに走ってたは好き好んで振り回してたところもあるけど、でもロータリーに積み換えた今となってはもう止むを得ずって感じなんだよ? 暴れる車を何とか押さえ付けてるだけの事で。馬力が上がって、速度域も上がって行けば、それだけ不安定な姿勢に陥らせる事のリスクは増えるわけだからね。私だって出来れば地味な走りしたいと思ってるんだよ。」
そうは言いつつも、その言葉を語る美由の表情には若干ながら心の弾みも伺える。ハイリスクハイリターンな暴れ馬を自らの支配下に置いて捩じ伏せるという事には、走り屋としての優越感が在る。自分はこれほどのマシンを扱えているんだという、自己の技術への陶酔に過ぎないとも云えるのだが、しかしそこには独特の快感が伴うのも事実だ。美由の表情からそんな感情を察したのか、敏行はやや修辞的ながら美由の述懐に疑問を差し挟む。
「本当かよ? それにしたって今のロードスターでも、もうちょっと走り様がある気もするんだけどな。ま、僕の固定観念なのかもしれないけど、やっぱ美由は豪快な走りの方が、らしいと思えるけどね。それで実際問題速いんだから、格好良いじゃないか。」
敏行は本心から美由の技術を賞賛したのだが、当の美由はそれを素直に喜ぶ事はしない。
「女の子に向かって格好良いって言っても、今一つ誉め言葉にならないよ。」
再び苦笑いを交えながら言う美由に対して、敏行は茶化すように訊き返す。
「じゃ、可愛いとでも言って欲しかったのか?」
「いや、今この状況下で言われても、唐突過ぎて微妙だけど……。」
先までは緊張感が先走っていた美由だったが、この度は笑いが表情にちゃんと出ている。敏行との会話で、少しは気分が和んだのだろう。それでも本来の目的――新たな力を得たロードスターの試走に来ている事は忘れない。再び強くアクセルを踏み込み、水看の手によってチューンナップされた13B‐REWに最大限のパワーを発揮させる。その姿は、敏行が褒め称えるのも容易に合点が行くほどに鋭く、美しい。走り屋ならば少なからず感銘を受けるものだった。
そして、他者の走りをまざまざと見せ付けられた走り屋は、それに感銘を受けるだけでは留まらない。自分の走りも引けを取らないのだと主張したくなる。自分の走りが敵うものなのか試してみたくなる。つまり――獲物を引き付ける事になるのだ。
「良いね。そういう掟破りなマシン、好きだぜ――。」
美由達の乗るロードスター以外にも幕張を走っている車は幾台か居る。その全てが完全な全開走行をしているわけではないので、走っている内にはそれらの車を追い抜く事もある。だが、今追い抜こうとしていた車は少し違った。白地のボディに桃色のラインが引かれ、メーカーのステッカーも数多く貼られている、外見も派手なその車は、ロードスターにただ抜かれるままでは居なかった。追い付かれるとすぐにアクセルを開け、横並びになって煽って来た。響く直4の音は、そつがなくとも鋭い。
「……思い切りやる気みたいだね。まぁ、良い試金石になるんじゃないか?」
並ぶS15シルビアを見て、敏行が重々しくも楽しそうに呟いた。美由はそれに対して一瞬だけ微笑み返したが、すぐに前方を睨み付けて臨戦体勢に入る。
「尊から聞いた覚えがある。この車、確かプロのレーサーの人が乗ってる筈だよ。実際に出遭うのは私も今回が初めてだけど……意外に気の早い人みたいだね。」
「走り屋なんてそんなもんだろう。レーサーだって話が本当なら、戦闘意欲だって並じゃないに違いない。心して掛かれよ。」
敏行の言葉に、美由は凛とした表情で答える。
「言われるまでもないよッ!」
現在は公園大通に差し掛かった所。パワーは相手の方が高いらしく、じりじりと離されて行っている。元より、幕張に集う者達の中でもかなりアンダーパワーな車で戦い続けて来た美由にとっては慣れた状況ではあるのだが、相手の技量も高そうであるので気は抜けない。実際、続く超高速S字コーナーをシルビアは軽快なステップで切り抜けて行く。
「流石だね……。でも、レーサーという肩書きに負けるのはご免だからね!」
美由も負けじと猛追する。左コーナーから右コーナーへと、車体の向きを的確に合わせて行く。立ち上がりではシルビアの脇に差し込めそうなところまで食らい付いていた。
「いきなり寄せるな……。少しは様子見て行きなよ。」
しかし美由はその窘めには応じない。
「敏ちゃん、駄目だよ。そんな悠長な事言ってちゃ。まださっきのがシルビアの本気だとは限らないじゃない。最初の油断が命取りになる場合だってあるんだよ。相手の力量は高く見積もって、常に本気で挑まなきゃね。」
敏行の場合,走り始めは八分くらいの力で相手の技量を推し量ろうとする傾向にあるが、美由の方は初めから全力の走りを持って迎撃する事が殆どである。
「成る程……。高速バトルの展開される幕張を、ロードスターという非力な車で走り抜いて来た美由らしい言葉かもね。馬力がないから負けても仕方ないなんて言い訳、この場所じゃ許されないんだし。勝ちは勝ちだもんな。」
美由の意見を認めているようで、最後は敏行の意見を多分に含んだ言葉になっている。普段ならばそこで美由が何らかの反応を見せるところであろうが、もうそこまでの余裕はないようである。それから暫くは、押し黙ったままで走りに集中して行った。
しかしこの時、美由は油断こそしていなかったが、同時に相手の速さの見積もりに失敗してもいた。
「小耳に挟んだ事はあったけど、まさか此処まで凄いとは思わなかったね……。」
S15シルビアを駆るのは、レーサーを生業とする工藤灯夜である。灯夜は先頭に立ちながらも、相手の走りに感嘆していた。淡紅色のロードスターは、今ではそれなりの知名度を誇る。灯夜自身もその噂は聞いていたが、見えるのは初めてである。
自分の技術には当然ながら相応の自信があるし、車の仕上がりもメーカーのバックアップを受けたそれは、シルビアの限界を存分に引き出している。ロードスターになどは太刀打ち出来ようもないと思っていた節はあった。だが、現実にロードスターは後方に付けて来ている。
「狂ってるよ……この場所は。どうして公道の走り屋が、プロの私に対して格下のマシンで付いて来られるのさ。……なんて、今更言いはしないが、それでもいざそんな奴に出遭うと、驚いちまうよな。自分は本当にプロなのかと疑わしく思ってしまうほどだ。そんなプライドを引き裂かれない為にも……やられるわけには行かないぜッ!」
過信はしない。でも自信はある。そうでなければ、速い相手と競い合おうなどとは思い立たないのだから。
テクノガーデンまではS字と直角のコーナーが続く構成という事もあり、ロードスターは完全に互角の走りを見せている。だが、その先に待ち受けるのは駅前ストレートである。パワーこそが物を言うセクション。灯夜はブーストコントローラーのダイヤルを回し、容赦なくアクセルペダルを踏み付ける。新装したばかりの大型タービンが加給を初め、ウエストゲートの音が派手に鳴り響く。その馬力はシルビアの車体を確実に高速域へと押し上げて行く。
「さぁて、何処まで食い付いて来れる? ロードスターとしては有り得ないほどのハイチューンが施されているんだろうが、コンポーネンツがロードスターである事は変えようがない。こっちだって中排気量の車に過ぎないが、少なくともそっちよりは高いパワーに耐え得る車だ。それを相手にして、本来馬力を出すのではなく、軽量さを売りとしているその車で、どれほどの力を見せてくれるんだ? 1km以上あるこのストレートで付く差は、無視出来るものじゃない。そんな事は百も承知の上で、今まで数々の善戦を繰り広げて来たんだろうが……果たして私ともそれが出来るかな? ……来な。」
軽快なテンポでシフトアップして行き、それと共にスピードメーターの針もぐんぐん上がって行く。シルビアは力の差を見せ付けながら、ロードスターとの差を広げて行く。ガード下を潜る頃にはかなり車間距離が開き始めていたが、ストレートはまだ続く。トップギアの6速に入ってからも、SR20は更なるパワーを紡ぎ出していた。
美由は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。美由の得意はコーナリングであり、それに限って云えばロードスターの性能は280psの時で充分であった。それでも更なるパワーを欲したのは、ストレートでも引き離されないようにする為である。プラス100psと云うのは決して些事ではない。どんなに鈍感な人間であってもはっきりと感じ取る事が出来るほどの、大幅なパワーアップである。その事を実感する為に、今夜この場所を訪れた筈だった。それなのに――。
「……あんまりな皮肉だな。パワーを上げた直後に出遭った相手に、いきなりストレートでの優位性を見せ付けられるなんて……。」
シルビアのテールランプは遠ざかって行く一方である。両車の間にどれほどの馬力の差があるのかは分からないが、ともかくこっちの方がパワー的に劣っている事は隠しようもない。早くストレートの終わりに達する事を願いながら、美由はアクセルを踏み続けた。
しかし美由の願いが叶った頃には、シルビアは既に海浜幕張公園の交差点を抜け切ろうとしていた。後続のロードスターの方がコーナーへの突入が遅れるだけ、減速に入るのも後になるので、そこで相対的に差は詰まる。だがそれは見せ掛けに過ぎない。シルビアがコーナーを立ち上がって加速体勢に入れば、差は再び元通り広がる。その事は頭では分かっているつもりなのだが、そこでまた差を広げられたかのように錯覚してしまう事もある。今日の美由は厳しい戦況も手伝って余り冷静さがない。故にその錯覚から焦燥感を引き起こしてしまう。
「くッ……!」
交差点への進入はかなりオーバースピード気味だった。それでも美由は無理矢理車体の向きを合わせ、強引に交差点を切り抜けた。その回避テクニックは美由らしいものだったが、一方で焦って突っ込み過ぎてしまうというのは余り美由らしくない。相変わらず苦渋の表情を浮かべている美由に対して、敏行が叫ぶ。
「落ち着け! 美由! 見浜園の交差点まで我慢すれば、後は美由の得意な超高速コーナーだ! 美由ならそこで差を取り戻せる! だから無駄に焦るなッ!」
分かっている。敏行に諭されるまでもなく、自分は今までそうやって戦って来たのだと理解している。それでも、美由は強気になれなかった。敏行とのバトルでパワー不足を痛感させられ、その不満を解消する為にパワーを上げ、意気揚々として走りに来たところで、まだパワーが足らない事を思い知らされた。流石の美由も落ち込んでいる様子であった。
だが、美由は走り続けた。今、敏行に叱咤激励され、走り屋としての意地が呼び覚まされたのか、或いは単に敏行の前で無様な姿を晒したくないと思っただけなのか。いずれにせよ、弱気な自分を必死に抑え込みながら、揺らめくシルビアのテールランプを追った。しかし、落胆の色は隠せず、そんな想いの吐露なのか、美由がふと敏行に問い尋ねた。
「……敏ちゃんは今回のロードスターのパワーアップの事、正直どう思ってた?」
訊かれた敏行は、それほど間を置かずに答える。
「どうって……そりゃ、ロードスターにこんだけのパワーを与えるなんて、凄いと思ったよ。」
しかしそれは美由が訊きたかった事とは違うらしい。
「そうじゃなくってさ……。もっと総合的な見地からの意見って云うか……。何て言えば良いのかな……ロードスターにとっては凄いパワーだとか云うんじゃなくて、380psのロードスターが実際に他の車と戦った時の戦闘力って、どんな感じだと思う?」
美由自身も上手く訊きたい内容が表現出来ないようだったが、今度は敏行は美由の考えを汲み取る事が出来たようだ。
「そうだな……。例えば僕のインプレッサと比較してみた場合、あらゆる意味でインプにとっての380psとロードスターにとっての380psは違うよね。ほぼ同じ馬力なんだから、車重も車格も下の分だけロードスターの方が凄いと思うのは本当だよ。ただね……。その分だけロードスターの方がキャパが低いわけでもある。さっき美由が言っていた通り、こうして走れている事自体が驚異的とも云えるんだろう。凄い事なんだけど、それは裏を返せば、380psというパワーは本来ロードスターに与えるべきではないものだという事も意味する。過剰なパワーはそのマシンの能力を貪るだけのものだ。総合的な速さを追い求める上では、効率の悪い事をしていると言わざるを得ないのかもしれないね……。」
美由に対して遠慮をして、上辺を取り繕った意見を言っても仕方がない。敏行は請われた通りに率直な感想を述べた。美由の方もそういった類の事を言われるのだろうとある程度予想していたようである。
「やっぱりそうだよね……。私も薄々感付き始めてはいたんだ。最初にロードスターを買った時は、此処までスピードを追い求める人間になるとは思ってなかったから仕方ないんだけど、今となってはもうちょっと排気量の大きい車を選んでおけば良かったなと思う事もあるよ……。」
着実に差を広げて行っているシルビアを見詰めながら、美由は言った。敏行が述べた通り、公園大通からハイテク通に掛けてのセクションではシルビアを確実に追う事が出来ている。だが、周回コースのもう半分を占める国際大通と海浜大通の直線勝負ではやはり分が悪い。珍しくもない車種である筈のシルビアが恨めしくさえ感じてしまう。
「……井の中の蛙、だったかな……。」
美由がふと呟いた。思えば美由は、バトルに対して余り積極的ではない事もあり、ハイパワーのマシンを駆る相手とのバトルの経験はそれ程ない。シルバーブレイドとは軽く流しただけであるし、幕張最速と謳われる破壊の関口とは走った事自体ない。最近現れた白いNSXと遭遇した時も、美由は敏行のインプレッサに同乗していただけであった。
美由が頭角を現し始めたのはとうの昔であり、仲間内の人間はその技術の高さを知っていた。しかしNB8Cロードスター本来のエンジンであるBP-ZEのままで走っていた頃は大した馬力もないので、パワー勝負の区間も多い幕張では流石に目立たない。13B‐REWに乗せ換えてから、ようやく幕張全体にもピンクのロードスターは速いという噂が広まり出したというのが実情である。それは灯夜の耳にも入り、そして今夜のバトルを生み出したというわけである。そうでなければ灯夜もロードスターを相手にしようなどとは思わなかっただろう。
一方の敏行は、美由の言葉を聞いて暫くは黙っていたが、やがて口を開いた。
「……美由の腕はこの幕張の中でもトップクラスのものだ。それは僕が保証するまでもない事だろう。後はロードスターで何処まで戦えるか……だよね。13B自体はその気になれば500ps出す事だって出来るエンジンなんだし。まぁ、そんな事した暁には、何処へ吹っ飛ぶか分からないようなマシンになってしまうだろうけど、それも一つの選択肢ではあるよね。」
先の言葉と合わせて考えてみれば、敏行の意見は暗に車の乗換えを薦めているようにも聞こえる。確かにそれが順当な考えだろう。そしてそれは今乗っているマシンへの迷いとなり、引いては走りへの迷いともなってしまう。もはや美由にバトルを続けるモチベーションはなかった。
「……悔しいけど、今夜は此処で引いておくよ。今日の私は、もうこれ以上は走り続けられそうにないから……。」
それからハザードを出して戦線を離脱する意思表示をし、アクセルを抜いて減速をする。前方を走っていたシルビアは、それが確認出来なかったのか、そのままの速度で走り去って行った。美由の方は車を路肩に寄せて停め、一先ず息を吐く。
「……ロードスターが嫌いになったか?」
シートに凭れ掛かってリラックスしていた美由の方を向き、敏行が穏やかに尋ねた。対する美由は笑みを浮かべながら答えた。
「そんな事はないよ。嫌いになったりなんかしない。けど……戦闘力の限界が見えて来ちゃった事に関して云えば、ちょっと寂しいかな。たった一回のバトルでこんな事感じさせられるとは、思ってなかったからね。」
そして再び笑い掛けるが、その様は弱々しい。初めは美由もそれなりの自信を持って臨んだバトルだったが、明白な性能差を見せられてからはそれも一気に喪失して行った。
「相手が悪かったんだよ。ありゃあ、普通に考え得るシルビアの範疇を超えてる。……とはいえ、この場所を走っていればいつかは遭遇するんだから、そんなのも言い訳に過ぎないか……。」
自分で言った意見に結論を出してしまっている敏行の言葉だが、その考え方も美由は敏行らしいと思った。そしてこの度はその考えに感心していた。
「……敏ちゃんはホントに前向きだよね……。いつも臨戦体勢を敷いて、どんなに速い相手との勝負も厭わない……。その積極性は、この地を走るのに最も必要な要素なのかもしれないね……。」
「……随分と買ってくれてるのは有難いけど、急にどうしたんだ?」
不思議そうに言う敏行の問い尋ねに美由が答えようとした時、後方から聞き覚えのある直4サウンドが響いて来た。その音は近付いて来るに従ってトーンダウンして行き、やがてロードスターの真後ろまで来た。眩いH.I.Dの光に浮かび上がったシルエットの車から降り立ったドライバーとは初対面ではあるが、その顔は敏行も美由も見覚えがあった。無論それは雑誌の記事などを通して知っているのであろう。工藤灯夜という名前までは覚えていなかったが。
「噂のロードスターの走り、篤と見せてもらったよ。」
灯夜が静かにそう言った。それは美由の技術を称えるものであるのだろうが、力及ばず追い切れなかった美由の側からすると、勝者の余裕の発言のように聞こえてしまうのは、卑屈過ぎるだろうか。
「……正直な所、どうだった? 私の走りは……。」
訊かれた灯夜は厭味のない含み笑いを浮かべながら、ゆっくりとその問いに答えた。
「ん……? ロードスターであんだけの走りが出来るなんて、感服だよ。ちょっとした奇蹟だろ。……それとも、訊きたい事はそうじゃないか? まぁ、私は職業柄どうしても良い性能のマシンを欲する傾向にはあるだろうな。例え定められたレギュレーションの中でも、各車毎に差は出るからな。定め事のない公道ならば、尚更だろう。今乗る車に拘るも良し、ひたすら模索するのもまた良し……だろう。」
その言葉を美由は俯きながら聞いていた。だが、敏行の方は美由よりも幾分か冷静な分、別の観点から灯夜の意見に物申す。
「……本当にプロレーサーなんだ……。」
そう、敏行も美由も灯夜の顔は雑誌で見かけた事がある気はしていたのだが、今目の前に居る人物がプロレーサーの工藤灯夜と同一人物であるという可能性は高くとも、完全な確証はなかった。だが、当の本人は「職業柄」だの「レギュレーション」だの、明らかに自分がそうである事を匂わせる発言を繰り返してしまっている。そしてそれに気付いた灯夜は、あからさまに慌てふためいた。
「……ッ! べ、別に誰もそんな事言ってねぇだろ? ウイングがドライカーボンだとか、見掛けだけで決め付けるなよ!」
「へぇ。ウイング、ドライカーボン使ってるんだ。流石だなぁ。ひょっとしてボンネットもカラードなだけで、やっぱりドライ?」
過剰に反応してしまった上に語るに落ちては、もはや自らの身分を言い表してしまった事と変わらない。灯夜は一頻り取り繕った後、またやってしまったという様子で頭を掻き毟りながら、感情を落ち着かせる。
「まぁ、バレちまっちゃしょうがないけどさ……。そうだよ。私が工藤灯夜だよ。……でも、あんま変な言い触らし方しないでくれよ。此処の連中なら大丈夫だとは思うが……。」
肩書きよりも先に自分の名前を明かす灯夜。放っておけば一切合財全て口を滑らせそうな様子には、敏行ならずとも危うさを感じずにはいられないだろう。
「寧ろ君本人の性格に、一抹の不安を感じるよ……。よくそれで世間で大騒ぎにされずに済んでるもんだな……。」
「五月蝿いな! いちいち細かい事突っ込んで来るんじゃないよッ! ……とにかくだな。お前じゃなくて、そっちのちっこいの。ええと……。」
ぞんざいな呼ばれ方に、元気のなかった美由も流石に反駁する。
「ち、ちっこいは余計だよ! 神崎美由ッ!」
「ああ、美由って云うのか。お前の悩みも分からなくはないよ。やっぱ高望みし出したら切りがないからな。私もスポンサーとかの関係でシルビアに乗ってるが、GT-Rクラスの車を相手にすると、絶対的なポテンシャルの差から物足りなさを感じる事も少なくない。後悔するような戦いをしたくないなら、高性能の車に乗る事だな。私に出来る進言は、それくらいだ。」
淡々と綴る灯夜の言葉は、しかし美由の迷いに対する灯夜なりの答えを明確に示唆している。
「ま、思うようにすれば良いさ。じゃあ乗り換えるかなんて、簡単に判断出来る事でもないし。それと……。」
そこで今度は表情をきつくして敏行の方へ向き直る。
「貴様も走り屋なんだろ? 車は何だ? 後、名前は?」
もはや貴様呼ばわりされている敏行は、やや圧倒されながら答える。
「え? 僕は青山敏行って言って、乗ってるのはインプレッサワゴンだけど……。」
「インプレッサワゴン……? そうか、貴様がインプワゴンの乗り手か……。青山敏行……その名前、覚えておくぜ。今日、散々突っ込んで恥掻かせてくれた恨みは忘れないぞ。走りでは負けないからな。覚えとけッ!」
それだけ言い放つと、灯夜は踵を返してつかつかと車に乗り込み、荒っぽくアクセルを吹かしてから車を発進させ、そのまま闇の彼方へと消えて行った。
「何なんだ、ありゃあ……。」
敏行はシルビアが走り去った方を見ながら呆然としていた。一方の美由は堪えきれないといった様子で吹き出した。
「いやぁ、敏ちゃんはホントにライバルには事欠かない人間だよね。こんな形で無駄に恨み買って、敵を作っちゃうなんてさ。」
「おいおい、勘弁してくれよ。向こうが一人で深々と墓穴掘ってただけじゃないか。僕は何もしてないぞ?」
そうは言いつつも、美由が少し元気を取り戻した事で、敏行もホッとしたようだった。
「……これから、どうするんだ?」
静かに問い掛ける敏行の言葉に、美由も穏やか様子で答える。
「バトルやってた時は随分と気が逸っちゃったけど、今は少し落ち着いたかな。水看さんに馬力上げてもらったのも昨日の今日なんだし、まだロードスターに見切りを付けるには早いよね。尤も、見切りを付け始めてる自分が居るのも確かなんだけど……。そうだね……遠からず尊のGT-Rと走る時が来るだろうから、その時にどれだけ戦えるかっていうのが、私の中での決め手になるかもね……。」
「尊のRも居るか……。全く、ちょっと思い出すだけでも状況は四面楚歌だな。」
敏行がそう言うと、美由が含みを持った笑いを浮かべながら言葉を返した。
「私も居るからね? 敏ちゃんのインプが返って来たら、真っ先にバトルし掛けてあげるから。」
言い方は冗談半分だが、過去を鑑みてみると、それが真となる確率はそう低くもなさそうである。
「お、美由にしちゃ意欲的だな。本当にそうなりそうだもんなぁ。今回は美由に対しては情報操作しておこうかな。ま、それでもそうなったら宜しく頼むよ。」
笑いながら敏行はそう言った。それは戦うべき相手が大勢居る事から来る、走り屋としての至福をも表しているのかもしれない。美由はそんな敏行を、少し羨ましいと思った。
それぞれの者達が自らの速さを競い合わせるべく訪れる地、幕張。一触即発の雰囲気の漂う殺伐とした場所なれど、そこに在る事に敏行は深い悦楽を感じている。戦いが繰り広げられる事に純朴な期待を抱いている。敏行もシルバーブレイドとの出遭いなど、走るという行為に向き合わされる出来事もあったが、楽しむという気持ちは決して忘れていないように見える。そんな敏行の一面に対しても、美由は憧れを持っているようだった。その想いを空を見上げながら、一人密やかに呟いた。
「……やっぱり敏ちゃんは私のお師匠様だね……。敏ちゃんがこの地に帰って来てくれてなければ、私は疾うに走り続ける事が出来なくなっていたかもしれない……。私自身にとってみれば、敏ちゃんが居てくれて良かったんだよね……。」
その声は敏行にははっきり聞き取る事は出来ず、何を言ったのか訊き返したが、美由は独り言だとしか答えなかった。面と向かって言うのは恥ずかしいが、なかなか言える事でもないので、どうせならきちんと伝わっていて欲しかった気がするとも思いながら。
過去の想いを胸に走る者達も居る。だがそれも、他の者達にとってはお伽噺でしかない。現代を生きる者達の物語は、まだ始まったばかりなのだ。その先に何が待ち受けているのか――。知りたいのならば、走り続ければ良い。それも、誰よりも速く。物語を築き上げて行くのは、他ならぬ自分自身でしかないのだから――。