― 15.随感wie man will ―

 

 

 的確な判断は命運を分ける。目の前で起きている事態に対してどう対処すべきか? そこには様々な要素が絡む。何が最善か。何をしてはいけないのか。一瞬の内に幾つもの演算を繰り返さねばならない。しかし、人は機械のように冷徹な判断が出来ない。感情という、人間特有の要素が加わる。それを完全に排除する事は、実質的には不可能だろう。そう、人がいかに冷静な判断を下そうとしても、常に迷いは付き纏う。今選ぼうとしている道は、本当に自分をより良い方向へと導いてくれるのだろうか?

 ――しかしいつまでも考え込んで居られるわけではない。決断の時は迫る。ならば、自らが選び出したその道へと踏み出せば良い。どの道を選んだとしても葛藤に陥らざるを得ないのだとすれば、せめて今この刹那に後悔する事がないように、感ずるがままに動け。そうすればその先に築き上げられる未来を、きっと悔やむ事はない――。

 

 

 

 

 夜の(とばり)に包まれた幕張。走り屋達が集うその次元で、今夜も新たなバトルが繰り広げられる。美由と尊のそれぞれが新たなる力を引っ提げて、この場所で邂逅を果たす事となっていた。

 待ち合わせの場所としていた公園中通に、約束の時間よりも少し早めに訪れたのは尊であった。しかしそこには豊と孝典が先客として居た。今夜の二人のバトルを見物しようというわけである。

「お早いですね。お二人とも。」

「まぁな。どのみち、普通に走りに来るにしてもこのくらいの時間には此処へ来てる。ついでみたいなもんだ。」

 言葉を交わす二人を他所に、孝典の方は尊のGT-Rをじっくりと眺めていた。

「成る程。これが尊の新しい車か。色が黒だから目立ち難いが、案外外装も派手なんだな。」

 フロントの補助灯やボンネットの幾多のダクト、リヤバンパーのステンレス製プロテクターにGTウイングなど、確かに特徴的な装備は多い。

「でも、中身は殆どノーマルなんですけどね。前のオーナーさんが、ドレスアップ重視の方だったんでしょう。そのお陰か、車体の傷みなんかも少なかったんですよ。今のパワーですら掌握出来てない現状で言うのも何ですけど、いずれはこの外見に見合うだけの性能に仕上げてみたいとも思ってるんです。」

「なんたってGT-Rだもんな。その気になりゃ、幾らでも……底知れぬパワーも引き出せるような車だ……。」

 そう言いながらも、孝典の表情は何処となく硬い。どうしたのだろうと尊は暫く孝典の様子を窺っていたが、孝典の方も特に言葉を続けるような様子もない。そんな状況に気付いてか、豊が別の話題を切り出す。

「ところで法月。今日の勝算はどんなもんだ?」

 すると尊は苦笑いを浮かべる。

「いやぁ、勝算を弾き出せって言われたら、相当に低くなっちゃうと思いますけどね。でも、勿論全力は尽くすつもりですよ。美由のロードスターがどれくらいのレベルで仕上げられて来るのかは分かりませんけど、私の方だって性能的には充分な筈ですからね。」

 その言葉に、豊は満足そうに笑う。

「法月にしちゃ、良い心構えだぜ。厳しいからって最初から投げてちゃ、勝つものも勝てなくなっちまうからな。」

 基本的に豊は自分と好勝負をした人間には情が移るらしい。敏行に対する場合がそうであるし、今回ならば本人も気付かぬ内に尊を応援しているようである。対する尊も、なかなか自信を持ち切れない様子ではあるが、精一杯微笑み返す。

「頑張ってみます。」

 そんな会話をしていた彼らに耳に、ロータリーサウンドが届いて来た。それが誰であるのかはすぐに分かったが、近付いて来るその音色は、彼らが知っているそれとは響きが違う。音を聞いただけでも、以前とは仕様が違う事が分かる。

「さぁて。これで役者は揃ったぜ。」

 豊が期待に満ちた様子で呟く。尊も気持ちを引き締める。そして孝典は、未だに硬い表情を保ったままだった。

 やがて淡紅色のロードスターが姿を現し、彼らが停めている車の後ろに付ける。その車の助手席からは敏行が、そして運転席からは美由が出て来た。車を降りた美由は、迷わず尊の前に立つ。そして今夜の主役二人が顔を合わせる。

「……待たせちゃったよね。私の方も、ようやく尊を迎え撃つ準備が出来たよ。馬力もそっちと同じくらい出てるし、戦闘能力は尊のRと戦うに充分足り得ると思うよ。対尊仕様として、水看さんに頼んだんだからね。」

 美由がそうであるように、尊の方も複雑な表情を浮かべていた。

「美由からそんな台詞を聞く事になる日が来るなんて、思った事もなかったよ……。私の方も、少しずつだけどこの車の扱いに慣れて来たと思う。だから、美由に退屈な思いをさせないで済むと思うよ。」

 すると、美由は少し俯くようにしながら言葉を綴った。

「思えば、こんな風に尊と対峙した事ってなかったよね。ずっと一緒に走って来たっていうのにさ……。」

 その言葉に、尊は穏やかな笑みを浮かべながら答えた。

「そうだね。でも、私は嬉しいよ。ずっと先を走っていた美由と、ようやくこうして同じ土俵に立つ事が出来たんだもの。こんな日が来るとは思いも寄らなかったとはいえ、もしかしたら心の何処かでずっと望んでいた事だったのかもしれないね……。」

「そっか……。なら、私は先を走って来た者として、尊の成長振りをしっかりと見届けさせてもらう事にしようかな? ……私にも色々と募る想いはあるけど、その中にはやっぱり嬉しさもあるんだよね。何よりも一人の走り屋として、ゾクゾクさせられる相手を前にしてるんだから……。」

 そして暫しの沈黙の後、覚悟を決めたようにして互いに開戦の意を確かめ合う。

「……行こうか。」

 美由がそう言うと、尊はゆっくりと頷いた。

「うん。」

 それから2人はそれぞれの車に乗り込み、エンジンを始動させる。そしてゆっくりと車を発進させると、周回コースへと出て行った。

その姿を見送ると、孝典が心配そうにして口を開いた。

「尊は大丈夫だろうか……?」

 突然の孝典の言葉に、敏行が驚いたようにして訊き返す。

「え? どうして急にそんな事を?」

「いや、何となくな……。必死に追い縋ろうとする想いは、時に実力以上の速さを乗り手に発揮させる事もあるが、分不相応の速さで無駄に危険度を増加させるだけの場合もあるからな……。」

 孝典の実感の篭ったかのような言い方を少し不思議に思いながら、敏行は言葉を返した。

「確かに、尊は大人しいけど一生懸命になる性格だしね……。そういえば、あのNSXのドライバーも尊に似たような事を言ってたらしいよ。付け焼刃は危険だとかさ。」

「会っていたのか? NSXのドライバーに……。」

「会ったというか、見ただけというか……。尊がやられた時にね。何だか暗い印象の乗り手だったけど。」

「そうか……。」

 そして暫く黙ったままでいたが、やがて豊達に提案した。

「……俺達も走らないか? なぁに、変に攻め込んでも二台の邪魔になるだけだろうから、軽く流すだけさ。豊、敏をナビに乗せてやれよ。」

「ん? ああ……そうだな……。」

 取り敢えずはその提案を受けて豊もセリカに乗り込んだが、孝典の様子に釈然としないのは敏行と同じのようだった。

「あいつが自分から走ろうって言ってくるなんて、珍しいよな……。こういう時は大抵残って静観してる事が多いってのによ。」

「そうだよね。どうしちゃったんだろうか……。」

 豊達は久し振りに車内から孝典のRX-7のテールライトを見たような気がしていた。

 

 

 ロードスターが先頭で、公園中通から周回コースへと出る。すぐにテクノガーデンの交差点に達するので、駅前ストレートに入ってからが本当のバトルのスタートとなる。視界に一直線の道路が映ると、両者共に一気にアクセルを全開にする。尊の眼前のロードスターは、僅かだがテールをふら付かせながら加速して行った。

「……ゼロ加速でもないのに、スネークダッシュですか……。もはやそのパワーは、ロードスターには相応のものとは言えなさそうですね……。」

 だが、尊のGT-Rはロードスターのテールをしっかりと捉えて離さない。

「だけど、私だって負けないからね。そっちが車格を遥かに超えたオーバーパワーを叩き出しているのに対して、こっちはGT-Rまだまだ序の口にすら至れない程度……。安定性なら、そっちの比じゃない筈だよ……。」

 ブースト計は装備してあるが、その針はノーマルの設定よりも僅かに高い0.9kg/㎠を指し示しているだけである。つまり、ブーストアップすら殆ど施されていないのである。それでも美由のロードスターとの加速勝負に、確実に食らい付いて行っている。3速、4速とコンスタンスにシフトを上げて行く。それでも加速感は失われる事がない。

以前のシビックは300ps程度のパワーながらFFであった為、アクセルを踏めばホイルスピンの嵐で接地感などまるでなかった。しかし今のGT-Rはそれと同等以上のパワーがあるにも拘らず、そのスタビリティはシビックの比ではない。その事に少し不思議な感覚を抱きながら、そして高鳴って行く直6のサウンドに普段以上に高揚感を感じながら、尊は前を行くロードスターを追う。ピッタリと後ろに付く事は出来るが、追い抜けるほどのスピードの差はない。そして前を行くロードスターを駆る美由は、天性のコーナリング技術を持つドライバーである。よって、普通に考えればストレートで追い切れないとなると、此方側は不利な状況に立たされている事になる。だが、今の尊は決してそのような立場にあるとは感じていなかった。

「もしかすると、単なる慢心かもしれません。それでも……私は今までこれほどまでに勝ちを望み、そしてその可能性を信じられた事はなかったと思います。」

 尊は抜きを掛けようとしているわけではないが、美由も尊とGT-Rの速さを感じ取っているからであろうか、此方の動向をブロックしているような動きをして来る。だが、的確な動きの中に美由の焦りが見える。ストレートで美由がブロックをして来るのは、余り余裕を感じていない事の証拠である。長年美由と共に走って来た尊は、その事をよく知っていた。とはいえ、自分と一緒に走っている時に美由がそんな素振りを見せるのは、初めての事であった。

 やがてストレートエンドが近付く。幕張海浜公園の交差点が迫る。尊は気持ちを引き締めてコーナーへの突入に備える。一旦息を呑み、そしてブレーキペダルを踏み付ける。急激に減速して行く車体は前のめりになる。だが、アンダーステアに陥る事もなく、GT-Rは大柄なボディを物ともせずに切れ込んで行く。

 しかし、すぐ前を行くロードスターのコーナリングは凄まじい。瞬時に減速して向きを変え、コーナーの出口へ向かって一気に突き進んで行く。破綻寸前のバランスを保った限界のコーナリング。今まで何度も見て来た筈のその走りの凄さを、今更ながらに感じ取る。

「……今日の美由は間違いなく手加減なんてしてないよね? 私と一緒に走る時に本気で美由が攻めるなんて、初めてじゃないかな。今、私は本当に美由と対等に戦う事が出来ているんだね。私の側には精神的な余裕なんてこれっぽっちも残っていない筈なのに、何だか嬉しさが込み上げて来る気がするよ……。」

 シビックに乗っていた頃は、美由と走る事があったとしても、美由が自分のペースに合わせて走るというだけの事だった。それも当然の事で、車の性能も技術も上の美由に本気で逃げられては、尊が追い付ける筈もない。その事に尊は不満などなかった。だが、GT-Rを駆って美由を追っている今こそが、本当の意味で美由に追い縋る事が出来ているのではないだろうか。そう考えると、不思議な嬉しさを感じるのであった。それでも、気の緩みを見せるわけには行かない。まだロードスターは前を走っている。その姿をしっかりと見据えると、尊はアクセルを踏み込んだ。漆黒のGT-Rは、海浜大通をどんどんと加速して行った。

 

 

 後方で光るヘッドライトの眩しさが、GT-Rとの距離の近さを物語っている。美由のロードスターはパワーウエイトレシオは優れているので加速力は高いが、200km/hオーバーの領域になって来ると加速に頭打ち感が出て来る。きちんとパワーバンドを保っているにも拘らず、なかなか速度は上がらない為、美由は若干の苛立ちを覚える。一方のGT-Rは穏やかではあるが確実に速度を増しているようであった。

「……静かな速さが尊らしいかな。それだけに、私の方は何だか落ち着いていられないけど。……前までは280psでも凄く速いって感じてたのに、今じゃ380psもあるのに物足りなく感じちゃうよ。人間の感覚なんて、好い加減なもんだね……。」

 見浜園の交差点に差し掛かり、美由はロードスターをコーナーへと飛び込ませる。芸術的なまでのコーナリングで滑らかに交差点を駆け抜けると、GT-Rとの差を広げる。だがそれも、GT-Rは立ち上がりの加速でほぼ帳消しにしてしまう。美由は真剣な表情で、追い上げて来るGT-Rをサイドミラーから一瞥する。

「尊……もう、戻る気はないの? それに、何を目指してその領域へ向かおうとするの? 終わりなき無限の螺旋を駆け上がり続けたって、きっと何もありはしない。……それでも、尊は高みを望むの?」

 尊のGT-Rはまるで美由の問いに答えるかのようにして、唸りを上げて更に距離を詰めて来た。その様子を見て、美由はゆっくりと頷く。

「そう……。なら、私だって負けるわけには行かないよ……。走り屋同士の戦いとして、敗北が許される事などないんだから……ッ!」

 そこからアクセルを強く踏み込む。そこからロードスターは更なる加速体勢に入って行く――筈だった。

「……あれ?」

 美由は首を捻った。先程までの加速感とは明らかに違う。まるでアクセルの踏み込みにすぐには呼応しなかったかのような、軽い息継ぎがあった。例えるなら、教習車の補助ブレーキでも踏まれたかのような感覚だ。

 それでも今のは気の所為だったかもしれないと思い、再び前方の尊を追う事に集中する。ところが、それは気の所為ではなかった。公園大通の超高速S字を立ち上がって行く際にも、またもや失速感があったのだった。それが何を意味するのか、メカニカルな部分に関しては美由には分からないが、何らかの異常の兆候なのであろう事はすぐに悟った。咄嗟に計器類を確認する。すると燃圧系に目が止まった。

 いつ、何が起こるか解らない極限状態での走行下で、もし気になる現象が出たら真っ先にそこを見なさい――。以前、水看がそんな風に言っていたのを思い出したからだった。そして燃圧計を見た美由の眼は、大きく見開いた。

「燃圧が……低いッ!?」

 燃圧は構造上、インテークマニホールド内圧の影響を受け、アクセル開度などに連動して激しく変化する。このロードスターには、メカに疎い美由が確認し易いように、差圧表示式の燃圧計が取り付けられていた。燃圧が一定なら、指針の指示値は変化しない。よって、時間ごとに上下している事自体が異常なのである。

 通常時の燃圧は3.3kg/㎠程度だと水看は言っていたが、現在はそれが2.1〜2.5kg/㎠くらいにまで低下している。これまで、ずっと安定していたその値が、此処に来て突然に崩れだした。

「……これ、結構拙いのかな……? 何よりもこのままじゃ、尊に付いて行けなくなっちゃうよ……。」

 言い様のない焦燥感が、美由を襲い始めた。それでも諦めようという想いは浮かばない。何とか持ってくれる事を祈りつつ、ロードスターに鞭を入れて行く。

 

 

 紅いセリカと緑のRX-7はゆっくりと周回コースを流していた。少し耳を澄ませば、高回転を維持するロータリーと直6のサウンドが幕張の地に木霊しているのが聞こえる。二台の激しい(せめ)ぎ合いの様子が目に浮かぶようだった。そんな中で、豊が口を開いた。

「二台とも、やってんなぁ。周回コースの距離自体がそんなにねぇっつっても、こりゃあ、幾らもしねぇ内に追い付かれちまいそうだぜ。」

 すると、敏行もそれに同意する。

「うん。美由も尊も、きっちり踏んでるみたいだね。美由の実力は確かだけど、GT-Rに乗った尊も遜色ないくらいかもしれないよ。」

「そうだな。俺と走った時も、たまにびっくりするくらいの鋭い走りを見せる事もあったぜ。美由には及ばないのかもしれねぇが、だからって舐めたもんじゃねぇよな。」

「尊は大人しいけど、凄く一生懸命な部分もあるから、必死になった尊の底力は相当なものだと思うよ。それに、速い相手を……美由を追おうとする時の気持ちは、僕も良く分かる。凄まじい速さには圧倒されるし、追えない時には悔しさも感じるけど、それだけじゃなく、自分はまだまだ高みへ行く事が出来るんだって思わせてくれるんだ。速い相手なら誰しもがある程度は持っているものだけど、美由の速さには、何て言うか……人を惹き付ける魅力のようなものがあるんだよ。」

 それを聞いた豊は、横目で敏行の表情を確認し、そして少し間を置いてから言った。

「……成る程な。分かる気がするぜ。」

 豊の言い方に、敏行は不自然さを感じたようだった。

「何か妙な間だったけど、僕、何か変な事言ったかな?」

「いや、全然。本当にお前の言う通りだと思うぜ。」

 敏行が美由の走りを見て感じるという、魅力のある速さ。それは豊が敏行に感じていたものだった。ただ、それを認めてはいるものの、直接口に出して言うのは少々恥ずかしいと思った豊は、そんな言い方をしたのだった。

 やがて駅前ストレートに差し掛かった頃になって、幕張の街に響いていたロードスターとGT-Rの咆哮がいよいよ近付いて来た。そう思った時には既に二台はすぐ後ろまで迫っていた。テクノガーデンの交差点で差を付けたのか、先ず美由のロードスターが通り過ぎ、そして一瞬の間の後に尊のGT-Rが追い抜いて行った。

「おお。やってやがるな。二人とも。」

「ああ……。こりゃあ、相当に(もつ)れてるみたいだね。両者一歩も譲らず……ってところか。」

 二台の姿はあっという間にストレートの先へと消えて行った。

 

 

 豊のセリカよりも少し前を行っていた孝典は、駅前ストレートも後半部分まで来たくらいの場所で、美由達に抜かれる事となる。その頃には既に前後が入れ替わり、尊のGT-Rが先頭に立っていた。遂に美由がGT-Rの加速を封じ切れなくなったのであろうか。孝典のRX-7を抜いてから幾らも行かない内に、前方の二台は幕張海浜公園の交差点への突入に備えて減速に入る。GT-Rは確実にコーナーを曲がって行く。その動きには派手さもないが隙もない。一方のロードスターは、タイヤスモークを上げながら鋭く交差点をクリアして行く。かなり対照的な二台の動きだが、どちらもかなりの速さを見せている事には変わりない。そんな様子を見た孝典は、やや呆然としながら呟いた。

「……尊も去る事ながら、美由の走りにこんなにも危うさを感じるのは初めてだな……。普段からギリギリのコーナリングを平気で遣って退()ける奴だが、今日はロードスターの動きがやけに危なっかしく感じる……。それだけ攻め込んでいるという事なんだろうが……。」

 本気で攻め込んだ走りは、一歩間違えば文字通り命取りとなりかねない、危ない橋の上を渡る行為であるという事は、今更言われるまでもない。そんな走りが毎夜の如く繰り広げられているこの場所ならば、珍しい光景でもない。それなのに、孝典の心には言い様のない不安が押し寄せるのであった。そしてそんな考えが頭を過ぎる自分に対して、孝典は僅かだが苛立ちを覚えた。

「……俺は、何を怯えているんだ……。こんな事、走り屋の集う場所なら、況してや幕張ならあって当然じゃないか……。それなのに、どうして俺はこうも不安になってしまうんだろうか……。」

 ロードスターとGT-Rのエキゾーストノートは既に小さくなりつつはあったが、耳を(そばだ)てるほどではない。二台の音色を耳で確かめ、それからバックミラーで豊のセリカが追走している事を確認する。

「敏、豊、美由、尊……。お前達は公道を走るという行為に対して何処までも純真だ。眼前に伸びる道の彼方を目指して、懸命に走り続ける……。それはきっと、荒んだ幕張という場所を走り続けるには大切な事なんだろうな。だから、その想いを貫き通して、強く在れ……。お前達の想いが、俺の弱さを掻き消してくれるかもしれないのだから……。」

 そして孝典は少しだけアクセルペダルを踏み足した。

 

 

 駅前ストレートで前に立ったものの、それから暫く行った後、見浜園の交差点の所で尊は若干アンダーステアを出してしまい、それを見逃さなかった美由に再び前に立たれてしまった。この周回コースの道幅は殆どが二車線と狭く、必然的に相手の車に接近する事となるオーバーテイクは本来ならばリスクも高く、そう頻繁に行うものでもない。特に尊の方はバトルに慣れていない事もあって、抜き所を探るのも然程上手くない。

 そしてバトルが長引いてきた事もあり、徐々に尊は美由に押され気味になって来た。それは美由の方がバトルの経験も多く、長丁場になった場合の戦い方もよく心得ているからであろう。未だ安定した走りを続けているロードスターを目にして、尊は徐々に苦しさを感じ始めていた。

「やっぱり美由は凄いや。ただ速いだけじゃない。車のコンディションを如何に保つのかという術にも通じてる……。私なんて、力任せに走らせてるだけだから、無駄も多いんでしょうね……。」

 それでも尊にはまだ勝算があった。尊は此処まで、ずっと低いブースト設定のままで美由に食らい付いて来ている事が、その理由であった。この車には、ブーストコントローラーが装備されている。現在よりも更に高いブーストの設定もあるが、此処までは使わずに戦い続けて来た。しかし、戦況が厳しくなってまでそれを温存しておく事はない。使わなければただの宝の持ち腐れである。尊は次の駅前ストレートで、ハイブーストモードを使う事を決意する。

「こうなったら、私はもう徹底的に馬力の亡者に成り果てますよ。それで美由の前を走る事が出来るなら……ッ!」

 美由のロードスターはテクノガーデンの交差点も驚異的なスピードで曲がって行った。それに焦りを感じながらも、此処はミスをしないように落ち着いて車体を曲げて行く。

そして交差点から立ち上がった瞬間に、尊は一気にブーストを高めた。タコメーターとスピードメーターの針の上昇する速度が明らかに上がる。腹部に掛かるGはまるで突き刺さるような感覚がする程である。湧き上がるパワーに、一瞬現実感が失われたように感じる。

「…………ッ!!」

 何馬力くらい出ているのであろうか。その加速力に驚いている間もなく、美由のロードスターとの距離は一気になくなり、そして前へと出る。

 ――しかし、差が縮んだのはGT‐Rがブーストを上げた事だけが理由ではなかった。それよりも僅かに早く、ロードスターが一気に失速したのだ。加速する事を止めたロードスターは、どんどん減速して行く。その事に気付き尊がアクセルを抜いて後ろを確認した時には、ロードスターとの距離は既に大分離れていた。

「何かトラブルが起きた……? あのタイミングで美由が急にアクセルを抜くとも考え難いですし……。……ただでさえ力任せに前に出ようとした上に、ロードスターの方もトラブルを起こしたとなれば、これじゃ私が勝ったとはとても言えそうにないですね……。」

 長引き始めたかに見えたバトルの呆気ない幕切れに、尊はやや苦笑いを浮かべた。

 

 

バトルを終えた二台は周回コースから逸れ、幕張メッセの前に車を停める。後から敏行達も合流した。

終わり方からしても、複雑な心境であろう。顔を合わせた美由と尊は共に何とも言い様のないといった表情を浮かべていたが、やがて尊が先に口を開いた。

「何かあったの? 急に失速しちゃったけど……。」

 それに対して美由は口惜しそうに笑いがなら答えた。

「急に燃圧が低下し始めて、それからアクセル踏んでも思うように加速しなくなっちゃったんだ。さっき抜かれたより半周くらい前……見浜園の辺りからそうなっちゃって、何とか騙し騙しでも走ってくれないかなと思ったんだけど、駅前ストレートまで来たら症状が悪化しちゃってね……。流石にもう駄目そうだったから、諦めたんだ。」

 口振りからは明らかに悔しさが滲み出ている。確かに美由は比較的感情表現の豊かな方かもしれないが、こうまで如実に悔しさを露呈する事も珍しい。その様子を見た尊は、やや慌てて言う。

「それは不遇な事故なんだからしょうがないよ。あのままロードスターが性能を維持していたら、私が付いて行けなくなるのは時間の問題だったろうし。」

 この場面で申し訳なさを感じてしまうのは、尊ならではと云えるだろう。美由はそんな様子を可笑しいと思ったものの、浮かべる笑みは何処か弱々しく残念そうなものになってしまう。

「そうでもないと思うよ。調子を崩す前から、互角の戦いだったんだもん。例え万全の状態でテクノガーデンを立ち上がれていたとしても、あのパワーに太刀打ち出来たとは思えないよ。失速するタイミングがたまたまブーストアップのタイミングと重なっただけ。どちらにしろ、今日は尊の勝ちだよ。だって……そうでなきゃ、私だってこんなに悔しいとは感じないもん。」

 そう言って美由は苦笑いを浮かべる。美由からそんな言葉を聞く事に慣れていないのか、尊はやや戸惑いを見せていた。

「で、でも、あれはただ力押しで強引に前に出ただけなんだよ? 私は最後まで車の性能に頼りっきりの走りしか出来なかったし……。」

すると、尊の様子に見兼ねたのか、豊が口を挟んだ。

「その気持ちは分からなくもないけどな。でも、もっと素直に勝ちを喜んで良いと思うぜ。いつだか青山が言ってたっけな。速さを求めるなら、よりハイパワーの車に乗り換えるのは至極当然の流れだ。中途半端にアンダーパワーの車に拘るのは、甘えに過ぎない……ってな。法月が限界を感じてシビックからGT-Rに乗り換えたのは自然な事だし、その車で勝ったからって引け目を感じる事などない筈だぜ。」

 そして敏行も後に続く。

「僕、そんな事言ったっけかな? でも、確かに僕もそんな卑怯な手段を使ったみたいに思わなくて良いと思うよ。速い車を手に入れたから、尊はより高い領域を垣間見る事が出来るようになったんだ。こないだ白いNSXと出遭った時だって、標的にされたのは僕のインプレッサじゃなくて尊のGT-Rだったじゃないか。技術が足りないと感じるなら、頑張って走り込んで身に着ければ良い。そうなったらもう鬼に金棒だよ。……此処は速さを基準にしか物事を計れない世界なんだからね。」

「……何だか二人して私を苛めてるみたいだなぁ。」

 美由が冗談半分に不貞腐(ふてくさ)れて見せる。だが、それを真に受けた豊が焦って弁解する。

「べ、別にそんなわけじゃねぇよ。美由はパワーに頼らない走りが出来るから凄ぇと思うぜ。ただ、俺自身もパワーはあった方が良いと思うタイプだからよ……。」

 その様子を見て、美由は今度は面白がって笑って見せる。

「アハハ。冗談冗談。そんな本気で言ったんじゃないから大丈夫だよ。……それに、2人の言う事は確かにそうだと思うよ。勿論、私はコーナリングでの勝負には自信があるけど、何処かでハイパワーを烏滸(おこ)がましくも毛嫌いしてた部分はあったと思うんだ。だけど、それじゃ真に最速を追い求める事は出来ないって気付き始めてたんだ。力だけでも駄目、技術だけでも駄目。その双方が揃った時に、初めて最速を目指す事が出来るんだってね。」

 言いながらその事に気付かされた時のバトルの相手であった敏行の方に視線を遣る。敏行もそれに応じるかのようにして言葉を続ける。

「それに……また美由を苛めるわけじゃないけど、走りってのはコーナリングだけに技術が要るってものでもないからね。パワーの低い次元はいざ知らず、ハイパワーの領域ともなれば直線できっちりアクセルを踏み続ける事だって容易いもんじゃない。ストレートできっちり加速して、そして相手を抜き去って行く事が出来る尊は、美由とは正反対のタイプなのかもしれないね。」

 皆にフォローされる形となった尊は、この上なく照れ臭そうな表情を浮かべていた。

「そ、そんなもんですかね……。なかなか自分では実感がないんですけど。」

 それから表情を落ち着けて、ゆっくりと口を開いた。

「……だけど、私はようやく皆さんに追い付けたんだなって思います。その事は、凄く嬉しいです。私もまだまだ速さこそが掟のこの場所に在り続ける事が出来そうです。」

 尊の穏やかな微笑みの中には、今まで以上に固い決意も表れているようだった。

 一方、孝典も共にこの場へと来てはいたが、ただ押し黙って敏行達の会話を聞いているだけだった。やがて彼らの話が一段落したのを見て取ると、少し彼らから離れて、神妙な面持ちで新都心を包み込む夜空を見上げた。

「この場所と、そして過去にきちんと対峙する強さ……。俺は、得られるんだろうか……。」

 自らの切なる想いを、一人静かに呟いた。