― 16.彷徨〜Verlegenheit〜 ―
人は時に惑う。自分の目指す先が何であったのかを見失ってしまうが故に。自分は今まで何を追って走り続けて来たのか。何を求めて廻り続けて来たのか。見えていた筈のものが見えなくなってしまい、人は惑う。
だが、それだけの理由で走る事を止めるわけには行かない。自分には必ず追い求めるべきものが在る。この場所を走り続ける理由が在る。それを確信して、或いはそう在りたいと願って、闇の中を必死に彷徨い続ける。底知れぬ闇の深淵は果てしなく、自分は此処から抜け出す事が出来るのかと不安になる事もあるかもしれない。それでも、懸命に抗い、足掻き続ける。そう、目指すべきものを見失ったのが自分であるのなら、それを再び見出すのもやはり自分でしかない。だから、闇に迷い込んでも走り続ける。いつかきっと一筋の光明が射すのだと信じて――。
「どうだった? 尊と走ってみた感想は?」
尊とのバトルでの全開走行を経た上で、一度点検をしてもらう為にガレージ木之下を訪れた美由に対して、水看は早速に尋ねた。
「やられちゃいましたよ。序盤から苦労させられましたけど、尊ったら、ハイブーストモードも隠し持ってるんだもん。最後は駅前ストレートで置いてかれちゃいました。……尤も、そうでなくとも私の勝ち目は薄かったんじゃないかと思いますけど。馬力は同じくらいでも、私のロードスターにとってはオーバーパワーなのに対して、尊のGT-Rにとってはアンダーパワーなんですもんね。やっぱり私は軽量さを過信してたっていうのか、そこで甘えてたんだと思います。」
「……前は280psでも全然文句言わなかったのに、380psもパワーがある今になって不満が出たってわけね。……まぁ、そうでしょうね。ロードスターはそんなハイパワーに耐えれるような車じゃないものね。作った私が言うのも何だけど、ストリートレベルのチューニングで380psまでパワーを上げたロードスターを乗りこなせるのなんて、ハッキリ言ってあんたくらいにしか出来ないと思うわ。それでもやっぱり無理がある事には変わりはない。今くらいのパワーの領域になって来ると、GT-Rクラス……いいえ、インプレッサクラスの車と比べても、限界は低いと言わざるを得ない。言ってみれば、あの車をまともに操れている事の方が、奇蹟みたいなものなのよ。」
「……褒められてるんだろうけど、何だかそんな気がしないなぁ。」
確かにいつもの様に淡々と言葉を綴る水看の口振りからは、余り褒めているようには聞こえない。その事に対してやや膨れっ面をする美由。だが、やがて真面目な表情で水看に言った。
「水看さんとしては、どう思います?」
「何の事よ?」
不意に訊かれた水看が、訝しげに尋ね返す。
「もし私がこれ以上の力を欲しがった場合、やっぱりロードスターは諦めるべきなのかなって。」
美由の言葉に、水看は腕組みをして少し考え込んだが、やがて静かに口を開いた。
「……あんたがロードスターに極端なまでの、そうね、敏がインプワゴンに拘るみたいなまでの思い入れがないのなら、次のステップへ行く為には、もっと上のクラスの車に乗り換えるのが順当な選択よね。どうしてもロードスターで行きたいっていうのなら、とんでもないパワーを持ったマシンに仕上げる事も、全くの不可能じゃない。けど、それは現実的な選択肢とは言えないわね。この幕張で、今後トップを張り続けて行くには、生半可なレベルじゃ太刀打ち出来ない。勿論、あんたはそのレベルで戦う事を望んでるんでしょ? ロードスターをそこまで持って行こうとしたら、正しく天文学的な費用を掛けなければならなくなってしまうからね。」
美由は水看の言葉に一心に耳を傾けていた。だが、それは迷いに決着を着ける為ではない。既に固まった決意をより強いものとすべく、自分の想いを再確認しようとしての事だった。
そして美由は言う。
「ロードスターは好きです。思い入れもあります。でも、敏ちゃんのインプワゴンに対するそれには負けると思う。だから、より高い領域を目指す為ならば、私はロードスターを棄てられます。こんな事くらいで、前に進むのを躊躇ってるわけには行かないから……。」
そこで一呼吸置き、それから言葉を続ける。
「……私は望みます。更なる高みへと連れて行ってくれるマシンを……。」
水看は美由の言葉を聞き終えると、観念したといった様子で笑みを浮かべながら、軽く溜め息を吐いた。
「……OK。分ったわ。それじゃあ、具体的な話に入りましょうか。現段階で欲しい車とかはあるのかしら?」
「いえ、特にはないんですけど、でもハイパワーマシンとなると、ある程度限られて来ますよね。」
「そうね。私としては取り敢えずGT-Rを勧めるけどね……。でも、尊と被っちゃうわね。」
「尊と被るのは全然嫌じゃないけど、GT-Rは何か違うなって気もするな。ロードスターのイメージを引き摺ってるだけかもしれないけど、FRの方が良いかなぁ。」
「成る程ね。あんたがそう思うのなら、その方が良いかもしれないわね。パワーユニット的には……。」
そうして二人は暫く論議を続けた。
15号線を走るグリーンのSA22C RX-7が一台。そのスピードは日常的なレベルではないとはいえ、この時間帯に集う車の走りとしては、かなり控えめな速度で走っているに過ぎない。RX-7のドライバーの孝典がいつもそうしているように、軽く流しているのだが、彼の心は普段ほど落ち着いていない。
「風が冷たい……。まるで、あの頃のような……。」
そして、一台の車との遭遇で、彼の緊迫感は頂点に達する。迫力のあるフルエアロを纏った、ホワイトのNSX。相手も孝典と同じように軽く流していたようだが、孝典のRX-7に気付くと、スピードを上げて来た。つまり、此方と戦うつもりであるという意思表示をして来たのである。孝典もそれに呼応し、アクセルを踏み込む。二台が全開走行に入る。哮るエキゾーストノート。その走りは、周りを圧倒するほどのものであった。
「戻って来たんだな。藤井……。」
15号線の東端まで走り、そこで車を停めて、それぞれのドライバーは顔を合わせた。孝典の言葉に、藤井と呼ばれた女は暗い表情をさしも変えずに答える。
「戻って来るつもりはなかった。だが、やはり私は伝説に囚われてしまった人間なんだ。この場所を離れていた間も、一時たりとも脳裏から離れた事はない。もう二度と戻るまいという私の決意など、知れたものだった……。」
そこで少し顔を上げて、そのまま言葉を続ける。
「私は弱い人間だ。離れられないと分っていながらも、貴方のように走り続ける事も出来なかったのだから……。」
だが、彼女の言葉に孝典は首を振る。
「お前はそんなに弱くないし、それに俺が強いなんて事は全くもってないさ。俺など、幕張に居続けはしたものの、積極的に前線に出る事にはすっかり臆病になってしまった。中途半端なもんさ。……その意味では、関口は強いよな。あいつは今でもこの場所で最速の一人に数え上げられているほどだ。」
それを聞いた藤井は、今度は目線を遠くに遣りながら、静かに口を開いた。
「そうか……。彼はずっと走り続けていたのだな……。彼だって、あの日の事が辛く圧し掛からなかったわけでもないだろうに……。」
そうして二人とも暫く黙っていたが、やがて孝典が藤井に尋ねた。
「それで、お前はこれからどうするつもりなんだ?」
すると藤井は、迷いのない様子で答える。
「この車を持ち出して、再びこの地に足を踏み入れたんだ。やる事は決まっている。私は再びこの地でスピードを追い求める。そうすればいつかきっと、伝説との邂逅を果たせると信じてな……。」
「……その伝説の車は、あの時の全ての元凶といっても過言ではない。それでもお前は、伝説を追い求めるのか?」
「だからこそ……だ。周りが見えなくなって過ちへと至ってしまった、自分に対するけじめとしてな。……いや、そんなのは建前でしかないか。結局、私は今も伝説に、そしてスピードに心を奪われたままであるに過ぎないという事だ。」
そんな会話をしている二人の許へ、別の車が横付けして来た。V6サウンドを轟かせる碧色のボディの車から降り立った男は、いつものように不敵な笑みを浮かべている。
「よう、お二人さん。早速にお揃いの所、邪魔させてもらうで。」
陶冶の登場に、藤井は少し呆れたような表情で迎える。
「その口振り、相変わらずだな。流石だ。」
「おいおい。一言喋っただけでやないか。褒めとんのか? それ。」
「そのつもりだがな。昔と全く変わらないその様……。そう、ずっとこの場所を走り続けて来たという意味でも……。さっき、歌野ともそんな話をしていたんだ。貴方は強いとな……。」
藤井の言葉に対して、陶冶は表情を変えずに答える。
「くっくっく。おおきに。どや? 久し振りの幕張は?」
そう訊かれた藤井は、ゆっくりと空を見上げながらそれに答えた。
「今の幕張を満たしているこの空気……。あの頃とそっくりだな。まるでタイムスリップでもしたかのような気分だ……。」
「……その空気に気付いて、戻って来たのか?」
孝典が尋ねる。
「それに気付いたのか、或いはそれに呼ばれたかのように感じたからなのか……。どのみち、それが私をこの場所へと再び導いた要因である事には違いなかろうな……。」
すると、陶冶が益々不敵な笑みを浮かべながら言った。
「くっくっく。それやったら、お前も昔と何ら変わってへんやないか。お前もまだまだこの場所を走るに相応しい感覚を持っとるっちゅう事や。」
それに対して、藤井は軽く首を振る。
「どうだろうか……。まぁ、先ずは優に二年を越えるブランクで失った運転感覚を取り戻さねばな。」
しかし孝典はそれを否定する。
「何言ってる。話を聞いた分じゃ、全然ブランクを感じさせない走りをするそうじゃないか。こないだ、黒い33Rと走っただろ?」
「ああ……。知り合いなのか?」
「まぁな。よくつるんでる仲間の一人だ。……あいつらは伸びるぞ。やがて、この場所の頂上へと登り詰める日も、そう遠くはないんじゃないかと思うくらいにな。」
藤井もその言葉に同意する。
「成る程……。貴方がそう思うのも合点が行く。私もあの33Rと出遭った時、どういうわけか見過ごす気にはなれなかった。……今も幕張にはああいう奴が居るのだな。本当に昔と変わらない……。」
そこまで言うと、藤井は少し悲しげな表情を浮かべ、そして言葉を続ける。
「……それだけに、同じ事を繰り返してしまうのではないかと、不安にもなってしまうが……。」
しかし、陶冶がそこに割って入る。
「別に過去を引き摺ったらあかんなんて言うつもりはないけどな。過去の事例が今の幕張にも当て嵌まるとは、必ずしも限らへん。今の連中は自分自身で未来を築き上げて行く。その事で俺達がやきもきしたかて、仕方あらへんのとちゃうか? おっと、俺はまだまだ現役やけどな。」
最後の方を少し大袈裟に言ってみせる陶冶を見て、孝典は苦笑する。
「お前、暗に俺を皮肉ってるだろ? そう言われてもしょうがないとは、思わなくもないが……。」
そして、藤井も静かに口元に笑みを浮かべる。
「なら、ずっと離れていた私はどうなる? 幕張のOGとでも言うべきか? ……まぁ、私が勝手に過去を重ねているのだという事は分っている。だが、今はその想いが私をこの場所へと引き連れて来てくれている。だから、暫くは承知の上で過去を引き摺らせてもらう事にするさ……。」
再び笑みを消して、遠くを見るようにしながら言葉を綴る藤井。一方、陶冶は又もや皮肉るような口調で言う。
「何や、お前、実は戻って来たかったんやないか。相変わらず、素直とちゃうな。」
「……私もこの場所に囚われた人間だ。戻って来たかったに決まってるではないか。しかし、だからといってのうのうと戻って来る事は、私には許されない。……本当は今もその気持ちに変わりはないのだがな。」
藤井は淡々と、そしてやや自嘲的にして言う。
「くっくっく。それでも戻って来てしもうたんやな。ま、ええんとちゃうか? 走れば自分の気持ちにけりをつけられるかもしれへんで。それに、この場所に来てしまった以上は、言い訳は許されへん。しっかり自分を持って走る事やな。」
「そうだな……。せめて、それくらいは……自分を見失いようにはしなければな。」
「まぁ、変に気負い過ぎん事やな。せや、三人揃った事やし、ちょいと流さへんか?」
陶冶が提案すると、孝典はやれやれといった感じで両手を広げる。
「全く。お前は面子が揃うとすぐに走りたがるな。別に構わないが。」
そして、藤井もそれに賛同する。
「良いだろう。こうやって知った人間と流すのも、悪くない。」
「よっしゃ。ほな、行こか!」
陶冶が威勢良く片腕を振り上げて二人を手招く。孝典と藤井もそれに続いてそれぞれの車に乗り込み、15号線へと出て行った。
ガレージ木之下では水看と美由が、未だに次の車に関する議論を繰り広げていた。時には話が脱線する事もあるし、本題の方も取留めもなく話が続く。お互いが車好きであるので、その車の話となると際限なく話題が湧き出して来るのであった。
「でもね。GT-Rに対抗しなくちゃならないんだから、中排気量クラスくらいじゃ厳しいわよ。やっぱりGT-Rを差し向けるのが一番妥当だと思うんだけどね。尊と二人でGT-Rコンビとして名を馳せるのも、悪くないんじゃない?」
「あ。それはなかなか魅力的かも。でもなぁ……。」
先程から何度も見せている迷いの表情を再び浮かべる美由。
「まぁ、気持ちは逸るでしょうけど、あんま急いで決断出来るものじゃないし、じっくり考えた方が良いわよ。大きい買い物だし。それに、どのみち今は敏のインプの作業の方が忙しいから、なかなか他までは手が回らないだろうし。」
敏行のインプレッサが出て来たので、美由はそれについて水看に訊いてみる。
「敏ちゃんのインプ、まだまだ掛かりそうなんですか?」
「そうね。今までは基本的にエンジン周りを軽く弄るだけだったけど、今回はかなり色々やるわよ。エンジン周りでは、先ずインタークーラーを前置きにして、それから補機類はなるべくリヤに回して、配管の取り回しもスッキリさせる。タービンの大型化も要るかしらね。下はなくなって来るでしょうけど。後は、補強と軽量化ね。ウレタン入れたりして剛性アップもするけど、どちらかというと旧型インプの強みである、軽さを生かす方向で行きたいわね。だから、ロールバーも入れるけど、6点式に留めておくつもりよ。5名乗車可能な奴ね。ま、あの子は結構利便性にも拘るじゃない? それも加味してね。リヤは補機類ですっかり埋まっちゃうから、荷物は積めなくなるけど。」
「敏ちゃん、その辺結構五月蝿いんですよねぇ。通勤で街乗りするっていっても、それ以外は走りにつかうばっかで、そんなアウトドア派なわけでもないんだから、積載性とか気にしたってしょうがない筈なのにね。」
美由は嬉しそうにして話す。そんな様子を微笑ましく思いながら、水看は言葉を続けた。
「ま、それに関しては各人の拘りの問題だから、仕方ない部分ではあるんでしょうけどね。快適性を気にするからって、それが走りを純粋に追求していない事になるとは、一概には言えないんだし。」
「その気持ちは私も分かるんですけどね。でも、そんだけ色んな事やるとなると、お金の方も大分掛かっちゃいそうですね。」
「しょうがないじゃない。パーツ代にしたって、安い物じゃないんだから。なるべくディスカウントはしてあげるつもりだけどね。それに、この業界の人間は、お金貰わないと責任も持てないものなのよ。……というより、お金の心配をすべきなのは寧ろ美由の方よ? ハイパワーの車となれば、それなりの価格になるのは覚悟しておいてもらわないとね。」
「う〜ん。そこが辛いとこなんですよねぇ。まぁ、頑張って働きますよ。」
苦笑いを浮かべる美由。しかしそれに続く言葉は、先とは少し違った表情で述べる。
「……それに、お金が掛かるのは確かにしょうがない事ですもんね。それが嫌だったら、とっくに走るのを止めてますし。……いや、そもそも、そんな事で嫌気が差すようじゃ、初めから走ってないか。その為に稼ぐのも、それはそれで楽しみですよ。」
それを聞いた水看は、微笑みながらも溜め息を吐く。
「良い覚悟と言うべきなのか、もう救い様がないと言うべきなのか……。私も人の事言えたもんじゃないけどね。」
ガレージ木之下の灯りは、今夜も遅くまで消える事はなかった。
周回コースの方でも、今夜も幾台かの車が巡っている。その中でも一際エキゾーストノートを高鳴らせているのが、真紅のセリカと漆黒のGT-Rであった。双方とも出遭うとすぐにアクセルを開け、速度を高めて行った。まだ完全な全開走行ではないので、本人達にしてみれば余力は残しているつもりなのだが、傍目からはとてもそうは見えないレベルであった。以前のバトルで、尊は最終的にミスをして終わってしまったし、豊の方はコーナーでさんざん尊に追い回される形だったので、その事を互いに悔恨と感じているのかもしれない。
やがて、かなりの時間走り回った後に、二台は周回コースから逸れて公園中通に車を停め、豊と尊は顔を合わせた。
「仕舞いにゃかなりのハイペースになっちまったな。全く、法月もガンガン踏んで来やがるんだから。」
一息吐きながら言う豊に対して、尊も呼吸を落ち着かせながら答える。
「済みません。最初は流すつもりだったんですけど、いつの間にか熱が入っちゃったみたいです。でも、豊さんの走りも後半はかなりのものでしたよ? 付いて行くのに必死でしたから。」
そう言われた豊は、少し苦笑いを浮かべながら言う。
「まぁ、お互い様って事か。寧ろ、即行でバトルに突入しなかった事が意外なくらいかもな。法月と違って、俺はすぐに熱くなっちまう性格だし。」
「私だって、走りの時は自分でも不思議に思うくらいに体が疼く事もよくありますよ。やっぱり、こういうのが走りに来る事の楽しみですからね。」
「そうだな。競い合うべき相手と遭遇した時ってのは、心底ワクワクしてくるもんだ。それでこそ、この場所に来た甲斐があるってもんだぜ。」
その時、彼らの耳に激しく重なり合う幾台かのエキゾーストノートが響いて来た。それらはいずれもかなりのハイチューン、そしてハイレベルな走りをしている。二人は息を呑んで周回コースの方へ目を遣り、それらの車が眼前に至るのを待つ。
「うおッ……!」
先ずは碧のGTOが、そしてそれに続き白いNSXと緑のRX−7が横切る。その様を見て、豊は思わず声を上げた。そして尊も圧巻といった表情を浮かべている。
「あれは、破壊の関口さんと歌野さん……そしてこの間のNSXッ!? あの三台が一緒に走っているなんて……。……あの人達の走りは、今の幕張のトップレベルのものといって、間違いないでしょうね……。」
「だろうな……。GTOとNSXも凄かったが、何より歌野が本気で攻め込んでるのなんて、相当久し振りに見たぜ……。あれこそがあいつの走りの真骨頂だ。俺をこの場所へと引き入れた、あの時の走りだ……。」
孝典の走りについて、しみじみとした様子で語る豊。それを見た尊は、豊に孝典の事を尋ねる。
「豊さんは、歌野さんに連れられて幕張に来たんですか?」
「ああ、そうだ。……俺が納得の行く走りが出来なかった時期に、偶然歌野に会ったんだ。歌野は、それまで俺が見て来た走り屋とは違う雰囲気を持っていてな……。」
すると、尊がその話に興味を示した。
「何だか面白そうな話ですね。詳しく話して頂けませんか?」
対する豊は、一瞬だけ考え込むようにした後、顔を上げてそれを承諾する。
「良いぜ。少し長くなると思うがな……。今からもう一年近く前の事だ……。」
そして孝典と出会った時の事を、ゆっくりと話し始めた。
千葉県内の某所の走り屋スポット。その日も豊は自らのセリカを駆って、その場所を訪れていた。しかし、そこには他にも多くの走り屋が集っているのだが、豊は片隅で一人で佇んでいるだけだった。彼自身、人付き合いは余り得意ではなく、仲間の輪の中に入りたいと思っても、つい億劫になりがちな性格ではある。だが、豊が他の走り屋達と馴れ合わない事の主たる理由は、それではない。彼らの走りに対するスタンスが、自分のそれとは噛み合わないと感じているからであった。
此処に来る走り屋達の多くは、ただ単に楽しむ為だけに来ているだけだった。限界まで攻め込むよりは、ライトチューンの車を振り回して遊ぶといった程度の者が殆どだ。豊も車が好きであり、走りを楽しみたいと思っているには違いない。だが彼の望みは、限界領域での鬩ぎ合いである。しかし、そういった意図を持った者にこの場所で出遭った事は、未だ嘗てなかった。
そんな豊の許へ、見知らぬ男が近付いて来て、声を掛けた。
「よう。走る相手が居ないのか?」
落ち着いた、物腰穏やかな印象のその男は、やや訝しげにする豊の隣に立って、言葉を続ける。
「いつもこの場所を走っているのか?」
口調も静かで話し易そうな感じであるし、元より隣に立たれては無視するわけにも行かないので、豊も彼に応対する事にした。
「ああ。まぁ、家から比較的近場だしな……。そっちは?」
「俺か? 俺は今日はたまたま来てみただけで、普段は別の場所を走ってるよ。此処とはちょっと雰囲気が違うというか、独特の空気が漂う所だ。」
「へぇ、そんな場所もあるのか……。」
素っ気無く答えはしたが、実の所は男が言うその場所に少し興味を引かれた。それに気付いたわけではないだろうが、豊が訊きたいと思った事を、男は語り始めた。
「何て云うかな……。もっと張り詰めた空気が満ちたような場所だよ。走りに対して、本当に一生懸命な連中が集まり、挙ってスピードの彼方を追い求めているからだろうか。最近の流行りとはちょっと違った、ある意味では昔気質で時代錯誤な感じなのかもしれないな。」
その言葉を聞いて、豊はますますその場所を見てみたいと思うようになった。だがその前に、他に気になっている事を男に尋ねてみる。
「……どうしてわざわざ俺に声を掛けて、そんな話を?」
そう言われると、男は穏やかに笑みを浮かべながら答えた。
「君は、この場所の中では少し浮いているように見えたんだ。それは一人で居たからっていうわけじゃない。他の連中とは異なる雰囲気を持っているように思えたんでな。さっき、君がそのセリカで走ってるところも見掛けたんだが、かなり詰めた走りをしてたよな。他の車とは違って。……そう、どちらかと云えば、さっき話した俺がいつも行ってる場所に集まる人間と同じ匂いを持っているように感じたんだ。……俺の思い過ごしなら、申し訳ないんだが。」
まるで自らの想いを見透かされたかのような彼の言葉に、もはや豊は“その場所”への興味を抑える事は出来なかった。
「……いや、思い過ごしなんかじゃないと思うぜ。寧ろ、そうであって欲しいと俺の方が願うほどだ。俺は別にこの場所が好きで走っているわけじゃない。他に良い場所を知らないだけなんだ。」
豊の言葉を聞くと、男は何処か嬉しそうにして、そして招きの言葉を述べる。
「じゃあ、今から連れて行ってやろうか? 俺も此処へフラッと来てはみたものの、余り自分にはそぐわないと感じていたところだしな。この場所から少し距離はあるが、今から行けばまだ走る時間はある筈だ。どうだ?」
豊はそれに力強く応じる。
「ああ、宜しく頼むぜ。」
そして身を翻して車に乗り込もうとしたが、まだ具体的な地名も聞いていない事に気付いた豊は、向き直って男に尋ねる。
「……そういや、それって何処なんだ?」
「幕張新都心だよ。勿論、知ってるよな?」
有名な場所が出て来て、豊は少し意外に思った。
「そりゃ、知ってるが……。あそこに走り屋なんて居たんだな。」
「行けば分かるさ。……そうだ。地名を訊かれたついでに、名前も訊いておこうか。」
「ああ、俺は鈴本豊だ。あんたは?」
「俺は歌野孝典だ。宜しくな。」
孝典が手を差し伸べて握手を求めると、豊もその手をゆっくりと握り返した。
孝典のRX−7に先導されて、一時間くらいは走ったであろうか。遠くに見えていたビル群も、徐々に近付いて来ている。
幕張メッセや千葉マリンスタジアムのある幕張新都心は、全国的にもそれなりの知名度を持っていると云って差し支えないであろう。しかし、メッセなどでイベントが開催されているでもない限り、見た目ほどは活気がないのが実情であるし、況してや夜になればわざわざこの場所を訪れる人はそうそう居ない。その為、豊も最初にこの地名を聞いた時こそは驚いたが、思えば幕張が走り屋の集うような場所である事も納得出来なくはない。
だが、この場所の地理的状況などはどうでも良い事である。問題は、この場所に集まる走り屋は如何なる者達であるかという事だ。いや、更に言うならば、今の豊の関心事は前を走る孝典の腕前であろう。今は夜中であるので、何処も車通りは少ない。だが孝典は、此処へ来るまでの道中、無駄に飛ばす事などなく、あくまでもゆったりとしたペースで走って来ていた。恐らく、一般の車を含めてもかなりの安全運転をしている部類に入るだろう。その為、まだ孝典自身とその愛機の力量を窺い知る機会はなかった。
やがて国道から折れて暫く行くと、いよいよ聳え立つビル群が視界に広がり、幕張新都心と呼ばれるエリアに入った事を実感させる。豊もこの場所は何度か訪れた事があるので、見知った街ではある。但し、それは昼間の事であって、夜に此処へ来るのは始めてであった。
「真夜中の幕張ってのは、こうも様子の違うものなのか……。」
昼と夜では全く違った様相を呈する街並みに、豊はまるで別世界に迷い込んでしまったかのような感覚に捕らわれていた。しかし、その事に戸惑いを覚えている暇はなかった。テクノガーデンの交差点に差し掛かると、前を行くRX−7がハザードを点滅させる。そして不意に辺りに甲高いロータリーサウンドが響き渡った。
「…………ッ!!」
真夜中の幕張に、アフターファイアを残し、眼前を信じられないスピードで加速して行くRX−7。次に気付いた時には、RX−7は遥か前方へと遠ざかっていた。
「凄ぇ……マジかよ……ッ!」
呆気に取られている自分に気付き、慌ててアクセルを踏み込む。だが、その時間差を差し引いても、RX−7の加速は凄まじいものであった。しかし、それは単にRX−7の加速性能が秀でているからという理由だけではない。RX−7がアクセルを開けた瞬間に、一気に空気が変わったかのように感じたのであった。
「……何なんだよ。コイツは。こんな世界があったなんてよ……。」
そして豊は、無我夢中でRX−7のテールランプを追った。
「……だけど、海浜公園の交差点の辺りからはこっちのペースに合わせてくれてな。……思えば、あの瞬間だけが俺が見た歌野の本気の走りだったのかもな。それ以降もよく連んで走りはしたが、バトルって感じで走った事は殆どねぇし。尤も、本気で走られたら追い付けねぇとは思うんだが。……とまぁ、こんなところだ。」
一通り話し終えた豊は、そこでゆっくりと息を吐いた。
「そうだったんですか。そんな事があったんですね……。じゃあ、もしその時歌野さんと出会う事がなければ、豊さんは今もこの場所を知らないままだったかもしれないんですね。」
「そうだな。だから、歌野には感謝してるぜ。あいつが声を掛けてくれたお陰で、俺は今幕張という場所を走っていられるんだからな。……ま、今としては俺もあいつも同じ匂いを持つ者同士だったから、引き合わされるべくして出会ったなんて思ったりもするんだがな。俺の勝手な思い込みだが。」
「いいえ。実際、そうなんだと思いますよ。まるで宿命の如くに一部の人間の心を捕らえて離さないのが、この幕張という空間です。それに気付く人は、遅かれ早かれ此処を訪れるんだと思います。豊さんの場合は、歌野さんとの出会いが切っ掛けとなったという事ですよ。だって、豊さんの言う通り、歌野さんも自分と同じ種類の人間だと思ったから、声を掛けたんでしょうから。」
尊の言葉に、豊はふと呟くようにして言った。
「……結局は、似た者同士の集まりって事か。」
すると、尊はそれに同意する。
「それはありますよね。そういえば、歌野さんと出会ったっていうその話、敏さんが美由と再会した時の話に結構似てるんですよ。敏さんも美由を介してこの場所の存在を知ったそうなんです。」
「え? そうなのかよ?」
「ええ。今度、二人に聞いてみると良いですよ。……そんな風に、自分と似た境遇の人の存在っていうのを、心強く感じられる事もありますからね……。ところで、折角ですからもう少し走りませんか? 私も大分体力回復して来ましたから。」
尊の提案に、豊も素直に応じる。
「そうか。なら、俺の方は一向に構わないぜ。俺もあいつらの走りを見て、感化されてもうちょい走りたいと思ってたんだ。じゃあ、早速行くとしようぜ。」
「お願いします。豊さん。」
それから二人は車に乗り込み、再び周回コースへと出て行った。
そうしてその晩も、幾台もの車が深夜の幕張を彷徨い続けた。自らが進むべき道筋を指し示す道標を求めつつ――。