― 17.古疵(ふるきず)die alte Wunde〜 ―

 

 

 誰しも生きていれば苦い経験というものを味わう事もある。その時に受けた衝撃を引き摺っていたいとは思わない。しかし、忘れたい事ほど忘れないようにと縛り付けてしまうような、そんな疵もある。辛い記憶を消そうと意識すればするほど、それは脳裏に焼き付いてしまう。追った疵痕は消えない。我が身に深く刻み込まれたその疵は時に痛み、自らの意識をあの時へと引き戻す。

 自分で古疵と決別しなければ、いつまでもその疵に悩まされ続ける事は分かっている。それでも纏わり付く過去を振り払う事は容易ではない。いつまでそうして歎き続けるつもりだ? 今では古疵が刻まれた身に対して問い掛けているかのようにすら感じる――。

 

 

 

 

 穏やかな青空からは暖かな日差しが射し込む。車の行き来はそれなりにあるが、街中を歩く人の数は少ない平日の昼間の幕張の街。それでも、海浜幕張駅に電車が停まると幾人かの乗客が降車し、やがて駅の出口からある程度纏まって人が出て来る。その中の一人の少女は、駅から出ると一先ず背伸びをして外の解放感を味わってから、辺りを見回す。

「南口ってこっちで良いんだよね……あ! 居た居た!」

 駅前のロータリーの一角に停まっている蒼いレガシィワゴンを見付け、その少女は嬉しそうに手を振った。レガシィの方もそれに気付き、車を少し進めて少女の許へ寄る。再び車が停まったのを確認すると、少女はすぐに助手席に乗り込んだ。

「ヤッホー、(あね)さん。元気してた?」

 明るい問い掛けに、ドライバーの方も笑って答える。

皐月(さつき)ほどじゃないと思うけどね。ま、それなりに元気にやってるわよ。」

 椎名(しいな)皐月(さつき)――。それが少女の名である。水看が嘗て在籍していた東京の大手チューニングショップBeyond Limitのオーナー椎名柾臣(まさおみ)の娘であり、自身もBeyond Limitでメカニックとして働いている。皐月は水看の事を昔から非常に慕っており、水看の方も皐月を随分と可愛がっていた。それでも水看が幕張へ出て来てから顔を合わすのは、今回が初めてであった。

「平日に工場抜けてこっちまで来れるなんて、流石はオーナーの愛娘よね。私ならそう簡単には許さないわよ?」

「生憎、ボクが居なくなったところで業務には全然支障を来たさないんだよね。姉さんと違って、ボクは大した腕ないし。それにそんな事いったら、姉さんだって同罪じゃない。あろう事か、工場長が昼間っから工場抜け出してるよ?」

「迎えを頼んだのはあんたの方でしょうが。方向音痴だから、バスとか乗って行く自信がないって。」

 こういった皮肉のやり取りも当時は日常的なものだったのだが、そこに懐かしさを感じてしまうところがまた月日の流れを感じさせる。皐月と談笑していた日々。それはイコールBeyond Limitに居た日々の事。皐月とこうして会話しているだけでも、嘗ての想い出が一気に頭の中を過ぎる。

 思えば千葉に出て来てからは、東京の人間と会う事自体が初めてかもしれない。ガレージ木之下はBeyond Limitの系列の扱いになっているので、仕事の関係で柾臣と連絡を取る事はよくあったが、それ以外ではBeyond Limitの関係者との接触は先ずなかった。親しかった皐月でさえ、電話やメールの頻度は稀だった。それは水看自身の事情の故に連絡を取りたがらずにおり、またその事情を知る東京の側の人間も無理に声を掛ける事は(はばか)られたからであった。

「昼ご飯は食べて来たの?」

「ううん。姉さんに何処か美味しい所で奢ってもらおうと思って、朝も程々にお腹空かして来たよ。」

「全くもう。ちゃっかりしてるわね。」

「これがボクの取り柄だから。」

 その事は勿論この二人も意識はしている。水看は皐月が自分を心配して様子を見に来たのだという事は考えるまでもなく分かる事であるし、実際皐月もそのつもりでやって来ている。しかし皐月はその話を切り出さない。

「じゃあ、プレナの一階のロッテリアにでも行こうか。もうちょっと行けばマックもあるわよ?」

「う……姉さん、幾ら自分の奢りになったからって、幾らなんでもファーストフードはないでしょ〜。羽振りの良いとこ見せてよ。社長!」

「といっても、別に幕張名物なんて物があるわけでもないしねぇ。それに、私もよく行くのよ? そこのロッテリア。……ま、流石にそれじゃ可哀相だから、もう少しマシな所に連れてってあげるわよ。」

「流石! そう来なくっちゃ!」

 そしてアクセルに足を掛け、ゆっくりとレガシィを発進させる。今乗っているこの車も、Beyond Limitに在籍していた頃に造ったものだった。レガシィという車種、搭載される水平対向のエンジン。自分の車として使っているものなので、普段は流石に敢えて意識する事はないが、それでも本当はこれらの要素も水看の脳裏に過去の記憶を呼び覚まし得るものなのである。嘗て、自分は何故レガシィという車を選んだのかを考えるならば。

 

 

 海浜幕張駅から少し行った場所にある、幕張ベイタウンと呼ばれる住宅街の一角にある料理店を訪れた二人。席へと案内されて暫くメニューを眺めて注文をする。

「意外と駅から近場なんだね。もっと遠くへ行くのかと勝手に思ってた。」

「別に駅からの距離で食べ物の美味しさが決まるわけじゃないでしょ。まぁ、この距離なら歩いてでも来れるんだけど、だからってわざわざ遠くに車停めて歩く事もないしね。」

「ボクなら歩くよ。というか、走るよ! ご飯前にはお腹空かせなくっちゃね!」

「元気ねぇ。あんた、奢りの時はとことん食ってやろうって魂胆ね?」

「だって此処、バイキングじゃん。幾ら食べたって定額なんだから、姉さんの懐にも優しいよ?」

 そう言っている内に既に皐月の持つ皿には様々な食べ物が目一杯取り分けられている。

「認めるけど、奢られる側の台詞じゃないわね。にしても、欲張り過ぎじゃない? 別に今取らないとなくなるわけでもないんだから。」

「ボク、結構貧乏性でね。こういう時は絶対に元を取ってやるって固く決意してるから。ドリンクバイキングですら、お腹がタプンタプンになるまで飲んじゃうもん。」

 そして山盛りになった皿を自分達のテーブルに置いて来ると、新しい皿を取って再び料理を取り始める。

「あんたねぇ……。」

「大丈夫だって。ボクはなかなかの大食漢なんだから。」

「それでよくそんな痩せたままで居られるわね。ま、考え様によっちゃ燃費最悪な、極めて環境に優しくない子って事だけど。」

「燃費の悪さはフェラーリにも負けないよ!」

 皐月に元気に言い放たれた水看は呆れるが、その表情も何処か明るい。

「いや、褒めたわけじゃないんだけど。……って、それより好い加減取るの止めて先ずは食べなさいって!」

「はいはーい。」

 言われた皐月が渋々と席に戻ったのを確認すると、水看も自分の分を取り終えて同じように席へ帰った。

「あんた背は伸びてないくせに、食う量だけは以前にも増して凄くなってるわね。」

「幾らなんでも、もう背が伸びる事を期待されるような歳じゃないよ〜。」

「だけど、あんたと私の年齢差は永遠に埋まる事はないから、いつまでも子供な印象のままなのよね。」

 水看がBeyond Limitに入った当時、皐月はまだ小学生だった。その頃から皐月は工場をよく訪れており、工員の中では数少ない女性であった水看とはすぐに仲良くなった。彼是十年来の付き合いとなる二人は年齢こそ離れているが、親友と呼ぶに相応しい間柄といえるだろう。だからこそ、皐月はどうすれば水看が無理をせずに“その事”を話してくれるかというのをよく理解しているのかもしれない。今は待つべき時なのだと、皐月は考えているのかもしれない。

「うん、どれも美味しいよ。」

「それは結構な事だけど、もっとゆっくり食べなさいよ。そんな慌てなくても、誰も取りやしないわよ。」

「もう姉さん五月蝿いなぁ。久し振りの再会なんだし、それくらいは大目に見てよ。」

 不満そうな皐月に対して、水看はわざと偉そうな態度で言う。

「久し振りだからよ。私だって姉貴面も長い事やってないし、こういう時こそ発揮しなくちゃね。」

「そういう姉貴風は吹かせてくれなくて良いよ……。」

独立して自分の工場を持つというのはチューナーの一つの目標であるし、それを達成出来た事自体は嬉しくなかったわけではない。しかし水看の場合は、それはBeyond Limitを後にする口実という部分が強かった。だから、その当時に純粋な喜びを感じる事は殆ど出来なかった。それに、Beyond Limitを去るという事に伴って、必然的に後にせざるを得なかった事も多い。こうした皐月との日常の何気ない会話なども、その内の一つかもしれない。

「姉貴風吹かすのが、あんたとのやり取りの基本ってイメージがあるのよ。私には。」

 今までと変わりない調子で言った言葉だったが、皐月には僅かにその言葉に懐かしさが漂っていた事が分かった。

「……しょうがないなぁ。じゃあ、我慢してあげるよ。」

 そして敢えてややもったいぶった様子でそう言った。

 

 

 昼下がりは幕張の街を軽く案内してから、ガレージ木之下へと向かった。業務時間の間は皐月は邪魔にならないように工場の中を見学したりしていたが、辺りが暗くなり始めた頃から次第に工員達は引き上げ始め、やがて水看と皐月だけが残る形になる。水看は今夜も工場に残るつもりであるし、皐月も今日はこの工場で泊まって行く予定である。

 今この時間に水看が作業をしているのは、敏行のインプレッサである。今回は比較的大々的に手を加える事になっているので、日数も掛かっているのである。皐月もただ待っているだけでは暇なので、出来る部分では水看のアシストをしている。

「インプレッサ自体は普通に見るけど、ワゴンで此処までチューンを進めてるのは珍しいよね。」

「走るならワゴンは選ばないし、ワゴンを選ぶ人は走らないし……ってのが普通でしょうからね。本当にインプレッサワゴンが好きらしいのよ。この車のオーナーの子はね。」

 そこで一旦手を止め、それから言葉を続ける。

「たまに居るじゃない。本気で攻めてるくせに、車の方はどんなに性能的に劣ろうとも好きな車を譲らないっていう奴。」

 その言葉には皐月は返事をしなかった。暫しの沈黙があった後に、水看が持っていた工具を置きながら言う。

「ねぇ、皐月。シルバーブレイドって知ってる?」

 水看から発せられるとは思わなかった単語を耳にして、皐月はぎょっとする。

「……姉さん。どうしてシルバーブレイドの名を……?」

 対する水看にとっても皐月の驚き方は度を越していた。その事をやや不思議がりながらも、説明を加える。

「このインプワゴンのオーナーの子が会ってるのよ。少し前に。前々から噂はあったらしいけど、実際に幕張に現れるようになったのは、ここ最近の事みたいね。それで、聞けばその二人の車はBeyond Limitで作られたそうじゃない。私がこっちに出て来てからの話なんでしょうけど。だから、あんたなら少しはシルバーブレイドの事も知ってるのかなと思って。」

 皐月は暫く驚いたままの表情でいたが、やがて気持ちを落ち着けて、ゆっくりと口を開く。

「……そっか。澄香さん達、最近は幕張に出向く事もあるって言ってたっけ。でも、まさかこんな形で姉さんと澄香さん達が繋がるとは思わなかったな……。」

 呟くようにして言う皐月の様子を、水看は尚も訝しむ。

「何だか曰くあり気な言い方ね。」

 すると皐月は壁際に置いてあった丸椅子に腰掛け、軽く深呼吸をしてから水看の方を向いた。

「黙ってたわけじゃないって言ったら嘘になるかもしれないけど、いつかは話さなくちゃいけないと思ってた事だったんだ。だから……話すよ。」

 そして今度はインプレッサの方を見ながら語り始めた。

「姉さんが出て行ってからそんなに経たない頃だったな。シルバーブレイドの二人……澄香さんと博文さんがウチに来たのは。二人とも当時からかなりのレベルだったんだけど、満足の行くショップは見付かってなかったみたいだったんだ。それで色んなショップを巡った果てにウチに辿り着いて、そしてウチを気に入ってくれたわけなんだけど……。」

 そこでもう一度目線を水看の方へ戻す。

「澄香さん達がウチのショップと……正確に言えば、父さんと本格的に意気投合したのは、“あの”S201に乗らせてもらったからなんだ……。」

「え、S201……ッ!?」

 その言葉を聞いた途端、水看が目を見開いた。自らの技術の結晶が生んだ奇蹟の車、そして水看にとっては忌まわしくもあるその車はインプレッサS201をベースとしていた。長らく耳にしていなかった言葉は、水看の頭の片隅でいつも(うごめ)いていた記憶を鮮明に蘇らせる――。

 

 

 

 

 今から(およ)そ三年前の事――。

 

 

 東京の都心からやや外れた場所に位置する街の少し開けた場所に、広大な敷地を構えるチューニングショップ。その世界では名の通っている、Beyond Limitの本拠地である。

 元より、その規模はショップという呼称から想像出来るレベルを遥かに超えており、50台近くを収容する事が可能な駐車場や、それらをメンテナンスする為の整備施設が幾つも並んでいる。潤沢な資金力が可能にする設備の充実度は極めて高く、工場内に並ぶリフトの数も10を超えている。最新式の三次元測定式アライメントテスターや、十分の一ミリ単位での作業が可能なセットフレーム修正機、それにNC加工室までをも完備する様は、もはや生産施設と云っても過言ではない。

 そんなBeyond Limitである日、定休日にも拘らず多くの工員達が集っていた。施設の一角には、メンテナンスを終えた車両の性能をチェック出来るよう、四輪同時測定の可能なシャシーダイナモが備わっている。黒山の人だかりが出来ているのは、その場所だった。そこには、昨晩に完成したばかりの車両が、最終チェックを行う為に測定準備を進められていた。

 シャシーダイナモ上に置かれた車はシルバーとグレーのツートンカラーを纏う。そして、その車のドライバーズシートに座る工員は、静かに目を閉じて心を落ち着けていた。こんな計測作業など、日常茶飯事の如くに行っている。作業自体への緊張などは微塵もない。だが、今身を置いている車のポテンシャルには非常に興味があり、その為に興奮を抑えられないでいた。それでもせめて外見だけは、あくまでも冷静さを保とうとする。

「ハーネス固定、終わったよ。」

 後ろに居た従業員の声に、彼の意識は引き戻された。

「ん。ああ、そうか。」

 曖昧な返事を返すと、彼は姿勢を直し、ボンネットの向こう側で作業を進めている女性工員に声を掛けた。

「木之下。掛けるぞ。」

「どうぞー。」

 エンジンの周りに散らばった工具を片付けながら、水看は明るく答えた。

 ちらりと車の周囲に目を遣り、それからキーを捻る。外部タンクの燃料ポンプが発する、遠慮のない作動音が止むのを待ってから、彼は更に鍵を奥へと回した。軽やかな始動音が響き、ざわついていた工場内が一瞬静まり返ったのを確認する。小鳥の(さえず)りすら聞こえてきそうな静寂に耳を澄ます頃、空気を引き裂かんばかりの破裂音が響き――そして車は目覚めた。

 既に暖気を終えて待機状態に在った車両は、計器類の指示値も安定しており、すぐにでも計測を開始出来る状態にある。二、三度アクセルを煽ってみる。――悪くない。

 シフトレバーを1速へ入れる。十分な整備と適切な改良を加えられたシフトユニットは、巷の噂など何処吹く風で、この上ないほどに心地良く操作が決まる。クラッチはとてつもなく重いが、途中で変な反発が起きる事もなく、コントロールは案外楽である。そっとペダルを放すと、意外なほどスムーズに車は動き出した。四千回点位まで上げてから、シフトアップをする。

 間もなくしてフラッシュの閃光が輝き出す。Beyond Limitでデモカーがテストされる際は、特に最近は決まって取材が伴う。Beyond Limitの知名度を物語るワンシーンである。この車も、栄光と羨望を一身に受けて旅立とうとしているのだ。

 しかし、ドライバーの男はそんなものなど全く気に留めず、テストを続ける。三速に上げる。シフトショックも少ない。2.2kg/㎠というハイブーストを掛けているとは思えないほどだ。更にシフトアップ――四速。

「……よし。」

 床までアクセルを踏み込んだ。瞬間、大気開放型のウエストゲートが開き、形容し難いほどの炸裂音が辺りを満たす。眼前に在るメーター類を凝視しながら、彼は本来感じる筈のない加速Gに、身を(すく)めた。

「何てトラクションだ……ッ!」

 四輪が深く沈み込むような感覚に続き、回転が軽くなり始めた。車体が浮き上がろうとしている。これ以上の踏み込みは無意味且つ危険であると判断し、彼はアクセルを戻した。バックタービン音の咆哮と共に、怪物はその声を静めて行く。ちらりと一瞥した視線の先にあるモニターには、その車――インプレッサと云う車名が嘘に聞こえるほどの数値を表示していた。

MAX・HP 580.8ps/7203rpm at 4th”

 暫しの沈黙が流れる。

「凄ぇ……580psだと!?」

 やがて、モニターの前に居た工員が喚声を上げた。

「信じられんな……。これ、本当にEJ20ベースなのか?」

「流石に下はないが、でも相当に綺麗なトルクカーブ描いてるぞ。」

 それを皮切りに、他の工員達も示されたパワーグラフを見ながら(ざわ)めき出した。しかしこの車の持つ性能に誰よりも驚いていたのが、計測の際に運転席に座りアクセルを踏んでいた男だった。

「EJ20というエンジンを、こんなにも突き抜けるように回す事が出来るなんてな……。」

 彼の名は(いぬい)(つかさ)。此処、Beyond Limitの工員の一人である。何故彼が他の誰にも増してこのパワーに驚いているのか。それは自らの愛機もこれと同じEJ20を積むからであった。但し、車種はインプレッサではなく、レガシィ。司はとにかくレガシィという車に惚れ込んでおり、これまでもずっとレガシィを代々乗り継いで来ていた。

 そして彼自身もメカニックであるので、自分の車はいつも自分でチューンしていた。Beyond Limitで働き始めたのは最近だが、それまで別の工場で働いていた時代から腕は良く、彼のレガシィのパフォーマンスはかなりものもだった。そんな司も、このエンジンの出来栄えには舌を巻いた。

「この車は初代インプレッサの最終兵器、S201よ? その位置付けと見た目に相応しい性能を与えてあげなくちゃと思ってね。」

 モデルチェンジを寸前に控えた2000年春に300台限定で発売されたGC8最後のマシン、S201。後にスバルから続々出されるワークスチューンのシリーズ、S系の先駆けである。質実剛健とも云うべきそれまでのインプレッサのイメージを完全に覆した挑発的なエアロは、前年のモーターショウに登場したエレクトラワンのデザインをほぼ踏襲しており、非常にインパクトのあるものだった。

 その内の一台がBeyond Limitに温存されていたのだが、この度Beyond Limit生え抜きのチューナーによって真のチューンドカーとして生まれ変わった。そのチューナーの名は――木之下水看である。

「元々水平対向は得意な方だけど、今回は限定車がベースって事で気合いも入ったからね。良い出来でしょ?」

 車の横に立ってさらりと言い放つ水看とは対照的に、司は未だに興奮冷め遣らぬといった様子だった。

「ああ……良いなんて単純な言葉じゃ形容しきれないほどにな。」

 そう言って水看の方へ目線を遣ると、水看は少し得意気そうな顔をする。それを見た司は、観念したというように笑いながら首を振った。

「全く、世の中には凄ぇ奴が居るもんだな。俺も長年ボクサーを弄って来て、それなりの自信ってのも持ってたんだが、こいつに乗せられちゃあ、そんなものはいとも簡単に崩れ去っちまうな。こいつは心底惚れるぜ……。」

 司は車に対してそう言ったのであり、その事は水看も分かったが、それでも自分に言われたような気がして、水看は頬を赤らめながら顔を叛けた。

 

 

 翌日、司は明らかに睡眠不足の様子ながらも、機嫌は妙に良かった。

「よお木之下! おはよーさん!」

「お早う。……えらく元気ね。寝不足でテンション狂った?」

 すると司はますます嬉しそうにしながら水看に語った。

「いやー、ホントにお前は凄ぇよ! 昨日ちょいとあのS201を拝借して走りに行ってみたんだけどよ。まぁ、よく走るのなんのって! NSXとかGTOとか、格上でパワーもかなりありそうな車に絡まれたりもしたんだが、全然目じゃなかったからな。」

「NSXやGTO? また珍しいマシンに絡まれてるわね。何処行ったのよ?」

「ああ。ちょっと遠出して幕張の方まで行って来たんだ。首都高でも良かったんだが昨日は事故渋滞で混んでたみたいだし、車通りの少ない所で思う存分性能を試してみたかったんでな。」

 幕張にも走るスポットがあるのか。そんな風に思いつつ水看は言葉を返した。

「そんだけ喜んでくれれば、作った方も甲斐があったってもんよ。乾みたいに走りの技術の方にも長けてる人間に乗ってもらってこそ、そのマシンの真価を発揮させられるってものだしね。」

 その言葉に、司は軽く拳を握りながら力強く答えた。

「おう、任せとけ! まぁ、俺も長けてるって云える程上手いわけじゃねぇが、お前の作るマシンに乗ってりゃ、負ける気がしねぇもんな。」

 それから表情は明るいままだが、やや落ち着いた様子で言葉を続けた。

「ところで木之下。物は相談なんだけどよ……。俺のレガシィを手掛けてみてはくれないか?」

 いきなりそう持ち掛けられて、水看は少し驚いたようにして言った。

「まだあの車一台に乗っただけじゃない。それに、乾だって自分でやれるでしょ? あんたのレガシィだって、かなりのレベルに仕上がってると思うけど。」

 本当は司に頼まれて嬉しかったのだが、その照れ隠しに水看は素直に承諾する事はしない。一方の司は、実感を込めた様子で答えた。

「“かなりのレベル”には達せられるかもしれんが、俺の腕では最高のレベルには持って行けないんだよ。ずっとレガシィに乗り、そしてEJ20と共に走り続けて来た俺には分かる。お前が作ったあのEJ20は、奇蹟とも呼ぶべき仕上がりだ。そんなのを見せられちゃ、自分の車にも載せてみたいと思うのが人情だろ?」

「あんたチューナーの癖に、走りのプライドの方が先に来るのね。……まぁ、仕方ないわね。やってあげようじゃないの。S201に匹敵するほどの出来になるかどうかは、保証出来ないけどね。」

 顔が(ほころ)びそうになるのを必死に(こら)えながら、水看はつんとした態度を装った。

「おう! 頼むぜ! 勿論、俺も出来る事は手伝うからよ!」

 司は心底嬉しそうな顔をしてそう言った。

 

 

 それからの日々は水看にとってこの上なく楽しいものだった。通常業務が終わってから深夜に至るまで、司のレガシィの作業を行う。しかも、毎日司と一緒である。司は自らの約束通り、いつも律儀に水看の作業を手伝いに来た。作業をしながら、二人は他愛もない話に花を咲かす。この時が永遠に続けば良いのに。水看は心からそう思っていた。

 

 

 しかしきちんと作業を進めて行けば、いつかはレガシィのチューニングも完了する。仕上がった車を見て満足すると同時に、司と二人で作業の出来る時間が終わってしまったのだという事に淋しさも感じる。

「ん? 何か微妙に冴えない顔してんな。まだ物足りないってか?」

 司に指摘された水看は、慌てて取り繕う。

「そ、そんな事ないけど。遂に出来上がったんだなって、ちょっと感慨に(ふけ)ってただけよ。」

 水看本人は声がやや上擦ってしまったのではないかと焦ったが、司の方は特に気に留めた様子もない。

「そうだな。結構色々とやったもんな。俺も実際に仕上がった姿を見ると、予想以上の高揚感を感じるぜ。早くこいつでぶっ飛ばしてみてぇな!」

「走らせてみないと本当の性能は分かんないものね。あー……走りに行く時は、私も連れて行きなさいよ?」

 やや詰まり気味に言う水看に対して、司はすぐに快諾する。

「おうよ! やっぱり作り手本人にも乗り味を見てもらわないといけないもんな。」

 他意のない司の様子にホッとはしたものの、あくまでも自分は作り手という認識しかしてもらえていないような気がして、少々不満も感じた。

 

 

 その晩、二人は新たなレガシィに乗り込み首都高へと繰り出した。先ずは都心環状線から9号深川線、湾岸線を通り11号台場線を抜けて環状線へと戻る新環状ルートを走り、コーナリング性能を見る。ある程度新環状線を巡ると、今度は湾岸線を神奈川方面まで一気に下って行く。そして一般車が()けた瞬間を狙ってアクセルを踏み込み、最高速トライアルを敢行する。

「うおおッ!」

 アクセルを踏みながら、司は思わず叫んだ。200km/hを優に超え、シフトを5速に入れても鋭い加速感は失われない。寧ろそこから更に伸びて行くかのようだった。メーターの針は瞬く間に300km/hまで駆け上がって行く。

「これが俺のレガシィかよ……。マジでS201にも引けを取らないほどだな……。」

 恍惚としてアクセルを抜く司。その加速は司の知るEJ20の限界を遥かに超えていた。一方、助手席の水看の方は落ち着いている。

「今更何言ってんのよ。あんたはS201にも勝るとも劣らないような出来を期待していたんでしょ? それなら、これくらいは想定の範囲内じゃない。」

 やや毒の入った言い回しは、皮肉なのか冗談なのか分からないようなものだったが、司は相変わらず余り気にしていないようだ。

「そうだけどよ……。でも、自分のマシンなんだって考えると、感動も一入(ひとしお)なんだよ。

 それでも水看は複雑そうな表情を浮かべていた。

 

 

「木之下はどうしてチューナーになったんだ?」

 湾岸線を下って大黒PAに入り、車を降りて休憩していた時に、司が不意に水看に尋ねた。

「これしかなかったからよ。車もメカも好きだったから、高専を出てそのままBeyond Limit入りよ。まるで当然の如くにね。だから、あんまりどうしてとか考えた事はないわね。そう云う乾こそどうなのよ?」

 訊き返された司は、少し考え込んでから答える。

「俺は、そうだなぁ……。俺も車は好きだったが、メカはそれに付随してくるって感じかもな。走る上ではメカも知っといた方が良いだろうって事で、色々勉強し始めたんだ。」

「それでそんだけの腕に至ったの? 凄いわね。」

「好きこそ物の上手なれって事だろう。それを云うなら、お前だってそうだろ? お前なんて、メカにも興味あったわけだからな。もはや天性の才能って奴じゃないか?」

 司はひたすら水看のチューナーとしての才能を褒める。だが、水看は司にチューナーとして認められたいわけではなかった。それ故に、逆に自分にチューニングの腕がなかったとしたら、構ってもくれなくなってしまうのではないかという怖れが、頭の中を過ぎり始めていた。

「天性の才能、か……。それこそが私の唯一の取り柄なのかもね……。」

 水看は物憂げに呟いた。

 

 

 それ以来、水看は司と微妙に距離を置くようになって行った。水看の側の感情は今までと変わりないのだが、それだけに司と接する事で、自分の魅力はチューナーとしての腕だけなのだという事を突き付けられそうな気がして、司に近付くのが億劫になってしまったのだった。

 司の方は初めは水看の態度に戸惑っていたが、やがては水看の気持ちを察したようだった。微妙な二人の関係は、周囲の人間にも伝わるようになる。その内に水看も司もBeyond Limitに居辛さを感じるようになって行った。

 それから暫くして、司はBeyond Limitを辞めて別のショップへ移って行った。一方の水看はずっとBeyond Limitで育って来た事もあって、なかなか出て行く機会を得られなかったが、一年ほど経った頃になって、柾臣が幕張の方へ支店を出す計画を立て始めた。そこで水看は、その支店へ移らせてもらえないかと頼んだ。柾臣も水看の腕は買っていたし、それに事情も知っていたので、水看を新店舗の工場長に抜擢してくれたのだった。

 

 

 そして水看がBeyond Limitを去る日になって、水看は柾臣に言った。

「親父さん。一つ、お願いがあるんですが。」

「ん? 何だ?」

 改まって切り出された水看の言葉に、柾臣は耳を傾けた。

「あの車を封印してもらえませんか?」

 “あの車”とは、勿論S201の事であった。驚異的な高性能を得たS201は、Beyond Limitのデモカーの筆頭として各方面で活躍していた。しかし水看にしてみれば、S201は司との想い出の象徴であり、そんな車が外部に晒される事には抵抗があった。

「向こうではハードチューンを手掛けるつもりは当面ありませんし、雑誌も読まなければ、S201の話が耳に入る事もないでしょう。それでも、あの車が私の知らないところで人目に付いているのだと思うと、ちょっと辛いんです。……お願いします。」

 柾臣は一瞬躊躇(ためら)った。S201はもはやBeyond Limitの看板車となっていたし、何よりもインプレッサとは思えぬ速さを持つこの車が使えなくなってしまうという事は、柾臣にとって余りにも口惜しかった。それでも、この状況で水看の頼みを断るわけには行かない。惜しむ感情を我慢して、水看の願いを受け入れる。

「……分かった。封印しておこう。」

 その言葉を聞いた水看は、少しだけホッとしたような表情を浮かべながら頭を下げた。

「有難う御座います。」

 そしてその場を後にした。

 

 

 

 

「……その二人が、S201に乗せてもらった!? どういう事よッ! 私がBeyond Limitを出る時、封印してくれって頼んだじゃない! 親父さんもそれを了承してくれた! それなのに……何でよッ!?」

 声を荒げる水看。封印を約束してくれたのも、それを破ったのも柾臣であるのだから、皐月に怒るのは見当違いかもしれない。だが、今の水看にはそんな事を冷静に考えられるほど落ち着いてはいない。例えそれが分かっていたとしても、目の前に居る皐月に物を言わずにはいられなかった。

「私がどうしてあの車を封印してくれって頼んだのか、あんただって知ってるでしょ! どうして止めなかったのよ!」

 対する皐月はただ俯いたままで堪える事しか出来なかった。それは見当違いに当たられて不条理だと思っているのではなく、寧ろ水看が憤るのは尤もな事であると分かっているからだった。そんな中でも皐月は何とかおずおずと口を開く。

「分かってる……。姉さんがどれだけ辛い想いをしたのか……。そして、S201はそんな想い出が詰まった、姉さんにしてみれば禁忌である事も……。」

「そこまで分かってて持ち出したってわけッ!?」

 怒りが収まらない様子の水看を必死に(なだ)めながら、皐月は言う。

「お願いだから聞いて! ……私は勿論姉さんの気持ちを知ってるし、それに父さんだってそれをあっさり無視出来るほど無神経な人じゃない。ちゃんとあの車は封印されてた。表沙汰にするような事は、一度足りともしてない。それは本当だよ。……父さんだって、その時澄香さん達をS201に乗せたのは軽率だったかもしれないって後悔してた。」

 皐月の言葉に水看は僅かに落ち着きを取り戻しはしたが、返す言葉はまだまだ刺々(とげとげ)しい。

「……後悔するくらいなら、そもそも持ち出さなきゃ良かったのよ。約束を反故(ほご)にした事に変わりはないわ。」

 そう言われて皐月は更に困った表情を浮かべたが、そのまま説明を続けた。

「父さんが注目してた新パーツがあってね。それは今使ってるウチのデモカーの34Rに着ける予定だったんだけど、それが届く寸前に事故って潰れちゃったんだ。全治には結構掛かりそうだったんだけど、奇しくもその翌日にパーツが届いちゃってね……。父さん、居ても立っても居られなくなっちゃったみたいで、こっそりS201を持ち出してそのパーツを取り付けて、博文さんに試走を頼んだらしいんだ。……私も後から気付いて父さんを問い詰めて、やっと聞き出した事だから、はっきりした経緯は分かんないけど……。」

 水看に強く言い返されるのを恐れてであろう、言い終えても皐月は顔を上げない。そして水看は皐月の予想通りの対応をする。

「ふん。随分と幼稚な理由で約束を(たが)えてくれたものね。親父さんもそこまで大人気ないとは思わなかったわ。それにあんただって、いつも工場に長居してるじゃない。それでも気付かないもんなの?」

 柾臣は水看がメカニックとしての師として仰ぐ存在である。尊敬すべき人物である筈の柾臣に対して――或いは尊敬するからこそかもしれないが――ずけずけと辛辣に吐き捨てる水看。そしてその怒りはまたもや皐月に波及する。それでも皐月は水看の言葉に楯突く事はしない。

「……また姉さんを怒らしちゃうかもしれないけど、実はあのS201は定期的に整備してたんだ。勿論、真っ昼間に堂々とやるんじゃなくって、従業員の人達も大方出払っちゃった夜中にたまにね……。その……時々は試走も……ね。だから、あの時もS201が倉庫から出て来た事に対しては、何の疑問も抱かなかったんだ……。」

 その説明により水看は再び激昂する。

「倉庫の外どころか、走りにまで持ち出してたってのね。よくもまぁ、そこまでやれるもんよッ!」

 皐月は水看に気圧(けお)されて泣きそうになっている。しかし、今此処で泣いて良いのは自分ではない。そう思って必死に堪えながら、水看に言葉を返す。

「その事に弁解の余地がないのは分かってる。何を言っても許してもらえないのは仕方ないと思う。でも……皆、車に魅せられた人間だから……。あのS201は、そこまでしてでも失いたくない車なんだよ……。その気持ちは、姉さんでも分からなくはないでしょ……?」

 まただ。水看は思った。また自分のチューナーとしての腕前ばかりが取り沙汰され、自分の気持ちはその前に踏み(にじ)られる。あの時もそうだったし、それ以外にも幾度となく経験してきた事。自らに纏わり付いて離れない鉄条網。それは足掻いたところで断ち切れるものでもなく、却って自身に痛みを加えるばかりである。

 それでもこの度は水看は言い返さなかった。感情的には皐月の言葉を全否定したいところだったが、一瞬だけそれを同感としている理性的な自分に気付いてしまった。それ故に、返す言葉を失ってしまったのである。

「帰って。」

「…………。」

 何故自分にそれを言うのだと、戸惑いと非難の入り混じった混乱で打ちのめされそうな表情をしている皐月に、水看は畳み掛けた。

「帰ってって言ってるでしょ!」

 強く言い放った水看はそのまま作業場を後にし、荒々しく戸を閉めて事務所に篭った。途中で皐月が呼んだ気がしたが、振り返りなどしなかった。そしてそこで水看は泣き崩れた。罪悪感やら怒りやら、後悔やらでぐちゃぐちゃで、今にも吐き出しそうなほどだった。とにかくただひたすら泣いて、泣き明かした。

 

 

 

 

 深更の首都高速湾岸線。東京湾沿いを一直線に貫くその道では、今夜も最高速への挑戦が繰り返される。その中でも一際抜きん出たスピードで他車を(かわ)して行くのは、バイオレットグレーのBL5レガシィ。2リッターの排気量には見合わないほどのパワーで、疾風の如くに駆け抜けて行く。それはラグジュアリー的な部分など微塵も残されていない、正真正銘の最高速マシンである。

 やがてその車は大黒PAに入り、ドライバーの男は車から降りて軽く背伸びをする。それからボンネットを開けて、エンジンルームを露出させる。とはいえ、不具合を感じたので点検をする為に開けたのでもなければ、作り込みを見せびらかそうとして開けたわけでもない。エンジンは至って快調である一方で、パッと見には派手さはないのだから。尤も、見る者が見ればこの車が持つパワーユニットが如何に凄いか分かるだろうが。

「……相も変わらず、よく回ってくれるもんだよな……。」

 男がふと呟いた。彼自身もチューナーであり、これまで何基ものエンジンを組み上げて来たが、このレガシィに積まれているEJ20は彼が組んだものではなく、そして今まで彼はこれほどまでに出来の良いエンジンを組み上げた事は(おろ)か、見た事すらない。

「やっぱりお前は凄ぇよ……。」

 何かを思い返すようにしながら男は暫くエンジンルームを眺めていたが、一息吐くと勢い良くボンネットを閉めた。

「今夜も湾岸に轟くは、水平対向の咆哮ですね。」

 声がした方向である後ろを振り返ると、そこにはシルバーブレイドの二人が立っていた。

「今晩は。乾さん。」

「どうも。」

 澄香と博文がそれぞれ挨拶をすると、司もそれに答える。

「おお。お前ら、来てたのか。」

 シルバーブレイドの二人も司も首都高はよく訪れる方なので、必然的に顔を合わす機会も多く、既に馴染みである。

「川崎の料金所過ぎた辺りで見掛けたんで、追おうとしたんですけど、一般車に引っ掛かってる内に見失っちまいましてね。」

 淡々とした博文の説明に、澄香が補足する。

「言い訳染みて聞こえるかもしれませんけど、本当なんですからね?」

 その言葉に、司が一粲(いっさん)してから答える。

「そう言うと尚の事言い訳っぽく聞こえるがな。しかしまぁ、俺としてはそれで助かったよ。流石にお前らに捕まったんじゃ、俺としてもそう長く逃げ切る事は出来ないだろうからな。」

 澄香のフェアレディZは元から3リッターエンジンを積むような車だが、博文の180SXは彼の乗る最終型でもレガシィと同じ2リッターエンジンを搭載している。しかしながらフェアレディZも含め、その外見が原型を余り留めていないのと同じように、パワーユニットの方も更に強力なものと入れ替えられている為、根本的なポテンシャルにおいては司のレガシィの方が劣っているのが事実である。

「レガシィがまともに300km/hオーバーまで引っ張れるって段階で、既に驚異的ですよ。“あの車”と云い、EJ20ってのはそれほどまでに潜在的能力の高いユニットなんですかね……。」

 博文はS201の事を念頭に置いていた。あの日、S201のハンドルを握った博文は、その際に味わった突き抜けるような加速感を、今でも鮮明に記憶している。

「そりゃあ勿論、スバルのEJ20は世界一の性能を誇るエンジンだぜ! ……と、レガシィ好きの俺としては声高に叫びたいところだが、俺にとっては世界一だとしても、残念ながら現実にはそうじゃないよなぁ。少なくとも果てしないパワーを期待出来るエンジンではない。にも拘らずこいつがこれだけの性能を持つ事が出来ているのは、チューナーの腕に由るところが大きいんだよ。」

「お、何気に自らの辣腕をご自慢ですか?」

 澄香が冗談で皮肉ったが、司の方は僅かに表情を(かげ)らせながら言った。

「ハハ。生憎これは、俺が組んだんじゃないんだよ。昔、知り合いにボクサーを組ませると天才的な奴が居てな。これもそいつに作ってもらったんだ。もう何年か前の話になるんだけどな……。メンテは俺の手でやってるが、仕様はその時のまんまだ。」

 それから表情を戻すと、今度は司の方が二人に尋ねた。

「そういや、お前らと会うのも久々な気がするな。相変わらず仕事が忙しいのか?」

 その質問に、博文が答える。

「まぁ、それもありますけど、最近はちょっと別の場所を走る事もありましてね。」

 すると、司はやや意外そうな表情をした。

「へぇ。お前らが首都高以外を走るなんて珍しいな。車の性能からして、他の場所じゃ持て余しそうなもんだが……何処走ってんだ?」

 それに対して、今度は澄香の方が答える。

「幕張ですよ。千葉県のね。」

 その地名を聞くと、司の表情は更に驚きの色を増した。

「幕張……だと? ほぅ……あの場所を知っているのか……。」

「ええ。もう結構前になりますが、たまたま一度幕張に出向いた事がありましてね。それ以来、時々向こうまで行ってるんですよ。特にこいつが気に入ってましてね。」

 言いつつからかい気味に博文の方を指差す澄香。博文の方は不満そうにして――元より、実際に不満だというわけではなく、これがこういった際の博文の応対の仕方の常なのだが――澄香に言い返す。

「……俺だけの所為にするんじゃねぇ。お前だって気に入ってるだろうが……。それにしても、乾さんも行く事あるんですか?」

 続けて博文は司に尋ねた。幕張という単語に対する司の反応は、博文にとってもやや過剰に映ったようだ。訊かれた司は、笑いながらも複雑そうな様子で言葉を返した。

「いや……俺は行かないよ。ただ、俺も大昔に一度だけ走りに行った事があったかな……。」

それからレガシィの方に目を遣って暫く黙っていたが、やがて博文達の方へ顔を戻して話を切り出した。

「……似合わないとは思うが、ちょいとセンチな話を聞かせてやるよ……。先ず前口上として……こいつの車名の意味は?」

 唐突な質問だったが、澄香がすぐに答えた。

「LEGACY……遺産の意ですよね。」

 それを聞いた司は軽く頷き、それから言葉を続ける。

「そう、遺産……。こいつはな、俺にとっての忘れ形見みたいなもんだ。作り手の奴が遺してくれた最高傑作であり……(かつ)ての想い出の片鱗でもある。掛け替えのない時間と云うのは、実際に味わっている時には気付かないもんだ。それが壊れて失われて、初めてその時が自分にとって最高の時だったと知る事になる。だがな……気付いた時にはもう遅い。過ぎ去った時が形作った残骸に縋り付き、思い出に浸る事で、せめて後悔を和らげるのが関の山だ。……ま、それが車であり、しかもこの上ない出来だったが故に、俺は今もこうして“遺産”と共に走り続けているわけだが。」

 語る声は普段の司よりも重みのあるものだが、そう悲観した様子もない。それは時が癒してくれたからなのか、はたまた司の年の功か。司の話は抽象的だったが、何を言わんとしているのかは二人にも大体掴めたようだった。

「……形見は(たと)えですよね?」

 (やや)あって博文が尋ねた。

「最初に投げ掛ける疑問がそれかよ……。まぁ、そうだけどな。作り手の奴は今でも元気してる筈だよ。長い事会ってないから、絶対という確証はないがな。」

 博文に対して回答しながら、司は頬を指で掻き始めた。

「……自分で切り出しといて何だが、話している内に段々小っ恥ずかしくなって来やがった。この話はこれくらいで勘弁してくれな。……何だか喋ってる内に喉が渇いてきたな。飲み物買って来るよ。お前らにも何か買って来てやるから、ちょっと待ってろ。」

 その場を去る為の口実を述べてから、司は足早に自動販売機のある方へ駆けて行った。やがて、司の姿がある程度小さく見えるようになってから、澄香が口を開いた。

「……ねぇ、博文。物事ってのは案外密接に繋がってるものなんじゃないかと感じる私は、勘繰り過ぎかしらね?」

 その問いに、博文は薄く笑いながら答えた。

「さぁ……どうだろうな……。」

 司が以前Beyond Limitに在籍していた事は、博文達も知っている。その司が云う“水平対向の天才チューナー”。そして、水平対向エンジンを搭載する車としては奇蹟的な速さを見せたS201。そこには関連性を感じずには居られない。博文も口でははぐらかしているが、心の内では同意見なのだという事が、澄香には分かった。

 

 

 自動販売機で飲料水を購入している司は、未だに決まりの悪そうな顔をしていた。

「やれやれ。久々に“あいつ”に関する話をしちまったな……。まぁ、良いか。あいつらなら、そんなに変に思う事はないだろう……。しかし、あんな話をしたくなるって事は、俺も実の所は未だに未練たらたらだって事なのか……。上辺はクールを装おうとはしてるんだがな……。」

一人苦笑しながら司は顔を上げた。高架道路が渦巻くようにパーキングエリアを囲んでいる様は、大黒PA特有の光景である。

「……螺旋状に続く道は、同じ所をぐるぐる回っているだけのように思えても、実はそうじゃない。進み行く者を徐々に違う階層へと導いて行く。やがて螺旋の果てに辿り着いた時、自分は進み続けていたのだという事に気付く。ずっと続くと思っていた日々も、いつかは崩壊の時を迎える。……それでも俺は、再びそれぞれの道が交差する可能性を諦め切れていない。そういう事なんだろうかな……。」

 それから司は三本の缶ジュースを手にして、博文達の許へと帰って行った。