― 18.再会das Wiedersehen ―

 

 

 相手との関係において、最初の出遭いというのは非常に重要な意味を持つ。とはいえ、一度限りの出遭いで互いを理解し合う事は難しい。それだけに人は再びの邂逅を願う。その動機は様々だとしても。

 ならば、この場所――幕張においてはどうだろうか? 此処を訪れる者達も、誰かとの出遭いは望む要素の一つである。まだ見ぬ速い相手を求めてこの地を訪れる。そのような相手に出遭えたなら、また再び相(まみ)える事を欲す。そしてその為に再び幕張を訪れる。

例えそれぞれが約束を交わさずとも、集うのは同じ想いを持つ者達。当人達がそれを願いさえすれば、再会は必ずや果たされるだろう――。

 

 

 

 

 深夜の国道沿いの24時間営業のファミリーレストラン。駐車場にはまばらにしか車が停まっていないが、その中には淡紅色のロードスターの姿もあった。幕張を走り込む前に一息入れる為に、此処へ立ち寄っていた。今日は、現在車がない―正確には、代車のムーヴはあるが、そんな車で深夜の幕張を訪れるのは格好が付かないので乗せて来てもらった―敏行も一緒である。

「美由〜。暇だよ〜。」

 敏行が間延びした声で美由に訴える。すると美由は笑いながらそれに答えた。

「敏ちゃん、いよいよ禁断症状が出て来たね。今回は結構長く掛かるって聞いてたから、いつか音を上げると思ってたけど、案の定だね。でも駄目だよ。少しくらいは我慢しなくちゃ。良い大人なんだからさ。」

「そんな事言ってもさぁ。走りに対して気乗りしてるからパワーアップさせようと思ったわけで、そんな時に車がなくて走れないっていうのは、辛いもんなんだよ。しかも、美由達はガンガン走り回ってるっていうのにさ。」

「見事に葛藤に陥ってるねぇ。まぁ、良い意味でクールダウン出来る期間って考えれば良いんじゃない?」

「何言ってるんだよ。美由だって偉そうな事言えたもんじゃないだろ。聞いたぞ? 美由も車乗り換えようと画策してるそうじゃないか。」

 敏行に指摘された美由は、あからさまにたじろぐ。

「う゛……もう知ってるの? 敏ちゃんの情報網、恐るべし。」

「別に情報網ってほどのもんじゃないけどな。水看さんに聞いただけだし。しかし、金の方は大丈夫なの?」

 すると美由は今度は不満気な表情を浮かべる。

「何で皆最初にお金の事に言及するのさ。そりゃ、厳しいのは事実だけど、私だってこう見えても真面目に働いてるんだよ?」

 しかし敏行はそれに対してしれっと言い放つ。

「美由って、今一つちゃんと働いてるように見えないからなぁ。」

「あー! ひどいよ、それ! 私だって汗水垂らして健気に働いてるのに!」

 向きになって言い返す美由を見て、敏行はけらけらと笑った。

 その時、敏行の携帯電話の着信メロディが鳴った。誰からだろうかと思いつつ液晶画面を確認する。それから電話に出ると、相手はアイドリングしたままで車内から掛けているのか、エンジン音がノイズのように耳に入って来た。

「やあ、豊の方から電話を掛けて来るなんて珍しいな。どうした?」

 すると豊は思わせ振りな口調で話し始める。

『聞いて驚け。今、走ってるぜ。“あいつら”が。』

「あいつら?」

 敏行はそれが誰なのか分からず、豊が強調した部分を反復する。

『分かんねぇか? あいつら……シルバーブレイドだよ。」

 その言葉を聞いて、敏行の目の色は一瞬にして変わった。

『周回コースに現れやがったんだ。俺は一周して来るのを待って、追ってみるつもりだ。お前も来る手段があれば来てみろ。次またいつ会えるかも分かんねぇんだしな。』

 話している内に、電話の向こうから一際大きなエキゾーストノートが聞こえ始めた。それが何であるのか、敏行もすぐに悟った。

『来たな。俺は行く。……じゃあな。』

 そして電話は敏行の返事を待たずに切れた。それからすぐに、敏行は電話を手に持ったままで立ち上がる。

「美由。幕張へ急ごう。今、シルバーブレイドが走ってるらしいんだ。豊が追うって言ってた。今から行けば、僕達も出遭えるかもしれないよ。」

 それを聞いた美由は一瞬やや驚いたような表情を浮かべた後に、続いて席を立った。

「うん。そうだね。」

 それから二人は足早にファミリーレストランを後にし、ロードスターに乗り込んで幕張の地を目指した。

 

 

 

 

 轟音と共にH.I.D特有の青白く明るい光が、道の向こうから驚異的なスピードで向かって来る。豊はそれがかなり遠くになる内からアクセルを踏み込んでセリカの車体を加速させたが、それでもある程度速度が乗った頃には、それはすぐ真後ろにまで近付いて来ていた。横に大きく膨らんだブリスターフェンダーを持つ半目の180SXに、一昔前のGTカーのような角張った幅広のエアロを纏うフェアレディZ。闇に輝くそのボディカラーは共に銀色。漆黒の闇夜に輝く白銀の双剣――シルバーブレイドである。

「久し振りだな……。今日はじっくり付き合ってもらうぜ。」

 既に冷や汗をかきそうになりながらも、豊は敢えて不敵に呟いた。シルバーブレイドとの遭遇はこれが二度目。前回は敏行と共に走っている際に出遭いはしたものの、圧倒的な力の前に豊はアクセルを踏み続ける事が出来なかった。だが、今日はそんな情けない形で終わらせたくはない。今回も此方の車の性能は同じであるし、やはり力の差は歴然としているが、それでも豊は限界までアクセルを離さない覚悟を決めていた。

「最低でも青山がやって来るまでは食らい付いてみせるぜ。俺にだって意地があるんでな……ッ!」

 二車線ある道の真ん中を走り、出来る限り二台の動きをブロックしようとする。前へ出る隙間を完全に塞げるわけではないが、シルバーブレイドは二台とも無理に前へ出ようとする気配はない。尤も、かなりアクセルを緩めているのは明らかであり、その事は豊にとって更なるプレッシャーとなるのであった。

「ちッ……。頭では分かってるつもりだったが、実際に伝わって来る感覚ってのは、ホント並じゃねぇな。凄ぇぜ……。こんな奴らが現実に居るってんだからなッ!」

 全開走行に突入してから早々に豊はスクランブルブーストのスイッチをオンにしている。駆け引きをしている余裕などない。初めから全力でぶつからなければ、あっという間に引き離されてしまう事は目に見えている。戦況としては非常に厳しい。だが、その状況を豊は楽しんでもいた。

「一瞬たりとも手を抜く事は許されねぇ。こんな容赦ない相手との戦いってのも、悪くないもんだからな……。」

 これだけ余裕のない状況で僅かでも楽しいという感情を覚えるという事は、それだけ以前よりも精神的に強くなったのかもしれない。その事は走りにも表れる。臆面のない走りでストレートではきっちり速度を乗せ、コーナーでは積極的な攻めを見せる。

 とはいえ、だからといってシルバーブレイドの力量からすれば、追い抜く事が出来ないという事はないのだろうが、それでも二台は未だに後ろに居続けている。まだシルバーブレイドには豊と共に走る意志があるらしい。

「へッ……お手並み合わせてくれて有難よ。まだまだ抑え込んでやるぜッ!」

 難渋しながらも笑みを浮かべる豊には、以前のように戦線離脱したいという想いは全くなかった。

 

 

「こいつは……あの時、“奴”と一緒に走ってた、紅いセリカか……。」

 博文がふてぶてしく口元に笑みを浮かべてそう言った。

「お前には悪いが、俺の期待はお前が呼び寄せるであろう奴にある……。とはいえ……それまでただ待つだけじゃつまらない。お前の相手もきっちりさせてもらおう……。」

 それからわざとアクセルを二回煽って排気音を高鳴らせた後、改めてアクセルを踏み直す。ほぼ真横を走っていた澄香のフェアレディZもそれに追随する。

「博文の奴、気が早いわねぇ。ま、久々に巡り合えそうなんだから、否が応でも胸は躍るってもんよね……。」

真紅のセリカを猛追する二台のマシンは、街頭の光に映し出されて白銀に耀(かがや)く。豊は即時に逼迫(ひっぱく)した戦況へと追い込まれた。

 

 

 

 

 テクノガーデンの交差点から西へ少し行った位置で車を停めて休憩していた孝典と陶冶が、幕張に響き出した轟音に気付く。

「おっと。派手におっぱじめた輩がおるで。」

「この音……一台は豊のセリカみたいだな。」

「豊? ああ、お前の手下か。」

「いつから俺は首領になったんだよ。手下だなんて言ったら、あいつ怒るぞ。」

 そんな会話をしている内に、音の源である車達は猛烈なスピードでハイテク通りの向こうからヘッドライトが近付いて来き、そしてテクノガーデンの交差点をスキール音を上げながら一気に駆け抜けて行った。

「あれは……もしかして、シルバーブレイドか? ……成る程、半端じゃない走り屋みたいだな。豊には少々荷が重いか……。」

 一見した印象を語る孝典の表情を見て、陶冶が口を挟んだ。

「何や、お前。手下が不利な状況に晒されとんのに、楽しそうな顔しよって。厭味な奴やな。」

 その通り、最初にシルバーブレイドだと気付いた時には孝典も驚いていたが、やがてそれは曰く有り気な含み笑いへと代わった。

「だから手下じゃないんだって。しかも、お前に厭味と言われちゃ、俺もお終いだな。俺はあくまであいつにとって良い糧になると思って、温かい目で見守ってるだけさ。」

 孝典にさらりと言い返されて、陶冶はいつも通りの笑みを浮かべる。

「くっくっく。まぁ、そういう事にしといたろ。」

 それに対して孝典は苦笑を返した。

 

 

 

 

 今日食事をしていたレストランは、新都心からはやや離れた場所にあったので、電話が来た直後に出たとはいえ、そんなにすぐには着かない。その事に若干の()れったさを感じ始めた頃になって、ロードスターの車内に敏行の携帯の着信メロディが流れた。掛けて来た相手が誰なのかは、考えるまでもない。すぐさま敏行が電話を取ると、その向こうからはやや情けない感情の漂う声が聞こえて来た。

『……済まねぇ。見失っちまった。最初は食らい付けてたんだが、向こうも途中からかなり飛ばし初めてな。最終的にはこの様だ……。』

 その報告を聞いた敏行も、少し残念そうな顔をした。

「そうなんだ……。久し振りに僕もシルバーブレイドに会えるかと思ったんだけどね……。豊でも追い切れなかったか。」

 すると豊は苦笑しながら答えた。

『ふん。そりゃ、皮肉のつもりか? ……俺だってそうしたかったに決まってるじゃねぇか。だが、今回は以前以上にあいつらに速さって奴を見せ付けられた感じだ。今の俺はまだまだ天辺まで遠い所に居るんだとな……。』

 シルバーブレイドへの感服を述べた内容ではあるが、その声には期待感のようなものも含まれている。豊らしいそんな様子を察した敏行は、同じような感情を抱きつつ薄く笑った。

「たった一度走ったに過ぎないけど、シルバーブレイドの走りは本当に別格だからね。速さの要素を全て兼ね備えた、一種の理想型……。僕はそんな風にすら思ってるんだ。でも……だからこそ、僕もいつまでも敵わないままでは居たくない。僕だってあの人達と対等以上の走りが出来るようになりたい。そう願って止まないんだ……。」

『成る程な……。俺だってあいつらの走りはとんでもないと思ってるが、それにしても青山のシルバーブレイドへの入れ込み様は、半端じゃねぇよな。』

 豊にそう言われて、敏行自身も改めてその通りだと感じた。

「まぁね……。僕にとっては、群を抜いて印象深い走りなんだ。そう、あの日出遭ったS201とそっくりな……。」

 不意に出たS201という言葉に、豊は自分の記憶を辿る。

『S201? ……ああ、そういや以前お前が訊いて来た事があったな。』

「今となっては幻だったんじゃないかと思ってしまうほどだけどね……。まぁ、またその内に詳しく話すよ。」

 今は語る気のなさそうな敏行に対して、豊も深く追求する事はしない。

『そうか……。ま、奴らもまだ幕張に居るかもしれねぇ。お前らも気にして探してみろよ。』

「分かった。わざわざ有難うな。」

 そう言って電話を切る。ドライバーの美由も、敏行が話しているのを聞いて、会話の内容は大体理解している様子である。

「どうする?」

「少しぐるっと回ってみようか。周回コースや15号線に限らずさ。豊も言ってたけど、まだこの近くに居るかもしれないし。」

「じゃあ、今日はシルバーブレイド探しにのんびりドライブって事だね。……まぁ、私も今の状態で出遭ったって、付いて行けないのは分かってるしね……。」

 淋しさと悔しさの交雑した表情で美由は言う。既に乗り換えを決意しているとはいえ、水看の都合もありすぐにとは行かず、今暫くはロードスターに乗り続けなければならない。しかし、一度戦闘力不足を感じてしまった車は、もどかしいと思うばかりで、もはや気持ちを乗せて走る事が出来ない。その為、美由自身の戦意も失われてしまっており、現段階ではシルバーブレイドとの邂逅を望むべくもない。

「もう美由の心は、見切りを付けてしまったこの車にはなく、まだ車種すら決定していない次の車に向いてしまっているという事か……。」

 敏行がそう言うと、美由はやや渋い表情になった。

「……私も全く感傷がないわけじゃないんだけどね。ただ、私は最初に車を選ぶ時も、数ある候補の中から結果としてロードスターを選んだんであって、初めからロードスターが良いと思って買ったわけじゃないってのはある。勿論、これが私の最初の車だし、長い事乗って来たから愛着は湧いてるけど……そこまで強い拘りがあるわけじゃないのが事実かな。そういう意味では、インプレッサ一本気な敏ちゃんが羨ましいかも。」

 時に声の質を尖らせながら話すその様子は、内容としては敏行の言葉を肯定しているものの、不満の感情も読み取る事が出来る。その事に気付いた敏行は、直接的に詫びる事はしないが、余り触れられたくない部分を突いてしまったらしい自分の言葉を弁解するかのようにして述べる。

「まぁね。確かに僕は好きな車が明確に決まってるから、幸せな部分もあると思うよ。でも……いつかはそれが縛りとなってしまう時が来るんだろうけどね。インプレッサはあくまでも中排気量の車だから……。」

 対する美由は複雑そうな表情を浮かべながらも、敏行に返答する。

「でも、あのS201や当銘さんの180SXだって中排気だよ? それを考えれば、敏ちゃんのインプだってそれと同等の可能性を秘めてるって事になるじゃん。ロードスターはそうは行かないから。」

「当銘さん? ああ、シルバーブレイドの男の人の方か。まぁ、あの人らのマシンなんかは中身も本当に中排気量のままかは相当に疑わしいもんだけどな。……だけど、実際にインプレッサや180SXがとんでもない速さで走る姿を目にしているのも事実だからね。それは美由の言う通りなんだろうな。」

 穏やかながらも満足そうな反応をしている敏行を見て、それが自分が言った事に対するものであるにも拘らず、今一つ釈然としない様子であった。

 

 

 やがて暫く走っていると、道端にコンビニが見えて来た。

「ちょっと寄って行こうか。私、喉渇いたし。」

「そだね。」

 美由の提案に敏行もすぐに同意し、ロードスターはコンビニの駐車場へと入る。車を降りた二人はゆっくりと店内へ向かう。

「敏ちゃんも何か買うの?」

「そうだなぁ。折角だから、僕も缶コーヒーでも買って行くかな。」

「缶コーヒーかぁ。私、缶コーヒーってどうも買う気にならないんだよね。変に甘いし、味も特に良いわけじゃないし。」

「そりゃ、美由の家柄だろう。あんだけ良いコーヒーが家で飲める環境にあれば、そんじょそこらのコーヒーなんかは飲めないだろうね。僕も缶コーヒーだって飲めるってだけの事で、やっぱりあの喫茶店のコーヒーには到底及ばないと思うよ。」

 他愛無い会話をしながら店内へ入った二人の脚は、店内に居た人物を見ると同時に止まった。いや、固まったと表現した方が良いかもしれない。そこに居たのは、自分達が今探している人間であり、且つこの場所で会うとは予想だにしていなかったからであった。

「……ん?」

 雑誌を立ち読みしていたスーツ姿の男が、二人の様子に気付いて訝しむように顔を向けた。

「おっと。よもやこんな所で遭遇するとはね。」

 レジで買い物を済ませていた同じくスーツ姿の女も、やはり敏行達を見て声を掛ける。

「当銘さんに高瀬さん……ッ!?」

 美由が思わず呼称した通り、そこに居たのは紛れもなくシルバーブレイドの二人なのであった。未だ驚きの表情を残す敏行と美由を見て、博文が眉間に(しわ)を寄せながら言う。

「……何だ。その『どうしてこんな所に居るんだ?』とでも言いたげな顔は。」

 博文自身は軽い気持ちで言ったのだが、敏行達が博文の性格を知らない事と、博文の生まれながらの顔付きの為に、二人は睨み付けられたと思って慌てる。

「い、いえ。別にそんなつもりじゃ!」

 本気で焦っている敏行を見て、博文は失敗したといった様子で頭を掻いた。一方の澄香は、そんな様子をさも可笑しそうに笑った。

「確かに貴方達とはそれぞれ幕張で一度会ったきりだから、ああいう場所以外でのイメージがないんでしょ? でも、それを云うなら私達の側だって同じなんだぞ?」

 すると、美由がやけに大袈裟に納得する。

「ああ、成る程! ……でも、私達もそんな風に見えます?」

 その問い掛けに、澄香も博文も同意する。

「だって、現実に幕張で出会った時の貴方達しか知らないんだもの。ああいう場所って、真夜中という時間的なものも相()って、生活観とかは感じようもないじゃない。その時は、互いにドライバーとしてしか意識しない事も多いでしょ。」

「……が、実際は俺達もお前達も四六時中走ってるわけではなく、それ以外の活動もする普通の人間だ。だから、俺だってこうして雑誌を読む事もあれば、飯を食う事だってあるってわけだ。」

 シルバーブレイドの二人が話すのを頷きながら聞く美由の隣で、敏行はやや呆気に取られたような表情をしていた。敏行はかつて二人と幕張で出遭った際に一言ずつ言葉を交わしたに過ぎないし、しかもその言葉が強烈に脳裏に焼き付いていた為、それがそのまま二人に対する印象となり、威光すら感じていた。それ故に、彼らと再び合うのはやはり幕張であろうと思い込んでいた部分があり、こんな場所でこんな風に会話をするという事を、敏行は全く考えた事がなかったのだった。

「ま、あんま店内で喋繰(しゃべく)ってても何だし、続きは表で話そっか。あんた、本は買わなくて良いの?」

 澄香に訊かれた博文は、素っ気無く答える。

「別に何となく目を通してただけだ。」

「そ。じゃ、私らは先に外出てるわね。」

 それだけ言うと、澄香達は店内を後にした。

「ほら。私達も買うもん買うよ。敏ちゃん、幾ら何でも呆然とし過ぎだって。」

 苦笑気味の美由に促されて、敏行もようやく平静を取り戻して商品棚を物色し始めた。

 

 

 ロードスターを停めた位置からは気付かなかったが、駐車場の奥の方には迫力のあるワイドボディを備えた銀色のマシンが二台佇んでおり、博文と澄香もそこに居た。

「お前、今日はインプレッサじゃないのか?」

「え、ええ。今はちょっと行き付けのショップに預けてあるんです。だから、今日は美由の車の助手席です。」

 博文の問いに対して、敏行は今度は落ち着いて答えたが、未だ若干のぎこちなさは残っている。

「貴方も水看さんの所でやってもらってるの?」

 澄香の口から水看という名が出て来て、敏行は少し驚いた。

「美由ちゃんのロードスターも、水看さんの所で見てもらってるって言ってたから、そうなのかなと思って。私らの車、インタークーラーにロゴが入ってる通り、Beyond Limtでお世話になってるのよ。だから、水看さんの話は小耳程度だけど聞いた事があるのよね。」

 説明を受けて感心している敏行に対して、周知の美由は別の観点から澄香の言葉に答える。

「な、何か高瀬さんにちゃん付けで呼ばれると、やけに子供扱いされてる気がする……。」

 何かと実年齢より若く見られがちなだけに、美由はちょっとでもそういった扱いを受けると、明らかに不服そうにする。そんな美由を見て、澄香はわざとらしく含み笑いを浮かべる。

「そう? でも、私よりは年下だろうから、良いじゃない。」

「でも私だってもう免許取れる程の立派な大人なんですよ?」

 背伸びしながら胸を張る美由。だが、そこで博文が呟くようにして突っ込む。

「……そういう態度をするのが、子供っぽく見える事の証拠だ。」

 それが的確な指摘だったのか、或いは流石の美由も博文がそんな発言をするとは思わなかったからなのか、その言葉に美由は大きくたじろぐ。その後、すぐに不貞腐れたが。

「う……。そ、それはそうかもしれないですけど……。」

 その様子に澄香が今度は少し声に出して笑った。

「ま、そんな歳でそれだけの走りが出来るんだから、見上げたものだけどね。」

 打って変わって急に褒められた美由は、意外そうにしながらも複雑な表情も入り交じらせた。

「そうですか? ……でも、前に走った時は高瀬さん達にペースを合わせてもらっただけだし、まだまだ遠く及ばないですよ。」

「それはまぁ、車のパワーの差があるもの。私らは湾岸なんかも走ってるから、それなりにパワーのある車に仕上げてあるからね。それでも相手の腕前ってのは、走る姿を見れば何となく分かるものじゃない。ねぇ?」

 そう言って博文の方を向くと、博文の方は何で自分に話を振るんだといった表情をしながらも、澄香の言葉に続いた。

「性能を限界まで引き出せているのか、車に弄ばれているだけなのか。精一杯の攻めなのか、余裕()ましてるのか。そういう雰囲気は自然と滲み出て来るもんだろ。……さっき追って来た紅いセリカもな。奴もお前らの連れだろ? ……良い走りしてたぜ。」

 博文の言葉に、敏行は少し考え込んだ。それからややあって、顔を上げてふと尋ねた。

「当銘さんと高瀬さん……でしたよね。お二人はどうして幕張へ走りに来てるんですか?」

 その質問の意図がすぐには掴めなかったらしく、シルバーブレイドの二人はややきょとんしとしたので、敏行は説明を付け加える。

「幕張でもごく頂点に位置する人なら、技術も車もお二人に匹敵するレベルだと思います。でも、僕達もそうですけど、この場所に来る走り屋の殆どは敵わないと思うんです。普段は首都高を走ってるそうですし、わざわざ幕張まで走りに来られるのが、正直不思議ではあったんです。」

 美由とのやり取りを見て、敏行もシルバーブレイドに対する近付き難さが多少は解消されたようだが、それでもまだおっかなびっくりといった様子が完全には拭えていないようだ。そんな敏行に、博文は相変わらず表情を変えずに答える。

「……この場所の雰囲気が好きだ。それだけじゃ、理由として不十分か?」

 その気持ちは敏行にもよく分かる。今日も自分の車がないにも拘らず、美由の助手席に乗ってこうして此処を訪れているほどである。しかし、博文や澄香の口からの答えとしては、それは釈然としなささを残すものだった。博文もそれは予想していたのだろうか。更に言葉を続ける。尤も、それも敏行を充分に納得させるものとはならなかったのだが。

「……ま、人には色々と思い入れってのがあるもんだろ。そういう事だ。」

 博文の言う「思い入れ」とは何なのか、敏行にはそれが非常に気になったが、それでも追求する事はしなかった。いや、まだ残る緊張感から、訊く事が出来なかったといった方が正確かもしれない。ただ、先の言葉を口にした時の博文の表情に、僅かに変化があったような気はした。

「まぁ、首都高には首都高の、そして幕張には幕張の特有の雰囲気があって、そのどちらもお気に入りって事よ。」

 澄香の言葉も、博文の発言の補足というよりは、言い直しに過ぎない。

「それとも、俺達は幕張の空気にそぐわないか?」

 博文が尋ねると、敏行は力一杯否定する。

「いえいえ。それどころか、僕よりもずっと真夜中の幕張が似合ってると思います。ただ……当銘さん達の走りを見てると、以前此処で一度だけ見た、僕にとって強烈に印象的だった車の走りと重なるものがあって……。」

 敏行がそこまで言うと、博文と澄香は一瞬顔を見合わせた。それに気付いた敏行は言葉を詰まらせたが、やがて博文がポツリと呟いた。

「……そうか。お前は、俺らの走りにそんなイメージを持ってくれているのか……。」

 やけに嬉しそうな含みを持って聞こえるその言葉の意図がさっぱり分からず、敏行は(ほう)けた。それに構わず、今度は澄香が口を開く。

「とにかく、貴方達は貴方達の可能性を信じて走り続ければ良いのよ。全ての舞台が整えば、自然と幕は開くものだから。……そして、きっと私らが望む舞台も、幕張にあるのよ。」

 その言葉も敏行達には真意の探り難いものだったが、シルバーブレイドの二人は幕張に対して、敏行達の想像以上に思い入れが強いという事は感じ取れた。それは敏行達にとって、自分達と同じ想いを持っているという共通点が見付かったように思え、遠かったシルバーブレイドの存在が僅かながら縮まったような気がした。

「そうですね……。僕も幕張は大好きですよ……。」

 敏行の答えはシルバーブレイドの二人に対するものとしては筋違いだったのかもしれないが、それでも博文も澄香も怪訝な顔を浮かべる事はなく、何より敏行自身もこの場に在って始めて穏やかな様子で笑顔を浮かべた。

「さて。私らはそろそろお(いとま)しようかしらね。明日もある事だし。」

「そうするか……。」

 自らのフェアレディZに軽く腰掛けていた澄香が立ち上がると、博文も手にしていた缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。

「またね。敏行君に美由ちゃん。」

「じゃあな。」

 それだけ言うと、二人は車に乗り込んでエンジンを掛け、ゆっくりと発進させてその場を後にした。残された敏行と美由は、その音が聞こえなくなるまで、二台の走り去った方角を見詰めていた。

 やがて、美由が敏行に言う。

「敏ちゃんってば、可笑しなくらい構えてたね。あれじゃ、却って失礼だよ。」

 言われた敏行は、恥ずかしそうに笑った。

「そうは言っても、僕があの二人と普通に会話したのは、今日が初めてだったんだから。特に当銘さんなんて、見た目ガチガチに硬くて、まともに話し掛けられるか不安なくらいだったんだからね。」

「まぁ、それは分かるけどねぇ。というか、あれでも充分硬いと思うけど。敏ちゃんのイメージはよっぽどだったんだね。もはや同じ人間として認識してなかったんじゃない?」

 その言葉に敏行はますます苦笑いを深める。

「否定は出来ないなぁ。技術的な格差を痛感させられてたから、それがそのまま当人達への印象になってたんだと思うよ。……だから、今日はこうして会う事が出来て嬉しかったかな。生憎、走りにおける差はあの日から殆ど縮まってないんだろうけど。」

 しかしながら今日の敏行は、そこで悔しさを滲ませる事はしない。そして満ち足りた敏行の様子は、美由にも伝達する。

「それでも少しはシルバーブレイドに近付けたと思うよ。私達だって更なる速さを求めて、日々走り続けているんだからさ。いつかはあの人達に追い付ける日も来る筈じゃない。」

 そう言いながらロードスターの方へ目を遣る。この車を捨てて別の車に乗り換える事を始め、全てはより速い領域に達する為の事。その積み重ねは、いつか自らを果てしない速さへと引き上げてくれる。そう信じているからこそ、この場所へと身を投じる事が出来るのである。

「そうだな……。僕達は僕達の可能性を信じて走り続ける……。高瀬さんの言ってた通りって事か。」

 敏行の言葉に美由も静かに頷いた。そして暫くの穏やかな沈黙が流れた後、敏行が少し軽い口調で言った。

「間接的ながらこの機会を設けてくれた豊に感謝だな。」

「噛ませ犬っぽい役割になっちゃったから、ちょっと情けなくはあるけどねぇ。」

 そして二人は高らかに笑った。

 

 

 

 

「へーックショイ!!」

 豊の豪快なくしゃみに、同じ場にいた孝典が驚く。

「どうした突然。風邪か?」

「いや、そんな筈はねぇんだが……。」

 豊は少し不思議そうな顔をした。

 

 

 

 

 それから暫し後。東京に帰ったシルバーブレイドの二人は、別れ際に再び車を降り、顔を合わせていた。

「……彼は、あの日の事をはっきり覚えているようね……。」

 澄香がそう言うと、博文は目を閉じて軽く笑った。

「フッ。有難い事だ。僅か一度限りの出遭いを、しっかりと記憶に留めてくれていたとはな。」

「忘れられちゃってたら、ちょっと寂しいものねぇ。」

 手を広げながら首を振る澄香も、その様子は何処となく嬉しそうだった。

「……今でもあの日の奴の走りは脳裏に焼き付いたままだ。圧倒的な力量の前に挫ける事もなく、ただひたすらに追い続けて来たあの姿を、俺は忘れる事が出来ない。雨降りの夜は、それが自然と想い出されるほどにな……。」

「私も、あれは鮮明に思い出せるわ……。あの日、あの走りを見せた彼の精神は、時が経った今でもしっかり生き続けているようだしね……。」

 ふと空を見上げると、東の空が既に白み始めていた。その方角を――幕張も位置するその方角を、二人はゆっくりと眺めた。

 

 

 ――俺達はあの日……お前の走りに救われたんだ。