「いや……なんつーか、色々考えちゃって……。」
翌週のガレージは、打って変わって昼間から宴会ムードだった。七輪やら何やらまで持ち込み、家族を連れて来ている仲間も居たりして、普段とはまた違った騒がしさだったが、俺はその雰囲気に乗り切れていなかったようだ。
「何がよ〜?」
サーキットで質問をして来た御子柴さんが蒸し返すのは理(ことわり)だろう。そこそこ酔いが回ってる風なのが気にはなるが。俺が答えようとしているのに、八木原さんに呼ばれて焼き立ての椎茸に気が取られている辺り、如何にもといった感じがする。何でも、八木原さんが自家栽培したものらしい。ホイール磨くだけが趣味の人ではなかったんだな、と思った事は口が裂けても言えないが、元より椎茸嫌いな俺でも美味しく頂けたほどの一品なので、御子柴さんの行動へも一定の理解を示せなくはなく、苦笑いを浮かべながら聞く態勢に戻ってくれるのを待つ。
「……走んのも、こうやって弄ってんのも嫌いじゃないんですよ。ただ……。」
答えようとはしたものの、それ以上言葉を続けるのを躊躇(ためら)って口篭(ご)もってしまう。きっと、サーキットの時もそんな感じで有耶無耶(うやむや)にしてしまったのだろう。
「この間のは仕様(しょう)がねぇって。俺ら、20年近くも車馬鹿やってんだからさ。ロードスターとかの若造達だって、学生フォーミュラとかやってたメーカー開発の奴らだぜ? 付いていけなくても誰も下手糞(へたくそ)とか思わねぇよ。」
言いながら新たに缶ビールを開ける茂沼(しげぬま)さんは、黒地にオレンジで、一際大きなGTウイングを付けたハチロクトレノの人だったか。無論、この人にも筑波ではぶち抜かれている。
「そうそう。サーキットも初めてだったんだろ? 皹(ひび)入ったラジアルであんだけ行けりゃ、上等だよ。こっちはSタイヤ履いてた奴だって居たんだしな!」
椎茸を頬張りつつある御子柴さんに言われては真剣みに欠けるが、その言葉は慰めというよりは事実の指摘だろう。
「あぁ……まぁ……。」
それはちょっと筋違いなんだけどな――と思いつつも、訂正すれば真意を吐露せざるを得なくなるわけで、曖昧な返事を返しつつ暫くは黙々と飲食に勤(いそ)しむ事にする。御子柴さんや茂沼さんは特に気に留める様子もなかったので、そのままやり過ごせるかと思ったが――。
「……つーか、付いて行けねぇとかじゃなくて、熱くなれねぇで困ってる……って事じゃないの?」
比較的無口な印象で、実際今までも七輪の番に徹していた八木原さんが、椎茸をひっくり返しながら独り言(ご)ちるかのように言った。それが余りにも核心を突いていて、俺はドキッとしたが、八木原さんの言葉に驚いたのは俺一人だけだったようだ。
「お〜い、言い難(にく)そうだから外堀から行ってんだろうがよぉ……。その辺、察してやんなよなぁ。」
「そうだそうだ。こうゆうテンションの奴は、ロンシャンとデートする時みたいに丁寧に扱ってやんなよなぁ?」
周囲から集中砲火を浴びた八木原さんは、七輪の火を眺めたまま苦笑する。
「ワリィワリィ……つい、な。俺結構ホラ、空気読めねぇから。」
口先では一応謝っているものの、手をひらひらさせるその様は全く悪怯(び)れていない。そんな事は知ってると大袈裟に笑う御子柴さん達。
――何だ。とっくに気付いていたのか。これじゃあ、隠し通せてると思っていた俺が馬鹿みたいじゃないか。御子柴さん達も、人が悪いな――。悪感情はないが、せめて心の中では悪態を吐かずにはいられなかった
そして、そうと分かってしまえば、今の自分が抱える悩みを打ち明ける事に、勇気などは要らなかった。
「いや全然……マジ、そういう感じです。サーキット行くの面白いし、此処で手伝ったりしてて車の弄り方結構解ってくのも楽しいし。別に走りで御子柴さん達に付いて行くないのは当たり前でしょうしね。……そこは気になってるわけじゃないんですよ。地道に練習あるのみでしょうから。」
先ずは遠回りに話を始めたのは、感謝の意も含めた気遣いのつもりだ。
「……だから自分でも、何でこう引いた感じになっちまうんだろうなぁ……ってね。」
それから本題を切り出した――のだが、宴会ムードの騒がしさは変わらなかった。
「おーい! それ触んなよ!危ねぇぞッ!」
御子柴さんが機材の周りで遊ぶ茂沼さんの子供達に注意を促す。その時は俺の話など聞いていないのかとも思ったが、子供達がトコトコと此方へ戻って来たのを確認すると、さっきとは打って変わって神妙な面持ちで俺の方を見ながら頷いた。
「……成る程ねぇ。」
集まっている面子(めんつ)の中では失礼ながら一番適当な性格で、しかも最も酔っ払っていそうな御子柴さんだが、赤み掛かった顔に浮かべる含み笑いは何もかも見透かしているかのようで、俺は再び凍り付いてしまった。
「……あれだな。意外と車の事以外のことが気になってたりしてな?」
缶ビールを持ったまま俺の方に突き立てられた御子柴さんの人差し指が、いよいよ逃げ場をなくさせる。
「……車以外の事……ですか。」
目を背けつつ言う俺は、果たしてどんな表情をしていたのだろうか。
「彼女が出来ねえ……とか、な。」
相変わらずの姿勢の八木原さんが、今度は的外れな事を言う。――無論、実際はそうではないのだが。
「そりゃお前だろうが! まぁ、無くはねぇけどよ。」
すかさず反応した茂沼さんが「無くはない」というのは、果たして自分の事なのか、俺の事なのか。そんな事を考えて逃げようとするのを許してくれないのは、やっぱり御子柴さんだった。
「……あれか? この間言ってた、会社の。」
気付かぬ筈がないか――。寧ろ、あんな俺の与太話を覚えていてくれた事に感謝すべきなのかもしれない。事情を知らぬ茂沼さん達は不思議そうな顔をしたが、其方(そちら)には構わず御子柴さんに答える。
「あぁ……そうですね。あれも、結構あるかも知れないですね……。」
いよいよ苦笑いすら浮かべるのも難しくなる。
「何、辞めてぇの?」
ただ「会社」という単語から推察したのみだろうが、それでも茂沼さんの問いが筋を得ていないわけではない。
「いや……。今すぐどうしたいってんじゃないんですけど……ね。」
答え難そうなのを見かねてかどうかは知らないが、御子柴さんが代わりに説明してくれる。
「遣(や)り甲斐みたいなのが見っかんなくて困ってんだと。」
「遣り甲斐ぃ? 仕事ってのは金だよ金。若者よ。」
御子柴さんも茂沼さんも、傍(はた)から見れば酔っ払いの騒ぎでしかないだろうが、今の俺にはそうは映らず、話を続けた。
「まぁ、そこまで大層なもんじゃないんですけどね。でも俺、結構やる気満々で会社入ったんですよ。今時珍しく。やる気満々だったから、先輩とかも仕事よく教えてくれて。仕事楽しくて、ガンガン働いてたんで、すぐ金溜まりましたね。インプレッサも思ったよりも早く買えちゃったんですけど……会社の方が楽しかったからあんま走んなくて。自分で言うのもあれですけど、仕事的にはかなり順調でした。」
確かにあの頃は楽しかった。希望に満ち溢れていた。そして、故に今の俺は苦悩しているのだ。
「凄ぇじゃん。」
茂沼さんの笑う表情を見て、自慢に取られてしまったかとも思ったが、自慢になるのならこんな話もすまいと、勝手な自問自答をする。
「でも、ちょっと前に先輩に『このまま行きゃ、あっという間に係長だよ』って言われたんですよ。そん時かな……初めてちょっと気になって。このまま係長とかになって、その後は部長になって、課長になって……。その後どうすんのかな、ってとこまで考えちゃって。」
大企業に就いて、昇進して行く。社会的に見れば、この上ない成功とも呼べそうなものなのだが――。
「そいつは……飛躍し過ぎなんじゃねぇか?」
団扇(うちわ)で火を調整する八木原さんの言葉と同じ事を、俺も考えた。
「まぁ、結局はそうなんですよね。……けど、それが自分は結構気になっちゃって……。そしたら、そんな矢先にかなりでかい大ポカやらかしちゃったんですと。発注間違えちゃって、相当な額パーになっちゃったんです。ちょっと前の事なんですけどね。途中で気付いたんですけど、割と大きな会社なのが災いして、一回動き出しちゃうと止めらんなくて。ま、クビにはなんなかったけど、営業の方に転属って事になって。そんで……。」
「うちに来るようになったのか。」
順調な出世コースから外れた――というのは言い過ぎか。今までが順調過ぎただけの事だ。
「そうなんです。でもまぁ、それはしょうがないんですよ。自分がやっちまった事だし。ただその後、碌(ろく)に引継ぎも出来なかったんですけど、次の人意外とちゃんとやってるんですよね。……調子付いてた頃は、自分がこの部署を回してるんだくらいの勢いだったんですけど、今となっちゃ、自分が居なくたって十分回るんじゃないかって思い知らされてるかみたいで、ちょっとショックだったりするわけですよ。」
大企業が故の事か――。自分一人が回せる歯車など、高々(たかだが)知れており、そんな自分が居なくなったところで、会社は何一つ変わらず動いて行く。分かっていた筈なのに、自分の身が晒(さら)されて始めて、それを実感させられたのだった。
「ああ……分かる分かる。」
「自己否定の世界だぁな。」
御子柴さんと八木原さんが続け様に笑う。ただ、いつもの如何にもオッサンらしい品のない笑いではない。何処か遠慮がちで、心の底では笑い切れないような、そんな感じだった。――俺よりも遥かに社会人の経験が長い人達だ。俺と同じような、若(も)しくはそれ以上の経験をして来ているのだろう。それでも、あっさりと相槌を打たれてしまった事へ、少々の抵抗を感じながら。
「……まぁ、確かに飛躍し過ぎな感じはありますけどね。でも、ちょっと凹んでる最中……って事、なのかな……。サーキット行って、皆が熱くなってんの見て、少し恨めしくなってるとこなのかも知んないですわ……。」
言っている自分でも、真意が分からない。ただ、ずっとモヤモヤしていた感情へ、先日のサーキットでの一件が何らかの形で働き掛けて来ている事は確かだった。咀嚼(そしゃく)している極上の椎茸を味わう余裕もないほどに――。
それから暫く、俺はガレージには顔を出さなかった。
若造のつまらない愚痴を快く聞いてくれた、心の広い人達ばかりが集まる場所にも拘(かかわ)らず。
――だからこそ、認めたくない自分の今の心情を突き付けられているかのようで、辛かったのかも知れない。
そんな自分を打開したくて、彼らの真似をしてみたりもした。八木原さんのようにホイールを外して必死に磨いてみたり、帰り道で全開をくれてみたりもした。けれど、所詮は真似事に過ぎず、あの人達のように心から望んでそうしているわけではないという段階で、根本的に異なっている。行き所のないモヤモヤ感が、それで収まる筈もなかった。
「……あの頃の俺は、どうしてあんなにも車が好きで好きでしょうがなかったんだろうな……。」
楽しさの余り、ひたすら一身に走りに明け暮れていた嘗ての自分が、今の俺の過去だというのが、いつしか信じられなくなっていた。
そんな折、サンプル製品の小口納品があり、俺は久し振りに稲城エンジニアリングに出向く事になった。
中途半端に期間が空いてしまったし、何よりも自分が敢えて訪れていなかった場所である。気乗りする筈もないが、仕事なのだから行かないわけにもいかない。せめて、御子柴さんには会わずに済ましたいところだが――。
元より、そんな風に願う時に限って、望まない方向へ事は運ぶものだ。
専務室を出るところまでは良かった。
「では、ご検討宜しくお願いいたします。失礼します〜。」
満面の笑みでお辞儀をした後に向き直ると、途端に顔を強張(こわば)らせて辺りを伺う。
よし! 会わずに逃げられそう――。
「お! 来てやがる! 最近ガレージ来ねぇから、死んじまったかと思ってたぜ〜。スローアウェイのサンプル持って来たか!?」
――ま、そんなもんだよな。
「やっべ。見つかっちった。サンプルは今、専務に渡しときましたよ……。つぅか、こっそり消えようかと思ってたんだけどなぁ。」
苦笑いを浮かべながら歩く俺に、御子柴さんも歩調を合わせつつ、豪快に笑う。
「こっそりじゃねぇよ。バンにデカデカと書いてあんじゃねぇか。本気でバレずに逃げられると思ってたのかよ? ……ってか、そんなのはどうでも良いんだよ。休憩だ休憩! ちょっと付き合えや!」
いきなり腕を掴まれた俺が、抵抗出来るわけもない。
「いやいやいや。まだ三時前でしょうが!」
そう言うのが精一杯の俺など構わず、御子柴さんは俺を引き摺ってズンズンと進んで行った。
「テストカット終わったから良いの!」
俺は良くないんですけど。
「……海浜でゼロヨン?」
まるでゼロヨンとは何ぞやと問うてるかのような間抜けな俺の質問を気にも留めず、御子柴さんは話を進める。
「あぁ。もうすぐ正月だろ? いっちょ、パーッと盛り上がろうってわけよ。」
ガハハハッと豪快に笑うその様は、どちらかといえばプライベートで酔っ払っている時のような感じだ。今の俺には、それが気を許してくれている証拠であると分かるのだが、
「暴走族オヤジだなぁ。またテレビの走り屋特集ドキュメンタリーかなんかに写真撮られんじゃないんですか?」
それはあるかもな、と再び笑いながら同意しつつも、続けて落ち着いた表情で詳しい話をしてくれた。
「走んのは俺じゃねぇけどね。知り合いのL型やってる奴がテストがてら、正月はいつも走んのよ。青山君も前は幕張走ってたんだろ?」
けれども俺の方は相変わらず、御子柴さんに自分の走り屋としての過去を触れられる事に抵抗を感じてしまう。言葉に詰まりそうになっているのを悟られないよう、先ずは口を開く。
「一応はね。といっても、走ってたのは周回とか15号とかばっかで、海浜ゼロヨン自体はあんま知らないんですけど。でも、30Zもゼロヨンだと未だ現役って感じですよね。」
幕張がゼロヨンのステージとしても有名である事は、俺くらいの人間でも聞き及んでいる。ゼロヨン界で旧車が元気なのは、雑誌を見て知っている程度だが。
「だろ。熱いよなぁ。最近は公道走ってない青山君でも、観に行くくらいなら、そんなに抵抗ないだろ?」
物言い自体は相変わらずなのに、節々の言葉はポイントを押さえているのだから、此方からすれば性質(たち)の悪いものだ。何となく居心地の悪さを感じつつも、表面上は乗り気なように繕う。
「ま、ギャラリー族も今は共同危険行為とかで捕まるらしいですけどねぇ。」
苦笑いを浮かべつつ、御子柴さんに切って返す。
「おめぇも似たようなもんだろうが。同じアホなら、踊らにゃ損なんだよ。」
確かに、と御子柴さんと一緒になって大笑いした自分が、途端に空しく感じられてしまった。
「ほれ。缶コーヒーくれてやるから、ちゃんと来いよ。取り敢えず、水曜はガレージ集合な!」
何処からか持ち出して放り投げた缶を、俺は辛うじて受け取る。
――そのまま笑顔で踵(きびす)を返せていれば、その場をやり過ごせていただろう。だが、缶コーヒーを手にした俺は、途端に表情を沈ませて立ち尽くしてしまったのだった。
「…………。」
御子柴さんがそれに反応しないわけがない。
「……どした?」
そこでようやく、俺は自分がどんな表情をしているのか気付いた。そして、最早(もはや)取り繕うには遅過ぎる事にも。
「いや……なんつーかな……。この間、ああいうつまんねぇ事言っちゃって、また行って大丈夫かなぁ……って。」
俺は言い淀(よど)む俺の肩を、御子柴さんは勢い良く叩いた。
「若造の与太話なんか、誰も覚えちゃいねーって!」
しかし俺の予想に反して、そう言って続いた笑い声は、すぐに消えた。
「……それより、言ってくれて納得したっていうのが、本音かな。」
急に落ち着いた表情になった御子柴さんを前にして、俺は観念するしかなかった。
「……そっか。やっぱ、分かってたんだ……。」
やはり、年長者は察しが良い。稚拙な俺の演技で騙せる筈もないか。
ようやく諦めのついた俺だったが、しかし出来るのは相変わらず苦笑したままでいる事だけだった。
「まぁ……。そんなら、大丈夫なんですけど……。」
何が大丈夫なのか、自分でも突っ込んでしまいたくなったが、御子柴さんは構わず話題を本論へと向けた。
「まぁ、来てみろや。見せてぇのが居るんだよ。」
「見せたい奴?」
こんな俺にわざわざ見せたいと思うようなものとは何なのか、流石の俺も多少の興味が湧いた。
「……そりゃ、どういう……?」
「おっと、そいつはお楽しみだな。まぁ、煮え切らねぇ若者に、火ィ付けてやろうってな! とにかく、水曜に来てみりゃ判るさ。」
けれども、肝心の部分を教えてくれるつもりはないらしい。俺は訝(いぶか)しむ間も与えられず、御子柴さんにその場から追い立てられてしまった。
「何だってんだよ……。」
バックミラーに写る御子柴さんに、せめて独り言で文句を垂れてはみたが、誘いに対する答えは既に決まっていた。
「ま、行きますよ。そんなに熱心に誘ってくれるんじゃあ……ね。」
本人に聞こえるわけもない返事を、俺は独りごちた。
抵抗を感じつつも、熱さを取り戻したいと願う自分が居る。入り混じる気持ちに苦笑しつつ、俺は貰った缶コーヒーを開け、口に含んだ。常温で保管されていたであろう生温い温度は、今の俺に最も相応しいのかも知れないな――。
「……このまま車やめんのは、ちと勿体ねぇ感じするしな。大人が背中蹴っ飛ばしてやんのが、筋だろって。」
走り行くADバンを見送った御子柴が、二本目の缶コーヒーを開けつつ含み笑いを浮かべていた事など、敏行は知る術もない。
「しっかし、煙草やめると口寂しくていかんなぁ……。太るかな、こりゃ。」
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