#002-01



 光を手に入れる事で、人は闇を恐れなくなった。僅かな月明かりに頼らずとも、自らの利器で光を照らし出し、夜闇を消し去る。それに伴い、人は太陽の巡りに関係なく行動するようになった。例えどんな時間帯であっても、生活がままならなくなるような事はない。――コンビニエンスストアとは、それを最も象徴するものといえるかもしれない。


 深夜1時。街はすっかり静まり返っているが、それでも店内には数人の客が居る。元より、その多くは立ち読み目的の客であるが。この店は雑誌の納品時間が早く、既に今日発売の漫画雑誌が入荷しており、それを目当てに訪れる彼らは、ある意味では常連客である。
「ったく。数時間立ち読みしまくった挙句に何も買わないで出て行く奴も居るし、ああいう連中も暇だよなぁ。」
 バックルームで廃棄を登録する六島(ろくしま)さんが、不満そうに溢(こぼ)す。深夜業務は客が居ない事を前提に行うものも多く、一人でも客が居ればそれだけで多少なりとも進行が妨害されるので、どうしても疎ましく感じてしまうとは六島さんの弁だ。
「今日はまだ良いんじゃないですか? お目当てのヤンジャンは、付録付きで輪ゴムで綴じてありますし。まぁ、そのお陰でこっちは手一杯でしたけどね。10冊以上入って来る雑誌での付録は、勘弁して欲しいですよ。」
「女性誌じゃないから、まだ良いだろ。あの暴力的なボリュームは、ホント腹立って来るからな。」
 言いながら徐(おもむろ)に出たばかりの廃棄のおにぎりを手に取り、腹拵(はらごしら)えに頂く事にする。規格変更の名の下に新発売のステッカーが貼られているが、大して以前と変わっている気がしない。
「お? 良いのか? こんな時間に食って。寝る前に食うのは、良くねぇぞ。」
 そういう六島さんも、サンドイッチを開封すると、あっという間に完食してしまう。
「良いんですよ。私も結構夜行性でね。まだ暫くは寝ないですから。」
「あんだよ。それなら朝まで働いて行けよ。僕なんて、今日は朝の9時までだぜ? 徹夜+早朝は一番辛いんだよ。」
 働いて行けというのは勿論冗談だが、それでも苦笑いを浮かべるその表情からは、本当に辛さを感じる。
「それは断じて嫌です。じゃ、失礼しまーす。」
 それに対して満面の笑みを返した私に、六島さんは再び苦笑しながら手を振った。


 基本的に空調の効いた店内に居るので、外に出ると空気の冷たさを感じる。コンビニへの行き来には原付を使っているのだが、僅かでも寒いと思える時期に乗るには、余り向いていない。何せ、こないだ同僚のおばさんから、原付で走る時の体感温度は−14℃だそうだと聞いた。それならば、これくらいの温度でも走り出せば一気に氷点下だ。実感としても、実に納得出来る。
 私は免許どころか自分の車だって持っている。自宅からやや距離もある事だし、車で来る方が普通かもしれない。でも――私は通勤に自らの車を使う事は、決してない。今までも、そしてこれからも。だって、私が"あんな"車に乗っている事など、最早誰にも知られたくないのだから――。


 私が仕事場から原付で向かったのは――自宅ではない。その近くにある、駐車場の方だった。
 深夜1時上がりというのは、実に好都合だった。そのまま"彼(か)の地"へ向かえば、絶好の時間に訪れる事が出来る。
 原付を脇に停め愛車へと乗り込み、エンジンを始動させると、聞き慣れたエキゾーストノートが響き渡る。それ程特徴のない直4サウンドとはいえ、自機のエンジン音とはやはり特別なものだ。暖気の間、それに耳を傾けると、気持ちが高揚すると同時に、落ち着いて行く。――今夜もまた、私が待ち望んで止まない時が訪れようとしている。
「さぁ、行こう。幕張へ……。」
 街灯に照らされて蒼(あお)く輝くそのマシンは、ゆっくりと駐車場を後にした――。




 千葉県幕張新都心――。整然としたビルや巨大施設が立ち並ぶも何処か閑散としたその光景は、宛(さなが)ら廃れた未来都市のような雰囲気を醸し出している。現実に居ながらにして、恰(あたか)も虚構の世界に紛れ込んだかのような錯覚――。
 そして此処にはもう一つの"非現実"が存在する。昏(くら)き闇夜に誘われ、何処からともなく集う走り屋達。繰り広げられるスピードの競演。鋭く流れる景色は、時として自分の存在ですら飲み込んでしまいそうに感じられる。
 しかしただそれだけが走り屋達を此処へ誘う理由と言えるのだろうか――。
 その先に何かを望むのか? その場に何かを期待するのか? 或いはその故さえも求めるのか? 彼らの眼前に映るのは無限に続く道か、それとも――。
 



 見慣れた街並み。しかしそれは、日頃生活しているその街とは違う。見慣れた路上。しかしそれは、普段通っているその道とは違う。
 新都心は私が住む住宅街からもそう遠くないが、様相はまるで異なる。特に、深夜というこの時間は――。
 人気(ひとけ)は殆どない。ビル窓に点(とも)る灯(あか)りもかなり少なくなって来ている。何処となく寂しげに見える街灯の光に照らし出された路面を、異常な速度の光が轟音と共に駆け抜ける。一台、また一台――。幾台かの車が、海浜幕張駅周辺の一定のコースを、ひたすらに廻り続けている。
駅前大通、海浜大通、公園大通、ハイテク通。この4つの通りを、それぞれが交わる交差点で結んだのが、通称「周回コース」と呼ばれる、走り屋ご用達のエリアだ。大雑把に見れば、ストレートと直角コーナーで構成された長方形の形をしており、激しいストップアンドゴーを繰り返す、タフな周回路である。
集う者達は、車も腕も様々。それでも、比較的本格派の多いこの場所で、更に一際鋭い走りを見せるマシンが在った。細目の精悍な顔付きに、丸目四灯のテールランプ。前と後ろでは全く別の車種を思わせるその車が彩られるは、深き蒼――。
「……………………。」
 それを事も無げに操るドライバーの瞳には、群がる他車の存在など、映っていないのかもしれない――。




「来ましたね……。」
 待っていたサウンドが、幕張の街に響き始めた。来るなりそれほどまでにエキゾーストノートを荒げては、気付かずに居る事の方が難しいほどだ。
 美由と約束していたわけではないが、彼女の仕事のシフトは知っている。故に、今日此処を訪れる事は分かっている。――いや、確信していると言った方が正確だろう。美由が来ない事など、あり得ない。それは誰よりも、私が一番良く知っている事なのだから――。
 全身の鋼(はがね)を漆黒に染め上げられたマシンに身を置き、私は息を整える。

 馴染みの場所に、馴染みの車に乗って、馴染みの相手を待つ。それなのに、平静を保って待っていられた試しはない。鼓動はひたすらに速くなり、それを落ち着けるのだけでも必死だった。特に最近はそれが顕著だ。
 挨拶がてら、軽く一緒に流す。美由はそのつもりだろうし、私だってそうしたい。けれども、私の側にとってそれは難しい。美由は日に日に速くなっており、今の私には流し気味に走る美由に付いて行く時でさえ、かなり神経を研ぎ澄ませて走らなければならない。だから、いつからか美由は、私に合わせて走ってくれるようになっていた。私がそれほど無理をせずとも付いて来られるように――。
 しかし、それはそれで不甲斐ない。だって、私は――。

 美由とは別型の丸目四灯を備えた黒きマシンのブレーキランプが、静かに消えた。
「行きますか……。」


 待機していた公園中通からハイテク通へと飛び出すと、後方から迫る蒼いマシンはすぐに私の存在に気付いてくれた。美由もまた、私が現れると分かっていたのだろう。すぐに速度を落とし、私が追い付いて来るのを待ってくれた。
「…………ふふッ。」
 一瞬、思わず自嘲的に笑ってしまったが、すぐに気を取り直し、四肢に力を込める。合流してすぐのテクノガーデンの交差点を抜けると、国際大通へと入る。「駅前ストレート」と称される、全長1km以上に及ぶ長い直線だ。二車線と狭いものの、直線の多いこのコースの中でも最もパワーを試される場所である。
 ある意味ではこのセクションだけが、美由と走っている時に唯一安心していられる場所かもしれない。買った時から2.5リッターターボがスワップされていたこのマシン。美由よりもパワー的には優位である。速度が高まれば、精神的にも走りそのものにおいても緊張度は高まって行くにもかかわらず、心には何処か余裕が出来て行くのを感じる。
だから、此処が私の一番のお気に入りだった。少なくとも駅前ストレートを走る時だけは、例え美由がフルスロットルで走っていたとしても、私は追う事が出来る。限られた区間のみでの事ではあったとしても、その事実は私に幾許(いくばく)かの自尊心を与えてくれる。

 けれども、その時も長くは続かない。1km強のストレートも、全開で駆け抜けてしまえば、時間的には僅かなものである。やがて迫る、幕張海浜公園の交差点。速度の乗った状態から飛び込む直角コーナー。今は軽く流しているだけなので、交差点のかなり手前からアクセルを抜いているのだが、まだ普通の車ならばリミッターが効く程度の速度は出ている。ついさっきまではスピードに安堵していたくせに、今は打って変わってスピードに恐怖している。
 ブレーキを踏まなければそのまま突っ込んで行ってしまうだけだ。かといって、踏み込み方を誤れば車体は大きく体勢を崩す事だろう。極度の緊張状態の下、コーナーの突入に備えようとしている私の眼前には、当たり前のようにクリアして行こうとする蒼きマシンの姿が在った。傍から見れば、この程度のスピードからの進入など造作もない事と思わせるほど、自然に。
 しかし、私はそれを追うだけでも精一杯だ。ブレ―キングの長さ。アクセルを踏み込むタイミング。ライン取り。そのどれをも間違ってはならないが、同時にその全てを正確に行うよう私に求めるのは、酷というものだ。成るべくそうしようとは努めるものの、交差点を抜けて海浜大通に差し掛かる頃には、美由のマシンとの距離はやはり開いている。
 そもそも、今は勝ち負けを競っているわけではない。多少引き離されたところで、美由は私を待ってくれるだろうし、例え大きく引き離されようとも、大した意味を持つ事はない。それは当たり前の事なのだから。

 ――心の底からそう思えていたのなら、私もこんなにムキになることはないだろう。
「……私はまだ縋(すが)る……縋ってみせる。だって、私は誓ったんですから……。」
 呟く私の目は、きっと座っている。ランデブー走行にはそぐわない瞳を、私はしているに違いない。
 当たり前だと分かっている。分かっていても、気持ちの奥底で分かり切れていない。そんな感覚だろうか――。いや、美由にとっては何の価値もないであろう今の走りの内容も、私にとってはそうではない。――"誓った"のだ。誰に言った事もなく、誰に縛られる事もない、内奥での自らの誓い。自分にしか意味を持たず、故に自分にとっては大きな意味を持つその誓約。――私は片時たりとも、忘れた事がない。




「尊も速くなったね……。」
 ともすれば生意気な台詞にしか聞こえないその言葉は、独り言だからこそ言えるものか。誕生日の関係から、尊の方が先に免許を取ったし、走り始めたのも尊の方が早い。だけど、気付けば私は尊の前を走り続けていた。――こういう言い方をすると、尊の技術を扱(こ)き下ろすようで何なのだが、速さを競う者として在るのだから、こんな風に見てしまうのも止むを得まい。
 尊のR32が積むRB25と同じように、中古で買った私のマシンも最初からS14顔のシルエイティだった。だが、搭載ユニットはSR20のまま。S14ベースにライトチューンを加えられたエンジンの出力は、せいぜい250psといったところだ。それ自体に不満はないが、ノーマルでも280psを放つR34のRB25をボンネットに抱え込む尊に対して、幕張エリアではかなり分が悪い。
 この周回コースも、その大部分を占めるのはストレートだ。単純にパワーのある車の方が有利であるし、それを卑怯などと思うわけではない。――寧ろ、だからこそ抗ってみようと思うのだ。四つ角の直角コーナーは車線も狭く、バトルにおける構成比は実際の距離よりも遥かに重い。一周の内、勝機は僅かに四度。残りは全て相手が有利。――ならば、全身全霊をその四回に掛けるのみ。自らが得意とする、そのコーナリングで――。
 ギリギリまでブレーキを我慢し、少しでも早くアクセルを踏み込む。ともすれば暴れ出そうとするマシンを、絶妙のステアリング捌(さば)きで押さえ込む。見浜園の交差点を抜けて暫くしても、後方から照らすヘッドライトはない。――これが快感なのだ。オーバーステア気味にセッティングされた我がマシンを支配しながら、よりハイパワーのマシンを一気に突き放す、この瞬間こそが。
 大分引き離したか――。そう思いつつ、ハーフスロットルで尊のスカイラインを待つ。
 ――確かに尊は速くなった。それでも私は、その先を走り続ける。尊に限らない。他の誰よりも速く、彼方へ――。何処までも自信過剰で、そして慢心な想い。同時に誰しもが持つであろうこの願望に掛ける美由の想いは、強い。――この場所こそが、生きる術(すべ)なのだから。
 見浜園から続く公園大通は途中から非常に緩く、しかし長く左右へとうねる。道幅も二車線と狭く、理想のラインは限られて来る超高速S字コーナーへ、それまでは尊に合わせて流していたのにも拘(かかわ)らず、敢えてアクセルを踏み足して飛び込んで行く。本人は軽く遊んでいるに過ぎない。――後を追う尊の方は、嫌な汗を滲ませていた事だろうが。
 走るからには、速くなりたい――誰しもが少なからず抱くその想い。けれども私が抱くそれは、少し意味合いが異なる。そう考える私は、自惚(うぬぼ)れているのだろうか? ――多少はそれも許されよう。私にだって、色々あったのだから――。
 雑念を過(よ)ぎらせている内に、黒きマシンのヘッドライトは私の姿を明々と照らし出していた。そうでなくちゃ。相手の隙を逃してはいけない。この場所に集う主たる目的は、馴れ合う事じゃない。戦う為に集っているのだ。その様こそが、闇に沈んだ幕張に相応しき姿なのだから――。

 ――その刹那、対向車線を擦れ違った車に、気が行った。周回コースは右回りが基本。反対側を走る車に、戦闘意識はない筈だ。それに、通った車だって珍しいものではない。シルバーのGT−Rなど、この時間帯ならばちょくちょくお目に掛かれる車種だ。出(い)で立ちも比較的派手だったようには思うが、多分気が取られた原因はそれではない。その醸し出す雰囲気に、一瞬気圧(けお)されたような気がしたからだった。

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