#002-02



 何周この街を巡っただろうか。やがて私がハザードを炊きながら減速し、公園中通へと入って行くと、尊の車も付いて来る。私達以外にも走る車は幾台もおり、劈(つんざ)くようなエキゾーストノートが絶える事はない。それでも、自らの車から降り立つと夜の静けさが感じられ、走りに昂ぶった体にはなかなか心地良い。
「いやぁ、今日は結構長めに走っちゃったね。」
 軽く伸びをしながら尊を見ると、彼女の方は少し草臥(くたび)れた様子だった。
「そうだね……。私はもう、いっぱいいっぱいだよ。」
 確かに尊はスタミナ面ではかなり弱い方に分類される。高校時代の同級生もある尊だが、当時から持久走ではいつも下位争いのグループに居た事を覚えている。
「今日はちょっと仕事が長引いちゃって、帰って来るの遅くなっちゃったからね。10時くらいには寝たんだけど、いつもと比べると少し寝足りないって感じかも。」
 尊は私と違い、暦通りの事務職に就いている。深夜に走りに来るというのは、それなりの調整が必要になる。元より、そういった人間が大半を占めるのが世の中であり、だからこそ深夜の公道は走り屋の巣窟となるのだが。
「そっかぁ。それならしょうがないよね。」
 深夜の走りに生活ペースを合わせている私のような人間など、そう多くはないし、例え望んだとしても事情がそれを許さない人が大半だろう。私はまだまだ走り足らないし、そもそも走る事自体が生活ペースの一部みたいなものなのだから、本当は帰るつもりはないのだが、余り寝ていないという尊にまで無理にそれに付き合わせては悪いだろう。
「じゃあ、今日は早めに帰った方が良いんじゃない? 私もこれくらいで引き上げても良いかなって思ってたし。」
 ――うーん、後の言葉は要らなかったかな? 一瞬、発言を修正しようかとも思ったが、
「……うん。そうだね。そうさせてもらうよ。」
 もしかしたら尊には、「今日はそういう気分じゃないから、一人にして」という意に取られたかもしれない。そんな風にも思ったのが、尊は私の提案を受け入れてくれたので、自らの発言を悔いる必要はないと考え直した。実の所、今はそういう気分であるのだが、取りようによっては無下に追い返しているとも取られ兼ねない私の物言いに言葉を荒げるどころか、私の気持ちを汲んでくれて、嫌な顔一つせずに放っておいてくれる尊は――ちょっとお人好(ひとよ)しかな。
――でも、そんな気の利く親友が在るからこそ、私はこの場所に居ながらして安心感を覚えられるのだ。
「明日もちょっと忙しそうなんだ。今日はもう帰って寝とかないと、仕事もそうだけど、また次に走りに来るのも辛くなっちゃうしね。」
そっか。それなら良かった。私の提案は、間違いではなかったのだ。
言葉に出さずとも、内心安堵したところで、
「だから、美由はまだ残ってなよ。こんな程度じゃ、美由からしたらまだまだ走り足らないでしょ?」
 親友は欺けないと、思い知らされる。――ふふッ。やっぱり尊には勝てないな。何もかもお見通しだ。
「……流石(さすが)鋭いね、尊は。そうだね……やっぱりもう少し走ってく事にするよ。」
 尊の言葉は、嫌味なんかじゃない。私の事を良く理解してくれた上での台詞である事は分かっている。
 ――だから、私の方がもう少し上手い言い方が出来れば良いんだけどね。
 自分で突っ撥ねておいて何だが、いざ尊が帰ると分かってしまうと、寂しさを感じてしまうのだから、私も我が儘(わがまま)なものだ。けれども、走り足りないのは事実だし、今更尊を引き留めてもしょうがない。
「ちょっと気合い入れて走ってみようかな。……そう、誰も追い付いて来れないくらいに、ね。」
 少しだけ思わせ振りに、格好付けてみただけのつもりだった。でも、私が言うと余りにも意味深に聞こえてしまうだろう。私にとっての走りはそういうものだし、その事を尊が最もよく理解してくれているだろうから。
「大丈夫だよ。だって、美由は最速だもん。」
 そう言って私に向けられた満面の笑みは、闇に堕ちた幕張という場所に在って、余りにもそぐわないほど優しいものだった。
だけどそういうところが、尊らしいんだよね。私が男だったら、絶対惚れてるよ――。心ではそん事を思っても、口に出すような気分にはなれない、ねじ曲がった自分の表情を尊に見せるわけには行かないと、振り向く事はなく手だけを振って車に乗り込んだ。
「有難う……じゃあね。」
 籠(こも)った声ながら礼を言えただけでも、私にしては上出来かな――?
 荒っぽくアクセルを踏み込んでその場を後にする。バックミラーに映っているであろう、尊の姿を確認する事もなく。




 最速――。私達のような人種の者達であれば誰もが口にする言葉ではあるが、本気でそれを追い求めている者は、果たしてどれだけ居るのだろうか。誰しも憧れる甘美な響きではあるが、実際にそれを手にする事は極めて難しく、特に公道においては定義だって実に曖昧だ。
 それでも、私は本気で最速を目指している。少なくとも、中排気量クラスではそれなりの成果を収めているつもりだ。勿論、この場所には私のシルエイティの倍以上の馬力を叩き出すようなマシンを繰る人だって居るし、現状で"最も速く"在る事は不可能だが、いずれは真の意味でその領域へ達してみせる。伊達や酔狂ではない。だって、走りで後(おく)れを取るという事は――私の生き方を否定されるに等しいのだから。
 マシン性能で特筆すべき点がないからこそ、後は腕で勝負するしかない。それだけに、当然ながら同程度の相手に負けるわけには行かないし、多少の性能差ならば腕で覆してみせる。ストレートでは多少遅れようとも、コーナーで一気に差を詰め、そして抜き返す。その瞬間こそが、私は最も生きていると感じられるのだから――。

 そんな私を追い続ける人間こそが、酔狂というものなのかもしれない。――そう、尊だ。ずっと走り続けて来て、変わらず一緒に居たのは、尊くらいのものだ。他の人間は、大抵が走りに飽きるか、私に愛想を尽かすかで、いつしか離れて行った。――私に走りを教えてくれた人ですら、前者だったのだから。いや、或いは後者でもあったのかもしれない。


 昔、実家が営む喫茶店に、大学生のバイトの人が居た。
真っ赤なターボのインプレッサワゴンに乗っていたその人は、本当に車が好きらしく、事ある毎に嬉々として私に車の話を持ち掛けて来たものだった。私も車にはそれなりの興味があったので、喜んで話を聞いている内に、18歳になる頃には免許を取って走りだすのが必然となるほどまでだった。
 でも、その人はそれよりも少し前に大学を卒業してウチの喫茶店も辞めた。その後もメールでは暫くやり取りしていたものの――時経つ内、車に飽き始めていたのは明白だった。
 寂しかった。泣きたくなるくらいに寂しかった。私に車の事を教えてくれた"師匠"が――そして少なからず想いを寄せていた人が――車への情熱を失ってしまった事が。だって、車は私とあの人との繋がりだったのだから。
 しかし、その頃の私は既に分かっていた。それは珍しくない事なのだと。走りに極端な情熱を傾ける人種は、極めてマイノリティなのだ。例え、私の"師匠"であったとしても、例外ではない。
そして対照的に私は堕ちていた。走りに異常な情熱を傾ける人種へと。
まるで反比例するかの如く過ぎ去ってしまったあの人との道筋。後は行けば行くほど離れるのみ。もう、あの人と出会う事はない。出来はしないだろう。

――だけどもし、あの人が走り続けていたら? 一度(ひとたび)の邂逅が叶うとしたら?

そんな想いが過(よ)ぎる事もあったが、走りに没頭していればそれも忘れられた。
――どんな雑念も、この場所を走っている瞬間だけは全て忘れられる。ただ無心に、貪(むさぼ)るようにスピードを追い求めているこの瞬間だけは。怒涛の如く迫り来ては流れ去る景色が、私の感情をも押しやってくれる。走りが私に一握りの"生(せい)"を与えてくれているのは確実だった――。

アクセルを踏み付ける右足が。
クラッチを蹴り飛ばす左足が。
ステアリングを振り回す右手が。
シフトレバーを叩き込む左手が。

四肢の全てが自分のものとは思えない。視界共々、感覚が麻痺しているかのようだが、浮ついた意識の中で、私はマシンを適確にコントロール出来ている。
まるで、別の私がドライブしているみたいだ。最近、特にそう思えてしまう。
本質の私は、闇の中でこんなにも消極的な想いばかり抱いているのに、上辺(うわべ)の私は、日常で愛嬌を振り撒いている。それが出来てしまう自分が、尚の事嫌いだった。
「……………………。」
 また浮かぶ嫌な考えを消し飛ばすには、アクセルを踏み足せば良いだけの事。闇は私の精神の投影。深く、もっと深くへ――。
「……追い付ける筈がない。誰も……私に……。」




取り残されてから暫くは、自棄(やけ)を起こしたかの如くに荒っぽく走り回っていたが、それも何だか空しくなって来たので、再び車を停めて少し息を吐(つ)く事にした。
海沿いの大通りは幕張のもう一つの走り屋スポットで、私達は通称「15号線」と呼んでおり(実際の県道15号線はもう少し手前で、あくまでも通称)、最高速重視のマシン御用達のコースだ。そこから一本入った細い道で暫(しばら)くぼんやりする。
だが、初めは比較的静かだったものの、俄(にわ)かに騒がしくなり始めて来た。通るのは如何にも走り屋然とした車ばかりだが、皆攻めている様子はなく、そして一様に東の方へと向かっている。
「こりゃ、今日は港でお祭りかな……。」
港湾地帯は取り締まりが厳しく、走り屋達は普段余り寄り付かないようにしている。私も滅多に訪れる場所ではないが、特にゼロヨンをやる人達は、稀に一大イベントの如く集まる時がある。きっと今日はその日なのだろう。
 私ももう少し気分が晴れやかならば、観戦に行くのも吝(やぶさ)かではないが、今はとてもそんな気になれない。セミバケのリクライニングを思いっ切り倒し、私は意識を無理矢理暗闇に捻じ込んだ。

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